1)豊洲移転の中止とその地下を掘り返しての微量有害物質の無理やり検出は、無駄なことを大衆の拍手をあびながらやっているように見える。築地市場から引っ越すべきかどうかを環境基準で決めるのなら、平等に築地の地下もほって何か有害物質が検出されないかどうかチェックすべきではないのか。築地の地下に汚染が無いという確信があるのか? 豊洲もどこもかしこも、もっと深く掘って徹底的に調査しなくて良いのか?例えば微量の有機水銀が出るかもしれないではないか。
 
小池氏のパーフォーマンスのために連日テレビは非科学的な放送を行っている。地下の水を飲むわけでもないのに、リッターあたり10mg程度のベンゼンがふくまれていたとして、なにが問題なのだ。もちろん、検出されないに越したことはないが、現実的対応という政治の要諦を忘れているように思う。それで無知な都民を興奮させて、なにをしようというのか?
 
あんな量のベンゼンなど、深く掘ったところの地下水から検出されたとしても、現実問題として食の安全に無関係だ。我々は合成有機物の中で生きている。医薬、消毒薬、農薬など、微量ではあるが、環境基準に匹敵するくらいのそれら有機物がいたるところにスポット状にあるだろう。小池氏のやり方を正しいとすれば、現在人が住んでいる工業地帯の地下水を至るところでチェックすべきでは無いのか? 全国の全ての箇所で深く掘って地下水を徹底的にチェックせずに、日本国が安全だと言えるのか?
 
もちろん、そんなことは常識外れである。安全基準は何かをする上での目安と考えるべきで、現状安心して生活している場所を明確な理由なしに調査するのは、時間と経費の無駄だからである。そして、比較的な安全を目指すべきであり、絶対的な安全を目指すべきでは無い。そんなことはわかっている筈だ。環境基準の1.4倍のベンゼンを含む地下水が地中深く掘って出てきても、だまって蓋をすれば良いのだ。おそらく同程度のベンゼン水が地表に現れることはないだろうからである。
 
豊洲市場は、比較的安全、比較的便利に水産物市場の機能を果たすことを目的に作られたと思う。それは既に終わったことであり、改めて移転を中止したり、取りやめたりするには、新たに生じた相応の危険性の指摘が必要である。地下を8回も掘って環境基準の1.4倍のベンゼンが検出されたことなど、その理由にはならない。ベンゼンを甘く見るのはいけないが、何とかトキシンほど怖がる必要はない。冷静で他に迎合的でない専門家の意見を聞くべきである。
 
誰もその水を飲むわけではないし、市場で取り扱う品物にその地下水が触れることはない。ポピュリズムに走り、それに喝采を送る日本の世論に恐怖を感じる。第二次大戦の日本やドイツを見る思いだ。
 
2)現実的対応について、例を挙げる。
交通法規というのがある。それに従って、いたるところに最高速度が規定されている。しかし、その速度を守る人はほとんどいない(補足1)。もし、法定速度を守れば、朝夕のラッシュ時には渋滞が方々で起こるだろう。
 
名古屋の名古屋第二環状自動車道という道路がある。そこは、外見高速道であるが、最高速度は時速60kmである。しかし、インターチェンジ近くを除き、そして、渋滞していない場合には、60km/hで走っている車はない。普通に90km/h程度で走っている。数十回通ったが、一度も速度取り締まりのパトカーに出会ったことは無い。
 
道路は自動車をスムースに比較的安全に流すことを目的に作られている。法を守らせることを目的につくられているのではない。もちろん、守れない法定速度をそこに設定する行政の怠慢は攻撃されるべきであるが、そこを通行止にする必要はない
 
我々は体内に放射性元素も持っている。カリウム40や炭素14のような天然に存在する放射性同位体がある。体重60kgの人体で、カリウム404000ベクレル、炭素142500ベクレル、の天然の放射能があると言われている。http://www.yonago-kids.com/radio-3.html
 
そんな話は誰もしない。徒らに恐怖を煽ることになるからだという。しかし、それは知らせるべきである。なぜなら、原子力発電所から事故で放出された放射能を恐れるのなら、正しく恐れなければならないからである。上記内部被曝と比較して数値的に同程度の外部被曝なら、よほど害がないことをしるべきである。
 
この数年、原発からみの放射能の話がたくさんマスコミに流れたが、上記内部被曝の話やラジウム温泉の話などは、ほとんど聞かなかった。二三度専門の医師、一定の放射能は体に良いという意見を述べていた。その際、ラジウム温泉の話をしたと思うが、まともに受け取る人はいないという雰囲気の中で放映されていた。空気の支配する日本国では、空気が情報を遮断するという恐ろしさがある。
 
