15日の読売新聞36面に“質の高い死について考えるシリーズ第4部では、五木寛之さんの「死を語る(上)」が掲載されていた。以前読んだ深沢七郎の楢山節考の話も引用して、自分の考えをまとめる。
 
1)五木さんは、以下のように語る。
団塊の世代が死を迎えるとき、大量の要介護老人と、大量の死者が周囲に溢れる時代だろう。それは、これまでの歴史に無かったまさに未曾有の事態である。近代は、個人としての老いや死を問題にしてきたが、これからは社会全体でどう受け止めていくかが問題になる。政治や経済だけの問題ではなく、宗教のような集団的思想がクローズアップされるだろう。
 
老いや死に対して、安らかな、落ち着いた境地があると考えるのは幻想でしょう。身体が次第に崩壊していく中、肩身を狭くして生きていくことなのです。昔は宗教があり、あの世の極楽と地獄という観念がリアルにあったが、今は死ねば宇宙のゴミになる感覚でしょう。多くの人が、家族との絆も薄れる中で、自らの老いや死と向き合わねばならない時代です。最後は一人でこの世を去る覚悟を持たないといけないでしょう。
 
そして、「僕は、老いさらばえていく姿を、むしろ家族に見られたくない。単独死、孤独死が悲惨だとは思いませんね。」と結論した。
 
2)私の体験、感想、考え:
私もすでに何度かこの問題を考えている。今回、五木さんの文章を読んで、昨今自分の考えていることと全く同じであることを知り、同じ問題を考えれば五木さんの考えにたどり着くのは自然なことだと思うようになった。(補足1)五木さんの場合、大陸からケダモノの様なロシア軍兵士から逃げ帰る経験を持ち、その中で家族と周りの人の無残な死を体験されたことが、死を考える原点にあると思う。
 
15歳以上若い私にはそのような体験はないが、母が死ぬ時の痛々しい様子を漏れ聞き(補足2)、遠方に住む故最後まで近くに居れなかった分、余計に心を痛めた記憶がある。自分の死を考える際にも、それが強く思い出され参考となる。それは、被害者意識などではなく、一人の死とその周辺の苦しみを全体として把握した時の話である。
 
死にゆく過程は、まさに自分の体と精神の崩壊のプロセスである。体は部分的に死滅した後腐敗し、最後は頭脳か心臓が止まるところで人としての死に至る。その中に最後まで自分以外の人を巻き込めば、近くに残る人から加えられる言葉や態度は、死に往く人の人格も生きていた頃の思い出も何もかも破壊し尽くすだろう。五木さんの“単独死、孤独死が悲惨だとは思わない”という結論は、まさに“鏡の中に映る自分の姿”(あるいはアルバムに残る自分の姿)が破壊される前に、自分の心にそして家族の心に残したいという最後の願望だと思う。それは孤独を受け容れなければできないことであり、仏教の涅槃の境地と言えるだろう。
 
群れを作るボスライオンは、死ぬ時は静かに群れを去る。その勇者の最後の姿に、神々しさを感じるのは私だけではないだろう。またそれは、深沢七郎の楢山節考に出てくる老女、“おりん”の姿に重なる。70歳になったところで、親族に背負われ楢山(という高い山)の頂上付近に連れられて、置き去りにされるのが“楢山参り”である。その前日は祝いの酒を近隣に住む人たちに振る舞い、彼らからは祝いの言葉を受ける。楢山は信仰の山であり、神の下に往くことにして、老人を捨てて口減らしするのである。“おりん”はそのための準備を自分の意思で万端ととのえて、その日に臨んだのである。
 
楢山参りの掟は、お山(楢山)に行ったら物を云わぬこと、家を出る時には誰にも見られないこと、山から帰る時(付添人)には必ず後ろを振り向かぬことである。死は人にとって、思考や弁舌に馴染まない出来事である。つまり、死と生はいかなる理屈も埋め合わせることのできない深い谷で別けられているのである。(補足3)楢山節考の世界は、そのほかのあらゆる宗教にある欺瞞性を超えた、日本の原点に存在するオリジナルな神道の世界である。勿論、それは伊勢神道とは似て非なるものである。神道には経典や教義はない。つまり、語れないことはそのまま受け入れるしかないのである。
 
