1)共通一次試験が先週末行われた。その際、スマホなどの持ち込みが厳しく制限されたが、それについてyoutubeの動画で経済評論家の上念司氏が面白いことを言っていた。それは、「スマホなんか持ち込み可にすれば良いのではないか。どうせ調べればわかることを暗記するなんて、意味が無いではないか」という内容であった。
 
この言葉には一理ある。大学で学ぶのは、社会に出て実務についた時の為の能力をつけるためである。そして、その時には辞書もスマホもパソコンも手元にある。法律家が仕事をするときには六法全書を手元に置くし、文筆家は辞書を手元に置くだろう。本当の能力はそれらを使いこなす能力であり、それらの中身を暗記していることではない。だから、大学入試は単なる知識をテストするよりも、それらを使っての問題解決能力をテストすべきではないかと言うのである。
 
例えば、一時期流行った漢字検定なんかも、いったい何の意味があるのか不思議である。パソコンで何時でもチェックすることができるのに、何故難しい漢字まで覚える必要があるのか。役に立つのは、芸能界に入ってテレビのクイズ番組に出演する時くらいではないのか。
 
日本の大学が世界の目から見てレベルが低く、大学ランキングでも中国やシンガポールなどの後塵を拝するのは、入ってから学生が勉強をしないからである。暗記や過去問の練習で毎日数時間潰せば、勉強なんか嫌になるのは無理ないだろう。その苦しい勉強に耐えた奇特な人の中から“人格優秀”なのが社会の重要なポストにつくのだろう。大学の先生方もその中に含まれる。
 
つまり、学歴社会というものの、その学歴は大学入試までのもので、大学で何を学んだかについてはあまり問題にしない。それでは、優秀な人材が不足するのは当たり前である。そのような学歴社会に適応した人種が勝ち残るのでは、日本は世界の中では勝ち残れないだろう。(補足1)
 
2)もちろん、新しい発想は記憶していることから生じるので、記憶は大事である。しかし、それは断片的な記憶ではなく、消化され自分の知識として頭脳に張り付いた体系的な知識の記憶である。それは、スマホを持ち込んでもにわかには身につかない。
 
昔、中国の科挙は難しい試験だったようだが、それを勝ち抜いた”優秀”な官僚たちがいても、中国はモンゴル民族や満州族に乗っ取られった。今、韓国の人たちも猛烈な学歴社会を勝ち抜いて、国家の行政や司法を担っているのだろうが、現在の韓国政府は国際的常識すら持ち合わせていない。
 
実社会で必要な能力には、問題を与えられれば解くという能力もあるが、問題を発見する能力もある。後者はペーパーテストなどでは測れないのである。更に、問題の大きさや質を正しく把握するのは、感覚であり知識では無い。(補足2)ペーパーテストで測れるのは、人の能力のほんの一部なのだ。
 
それを理解しない伝統があるので、学歴社会を作ってしまうのである。つまり、学歴社会は、社会の欠陥である。
 (17:00 大幅に加筆修正)
補足:
1)官僚も会社も、どうせそのような基準で採用しているのだろう。それが20年間のデフレとも関係していると思う。新しい分野はほとんど全て米国やヨーロッパから生じている。新しいテーマを発見する能力のない人たちが、社会のトップにいる証拠である。
2)常識という日本語がある。その単語で相当する英語は、通常コモンセンス(common sense)である。このsense(感覚、勘)という人間の重要な能力が、芸術分野など以外では日本であまり重要視されていない。(勿論、common knowledge common practice なども並列的に辞書に記載されている。)
 
1)トランプ米国新大統領は、反グローバリスト(この小文においてグローバリズムに反対する人と定義します)なのかエゴイストなのか?と題をつけたが、私にはエゴイストに見える。それは、米国WASPの利益(トランプ支持者)を、世界を混乱に陥れても最優先する姿勢に見えるからである。(補足1)

 
それに反して、馬淵睦夫氏は「和の国の明日を造る(36)」と題した動画で、トランプ氏を支援している。馬淵氏はトランプ氏を反グローバリストと信じているように見える。https://www.youtube.com/watch?v=lWP1oQzpOkg


その中で馬淵氏は、伊藤元重氏が雑誌正論で書いた文章「グローバル化が諸悪の根源か?」http://www.sankei.com/column/news/170112/clm1701120005-n1.html を批判している。その批判は、伊藤氏がグローバル化の弊害も議論しているふりをして、理想論を根拠にグローバリズムを支援していると考えた結果だと思う。この両方を元にして少し議論する。
 
2)グローバル化とは、言うまでもなく地球規模への拡大の意味である。現在議論されているグローバル化には、物品の移動を地球規模で自由にする段階、資本の移動も国境を超えて自由にする段階、そして、人の移動をも自由にする段階がある。
 
伊藤氏の文章に、「リーマンショックの経験からも分かるように、資金が無制限に国境を越えて動くことが好ましい影響を及ぼすとはかぎらない。だからグローバル化とはいっても、貿易の自由化と国際金融の自由化は同列に議論することはできない。全否定・全肯定は好ましくない」と書かれている。
また、「人が国境を越えて来れば、それは労働力という単純な生産要素ではなく、文化、風習、歴史、犯罪、宗教など、さまざまな複雑な要因を持ち込むことになる。だから(と言って(筆者の補足))移民や難民を制限すべきだということには必ずしもならない。ただ、国境を越えた人の移動については、貿易や国際資金移動の自由化よりも、さらに難しい要因が多くあることを認識する必要がある」とも述べている。
馬淵氏はこの動画において、特に人の移動に関する伊藤氏の下線部分の表現を激しく攻撃している。これが「ポリティカル・コレクトネス」なのですねという表現を用いている。多分、伊藤氏が言葉の上での反論を受けない様に現実的でないことを語っているという意味なのだろう。
 