一昨日のブログで、そんなことより、北朝鮮の核の脅威が日本全体を生活環境を「不適」にしている。その問題を考える方が先ではないのかと書いた。生物は多くの危険の中で生きている。生きるということは危険と日々戦っていると言っても良い。それらの危険と比較して、地中深くの地下水中にとけた14ppmのベンゼンは大きな危険だろうか? そう考えるべきなのだが、無知な人は日々危険と戦っているという自覚がないから恐ろしい。

補足:
1)時々速度取り締まりが行われている。その場合も20km/h以上の速度超過が取り締まりの基準のようだ。そのため、最高速度が40km程度のところが取り締まりの対象に選ばれる。渋滞を起こしてはいけないので、朝夕ラッシュ時には行われないだろう。法定速度というのがあるということを知らしめるために行っているようだ。
「日本は、人は経済的に平等であるべきだ」という文化を持つ国だという幻想が、日本人に残っていると思う。しかし、現実は先進国としては非常に不平等な国であることを指摘したい。 
 
ジニ係数というのがある。下図がその説明の為の図である。図の横軸に世帯の所得順に並べた人口の 割合を全体を1.0に規格化してとる(つまり、右端の1.00は国民全員を意味する)。そして、縦軸に所得の合計額をやはり同様に規格化してとる。つまり、ある横軸座標での曲線の値(y座標)は、その横軸座標までの人口の所得の合計を国民全体の所得で割り算した値となる。最高値はやはり1.00(つまり国民所得の全体)となる。そのグラフは統計の方で、ローレンツ曲線と呼ばれるものの一つである。 
 
イメージ 1
この図で、[Aの面積]/([Aの面積]+[Bの面積]) の値をジニ係数という。所得の均等配分の場合はグラフは45度の直線となり、[Aの面積]は従ってゼロである。完全不均等配分の場合、所得順に並べた場合の最後の一人だけが国家の所得の全てをとることになり(Bの部分がゼロ)、ジニ係数は1となる。図のケースでは、グラフは丁度円弧にしてあり、ジニ係数は0.57(あるいは57%)になる。貧困層は富の半分を86.6%の人たちが得る一方、残りの半分を富裕層の13.4%の人たちが受けとることになる。
 
もちろん、形は一般にはこの円弧のような単純な形ではないが、多くのケースではこの円弧の部分の出っ張りが変化した形になる。上記ケースよりひどい所得の配分の国は、南アフリカ、レソト、ザンビア、ホンジュラスなど9カ国。それに近い0.5を超える国の数は、香港、パナマ、ブラジルなど合計21カ国である。 
 
このジニ係数の世界平均は0.395であり、日本はそれより少し低い0.379であり、世界73位である。しかし、この値は多くの西欧諸国に比較して大きい。他国の値を見ると、台湾は0.342、韓国は0.311、ドイツは0.27、ノルウエーやスウエーデンとなると0.25以下となる。結論として、日本は先進国としては富の分配において不平等な国だということになる。
 
何故、このようなことになったのか? 将来このような格差を解消できるのか、議論してほしいものである。尚、http://top10.sakura.ne.jp/CIA-RANK2172R.html#mapのデータを利用させてもらった。
 
 
1)人間の感覚は変化を察知するようにできている。その変化が短時間で生じると、強く感じそれに対して強く応答する。逆に時間当たりの変化率が小さいと、最終的に大きな変化であっても気がつかないことも多い。因みに、この時間変化の割合(勾配)を時間での微分と言う(補足1)。これは人間だけでなく、カエルでも他の動物でも同じだろう(補足2)。その事実を十分頭の中に叩き込んでいないと、状況変化についていけないことになる。 
 
カエルなどの場合は、温度とか食料の有無などの生命維持に関係した外部環境変化が自分の周りの変化だが、人間の場合は社会の中での自分の置かれた環境変化が主な自分の周りの変化となる。従って、その変化は複雑であり、客観的な記述も困難である。 
 
環境の変化に対応できない例として頻繁にマスコミに流れるのは、一流のスポーツ選手や芸能人が、その絶頂期の華やかな時代から急激に人気や収入が下降する場合がある。その時、薬物に依存したりしてその状況変化に対応できないという話が、屡々報道される。またもっと一般的な例では、全ての人は老化して死を迎えるプロセスにおいて、バリバリと働いていた頃の状況と比較してその差を強く意識し、その後の人生を暗くする事態に陥りがちである。客観的にみて相当恵まれていると言える場合でも、下り坂の場合には何事にも意欲を失うこととなり、その結果、更に下り勾配を急激にする結果となる。 
 