補足:
1)五木さんの本は親鸞を少し読んだと思う。私は、その影響下にあるのかもしれない。
2)介護に当たった義理の親族による度重なる虐待の話を聞いた。スリッパで顔が殴られ、母の歪む顔と涙を想像し、死の残酷さを思った。
3)聖書の創世記にある話を思い出す。知恵の(善悪を知る)木の実を食べた結果、楽園を追い出され、神の言葉を聞く。「あなたはちりだから、ちりに帰る」と。楽園とは生と死を語る必要のない場所であり、野生の動物は未だそこに留まっているのだろう。しかし、その生と死の思考モデルも非常によくできているが、創り話にすぎない。(信者でもないものが、聖書の片言双句を引用するのは、多少気がひける。)
1)豊洲の地下水モニタリング調査は、201箇所からのサンプリングで行われ、環境基準の最大79倍のベンゼンが検出されたという。小池知事は「もう一度、調査をしようということになるかもしれず、専門家会議に(移転して良いかどうかの判断を)任せたい」と述べ、専門家会議で詳細な分析をしたうえで(移転して良いかどうかについて)判断すべきだという考えを示した。 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170114/k10010839481000.html(補足1) 

地下水の環境基準値は、0.01mg/Lであるから、http://www.env.go.jp/kijun/tikat1.html 最大0.79mg/Lの濃度でベンゼンを含む水がどこかにあったのは事実だろう。しかし、何の為に何を測っているのか、その数値のどこが問題なのか、明確な話はこの報道のどこにもない。報道に携わる方々や行政の方々はほとんど文系なので、最大濃度にどれだけの意味があるかという思考の訓練がなされていないのだろう。理系の研究者なら、平均値も発表されていないのなら、2シグマ(標準偏差;補足2)の外ではないかと疑って見たくなる。 

環境基準というが地下水を対象にしているので、その地下水を飲用や調理作業に用いる場合は問題だが、そうでないのなら問題にすべきは大気中にどれだけ含まれるかということである。小池知事は「食の安全という立場から」という語句を屡々用いているが、食の安全と地下水中のベンゼン濃度との関係について何も言っていない。この問題は数ヶ月経っているので、東京都にも理系の職員はいるのだから、その間に情報を仕込むことができたはずである。明確な数字と不明確な都知事の態度の対照性は、不自然極まりない。この問題を大きく取り上げ、この時点まで引きずったのは、ポピュリスト的政治の結果だと言われても反論できないだろう。しかし、その点を気にかける報道関係者は皆無である。まさに馬鹿騒ぎである。 

2)表題で理系と言ったが、論理的な考察能力の必要度が理系では高いという意味であり、それは文系でも必要な能力であることには変わりはない。理系では、まともな業績評価はほとんど英語で執筆された論文を対象になされる。例えば論文を英米の雑誌に投稿する場合、必然的に英語の訓練を受けることになる。そこで初めて、英語が日本語に比べて遥かに論理的考察に適していることを知ることとなる。 

英語の科学論文では、観測結果の数値が何を意味するかについて、曖昧さがあれば受理されない。つまり、それらの数値が、何を対象にどのような方法で得られたか、統計的に意味のある数字なのかなど、実験値が研究対象の記述となり得ているかどうかの確認が先ずなされる。その後、数式などを用いてなされる実験値と執筆者の引き出した対象に関する結論や推論との間を結ぶ論理展開の正しさが、さらにその結論等のその分野に置ける重要性が、審査員や編集長(室)により審査される。発表後は、読者によりそれらがより綿密に多くの方向からなされ、その評価が長い時間を経て実際の業績となる。 

そのようなプロセスを経験した人間からすれば、一連の豊洲とベンゼンの関係に関する知事の発言や各種報道の質は、一編の低級な短い論文にも劣るというのが正直な感想である。(補足3) (午前11:30加筆修正)

補足: 
1)カッコ内は推測で補足した語句である。肝心な目的語などを省くのは、日本語の欠陥を利用した保険だろう。何か不都合が生じた時、カッコ内の語句を自由にいれかえることができるからである。(日本語の欠陥については、HPやブログに山ほど書いてきた:e.g.,  http://island.geocities.jp/mopyesr/kotoba.html
2)N個の観測数値があったとする。夫々の数値の平均値からのずれを二乗し、足し合わせて平均した数値を分散と呼ぶ。分散の平方根を標準偏差(σ)と呼ぶ。乱雑な現象の場合、2σより上にずれた値を得る確率は2.3%以下である。したがって、地下水全体のベンゼン濃度が問題なら、問題にすべきはその平均値であり最大値ではない。観測結果が平均値から大きくずれた値なら(2σ、3σずれているのなら)、それは観測機の誤動作や誤操作も疑う必要がある。 
3)今朝の読売新聞朝刊一面にこの件が記載されていたが、最大値のみを記載している。情報量はほとんどゼロと言って良い記事である。
1)ここ数日少しずつだが、韓国のキム・ワンソプ著「親日派のための弁明」を読んでいる。この本は、自信を無くしつつある日本人の方々、特に左寄りの方々の必読書だろうと思う。何故なら、韓国や台湾の資本主義経済の発展は、日本統治を基礎としてなされたと論理的に述べているからである。今回は、その本を参考にして、韓国の歴史に関する誤解と現在の未成熟な社会の原因などについてまとめてみる。
 