その時の罠の一つは、自分の下降しつつある人生の情況を含めて、全ての現実から逃避することである。アルコールや薬物に嵌る人も多いだろう。全国にあるゴミ屋敷の主も、現実逃避の結果だろうと推測する。もう一つの深刻な罠は、現実を改善するのではなく、自分の優位を他との比較において探し出そうと精を出すことである。 
 
2)この様な情況からの克服法は、変化に捕らわれずに現実を直視し受け入れること、或いは同じことだが、原点に戻ってそこから(その視点から)これまでの全体を改めて見ることだと思う。虚心坦懐に自分のおかれた情況とこれまで歩んだ道を振り返り、それの延長上に現在の自分があり、その全てが「自分の生」であると理解したとき、そのまま受け入れることが出来る可能性が大きくなるだろう。また、受け入れるしかないと覚悟が決まるだろう。そして、その理解と受容の上に、次に取るべき行動を考えるべきだと思う。 
 
ここで原点とは、世界には自分と“自分を取り巻くその他”があり、実在すると確実に言えるのは自分だけであるということである。従って、自分の主は自分自身であり、自分をこの世界でどう行動させるか(自分がどう行動するか)が、唯一自分に課せられた問題である。ギリシャ時代に偉い哲学者が「無知の知」と言ったが、そこから人間の認識は現代まで一歩も進まず無知のままである。神がこの世を作り賜うたという人(その教徒は神であるというかもしれない)もいたし、神は死んだという人もいた。また、現代科学が「万物は素粒子から作られている」という理論に到達したとしても、それも真理とは言えず仮説という偉大な想像に過ぎない。 
 
事実の第一は、「考えることのできる自分が、現状さしあたり生物としての時間を過不足なく、そして美しい地球という星に存在する」ということである。それ以外は、絶対というものは何もない。それは近似的に、仏教でいう「空」という概念だと思う。「生き、考え、行う」のは自分自身であり、決して他者ではない。(補足3)。それが、「煩悩即菩提」の境地なのだろう。 
 
他と比較して自分の待遇が悪ければ、良くしろと主張するのは当然である。しかし、自分の待遇がわるいことに囚われてはならない。ゴミ屋敷の主人も薬物依存症の人も、その囚われ人だと思う。その場所には鍵もなにもない。自分の足で簡単に歩いて出られるのにも関わらず、囚われ人になっている自分に気づいていないのだろう。 
 
3)西洋人は彼らの宗教と関係して、多くのことを真実の中に組み込み、その成り立ちと運動のメカニズムを解明して成功した。それは、原点に留まっていた東洋人に比べて、偉大な科学技術文明を築いた。それは、誤解を恐れず書けば、偉大な賭けに勝利したようなものであると思う。その賭けに後出しジャンケンのように参加して、東洋人を含めて人類全てが利益を得た。 
 
西欧人はこれまでの成功体験から、客観的という言葉を安易に使う。法と正義という言葉も簡単に受け入れる。全て存在の上で確かなのは自分だけであるという、彼らの祖先に当たる偉人の言葉を忘れている。法も正義も、権威と権力を備えた絶対者がいなければ、何の意味もない。
 
「法と正義」を信じることは、「権威と権力」を前提としているので、法と正義を前提に生活することに慣れた人には、「権威と権力は、どこにあるのか?」と疑問に感じる感覚が萎えている。その結果、多くの人にとって自分が自分の主ではなく、「法と正義」が主であると勘違いしてしまう。そして、「法と正義」を勝手に設定し利用する悪しき人々の罠に嵌っている。
 
人間は社会を作って生きている。そして、教育の段階で「自分を自分の主人としてはいけない」という滅私を強いられる。しかし、滅私は社会の罠である。一員として自分の意思で社会に参加しているという知識と自負がなければ、まともな社会人ではないと思う。 

補足:
1)ある量や強度の微小時間での変化をその時間で割り算した値をその量や強度の微分係数という。その量や強度をグラフにした場合の勾配のことである。正しくは微分係数と書くべきだが、略して微分と書いた。
2)「アハムービーとゆで蛙理論と日本の対米従属姿勢」という題で、世界の趨勢と逆行してまで、ズルズルと対米従属姿勢を深める政府の姿勢を批判した。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42950672.html
3)仏教の素人なので、偉そうなことは言えないが、この“独力で行う”というのが、仏教の本質だと思う。そう考えると、阿弥陀信仰の浄土真宗は仏教ではないということになる。