マルクスの社会発展の理論は、人間社会は下部構造である経済構造の変化が上部構造である政治と文化をかたち作る原動力になるというものである。そして人間の政治構造は、原子共同体社会、奴隷社会、封建社会を経て、資本主義社会に発展してきた。資本主義社会の前段階である封建社会を持ったのは、上記キム氏の本には、日本と西欧だけであったという。


従って、近代資本主義の発展には封建制度を経過する必要があるが、それまでの韓国は李氏朝鮮という帝政であり、日本で言えば平安時代に相当し、近代資本主義の萌芽は全くなかった。日本統治は、被支配国を搾取の対象とする西欧型の植民地政策ではなく同化政策であり、日本と同じ近代資本主義的な政治制度の導入と同時に、近代化に必要な基礎情報の収集、教育制度や交通網整備などのインフラ整備などがなされたのである。
 
2)次に何故、封建社会が近代資本主義社会の成立に必要かについて考える。封建社会においては、封建領主が一定地域の土地を支配してそれを領民に分配し租税(日本では年貢米)を徴収する。そのため、領地内では地域毎に土地に関する権利や租税に関する強力で整備された法体系と、それを執行できる政治組織を持つ。そして、それらを大きな範囲で統合する中央集権政府が存在する。
 
従って、領民はその領域とその中で有効な法律を意識して生きるという法治国家の基本を身につける。封建領主の支配は、その権利と義務の関係を保障するものであるから、経済活動もその範囲で広く行われる。広範な範囲での経済活動は、貨幣経済の発展をもたらし、その結果資本の蓄積といったことも広く意識される。これらは、近代資本主義に必要とされる多くのことの準備となるのである。
 
その結果、日本では西欧の市民革命とは異なった形だが、結果的に明治維新という革命が成功裏に進められ、資本主義的国民国家としての体制を整えることになった。一方、朝鮮半島ではこのような経過を経ておらず、また、登記制度や裁判などにも馴染みがなかったので、独自に近代化を成し遂げるのは困難だっただろう。ただ、現代の日本の歴史教育において、この江戸時代の役割を正当に教えていないことは改めるべきである。
 
韓国では以上のような、経済史学や歴史学の成果を否定している。つまり、現在でも韓国では近代化の萌芽が李氏朝鮮の時代にあったのだが、それを日本統治が摘み取り、韓国の独自の発展を阻害したという教育を行っているという。それを著者は、韓国は何故「オレンジ畑でリンゴを探すのか」と嘆いている。


3)以上の考察を経れば、何故韓国が、現代においても尚、権利と義務、法と正義などの基本的な知的インフラに(部分的に)欠ける国家なのかが理解できる。例えば韓国は未だに、親日派という人間の分類項目を作り、それに指定された場合には、その資産を没収できるという類のとんでもない法律(反日法)を制定したり、対馬の寺から盗まれた仏像を、犯人逮捕が終わった後も元々は韓国から盗まれたものだから、返却できないと言い張るような国なのである。

韓国のようなことすべての国が主張すれば、ルーブル博物館も大英博物館もほとんど空になってしまうだろう。韓国は上記のような歴史歪曲を行っていること、且つ、それが韓国の発展を阻害しているということについて、支配層すら十分気がついていないらしい。その”苦しみと事情”は、薩長下級士族を中心とした日本政府が、明治維新の後で江戸時代をまるで暗黒の時代のように規定した事実を考えれば、理解できなくもない(補足1)

つまり、韓国も独自に近代民主主義社会に発展させる段階になり、過去を足場として蹴ることの反跳力を利用することが安易な道として欲しいのである。(補足2)過去とは日本統治時代の韓国である。韓国がより安易な方向に流される理由として、日本の場合は明治維新を多くの血を流して成し遂げたが、韓国の場合は日本の敗戦という棚ぼた的にその時期を迎えたことがあると思う。

また、世界各国に封建社会を経ていない国が多いが、それらの国々に何故個人の権利と義務を明確に規定する民主主義制度と、それが必須の近代資本主義社会が定着しにくいのかが理解できたような気がする。

補足:
1)明治維新という革命で分断された国家を早期に統一をするため、思想教育の一つとして利用されたと思う。しかし、それが訂正されないのは、今でもなお薩長政権が続いている結果ではないだろうか。
2)朝鮮半島の人々は、朝鮮国が中華帝国の朝貢国(属国)であったという劣等意識を、中国より遠い島国日本を格下の国として見下すことを中和剤に用いて、心理的安定を保ってきたのだろう。日本が敗戦したので、それを足蹴にすることに二重の意味が生じたのである。一つは格下の国であるにも拘らず、朝鮮を支配した国であること、もう一つは上記の近代化へ向けて国民を結束させる安易な方法としてうってつけであること、の二つである。
(15日朝一部加筆の上編集)