“現在世界で起こっているグローバル化の動きを単純にグローバル化という言葉で一括して攻撃の対象とするのではなく、物、資本、人のそれぞれの移動の自由化ごとに政治的解決を目指すべきである”という伊藤氏の意見には何の新鮮味もなく、当たり前のことを羅列したに過ぎない。要するに伊藤氏はグローバル化を微調整しながら推進する立場であると、見抜いているのだと思う。
 
馬淵氏の言葉は、もう議論すべき時は終わった、今はトランプ氏とともに行動する時であるという風に聞こえる。
 
グローバリズムという言葉は、経済および政治におけるグローバル化を進めることが人類の歴史の進む方向であると信じるイデオロギーである。馬渕氏は、「グローバリズムは嘗て共産主義が目指した方向であり、現在の共産主義と言える」と言っている。
 
この動画で、馬淵氏の非難の的はこの“グローバリズム”であり、伊藤氏がもっと議論して解決法を探すべきだと言っているのは、主に“経済のグローバル化”である。つまり、必ずしもイデオロギーとしてのグローバリズムを支援しているのではない。つまり、最初から議論する対象が異なっているのに、馬淵氏は伊藤氏の文章を自分の土俵の上に持ち込んで非難しているように思える。
 
しかし、それは伊藤氏がポリティカル・コレクトネスを利用して、「複雑な問題なので、問題を解析し議論して、適当な対処法を求めることが大事である」と言いながら、このグローバリズムを支持し、それを一般にも伝道しているように映るからである。馬淵氏は日本の評論家やマスコミの姿勢を、米国支配層に追従していると考えている様である。


米国の支配層は、グローバリストが形成しているという馬淵氏の考えは、本当なのだろうか?本当だとすると、トランプ氏が大統領としての職を長期に続けることができない可能性が高い。馬淵氏は、そう危惧している。
(22:20編集)

補足:
1)他の国々に比べて米国のGDPはずっと一定の傾斜で増加している。(下図参照)したがって、国民の多くの不満はその経済力を用いて解決できる筈である。つまり、国内問題を過大にグローバル化の問題としているように思う。なお、評論家の宮家邦彦氏は財務長官などの人事を見れば、ちゃんとニューヨークの金融資本のために働く筈だと言っている。
イメージ 1

1)昨年の12月下旬、高速を車で走って1時間ほどのところに住む義理の叔父の葬式に出席した。中部を中心に140店ほどの専門店を経営する会社でかなり出世した人ではあったが、出席者は多くなかった。最後はその会社関係の専門学校の理事長を務めたと聞いていたので、意外だった。
 
弔電は国会議員数名を含め30位あったと思う。日本を代表する企業の社長から弔電が届いたのは、親族の勤務先だからだろう。故人とは二、三度会ったのみだが、非常にしっかりとした知的で社交的な人物だった。夫人も、多少プライドの高い方のように感じたが、同様だった。
 
最後の別れということで、死に顔を拝見することになった。生前話した時の面影はなかった。その時、三島由紀夫の小説「金閣寺」の中の文章を思い出した。(補足1)つまり、生きている私の視線を、屍が一方的にまるで暴力のように受けて居ると感じた。義理の親族の屍に対して、私にそのような権利がある筈はないと思い、直ぐに目を離した。
 
葬式からは早々に失礼する予定だったが、火葬場にも行くことになった。その火葬場は、車で45分ほどもかかる遠方にあった。焼かれて出てきた遺灰は思ったより少なかった。二回骨を拾うことになり、それらが壺に納められたのだが、生前の姿と比較して無に等しかった。

二人いる娘さんのうち、同居している次女の方のかすかな鳴き声を一度聞いたが、それ以外の泣き声を聞くことも、涙を見ることもなかった。もちろん、私の視線の及ぶ範囲のことではあるが。
 
2)昨今、わが国では孤独死が問題になって居る。経済発展や少子高齢化などの影響で、家族に見守られて死亡するという古来の死の形が崩壊しつつある。これに関連した五木寛之氏の新聞紙上の文章について一昨日感想を書いたが、“単独死、孤独死が悲惨だとは思わない”という五木さんの言葉に同意した。
 
その理由はそこに書いて居るが、その思いはこの葬式が心に残っていたからより鮮明に、心の中に刻み込まれたのかもしれない。今日(こんにち)の葬式では、そこへの出席が面倒だと思いながら、自分の心の中の義務感に従って出席する人が多くなって居るだろう。義理の親族や親族の会社の関係者などは当然だが、親族でも一滴の涙も流さない人も多いだろう。
 
死が孤独なのは、葬式に多くの人がこようが来まいが、死ぬ直前に周りに親族が居ようが居まいが当たり前である。生きて居るうちの孤独による不便は問題だが、孤独死は問題ではないと思う。(補足2)

中国だったかネパールだったか忘れたが、葬式には大声を出して泣いて故人を送るのが当たり前だという国や地方がアジアに存在する。韓国もその一つらしい。
それは、葬式の時にも、出席者の心の中に故人の魂が生きているからだろう。その鳴き声は見送る側の別れの挨拶なのだと思う。

日本にはそのような風習はない。日本では死亡した瞬間に故人であり、死後の魂は存在しないのだと思う。もちろん、亡くなったその瞬間にあるいは時間がたって思い出した時に、涙するという親族は多いかもしれない。しかし、これらの涙は別れの涙ではなく、より孤独になった生きて居る自分を泣く涙だと思う。

周りの者にとっても、たとえ親族であっても、死はその人のピリオドであり、もはや重要な問題ではない。重要なのは生きている日々のみである。それは日本には、あの世が存在しないからである。日本の死はすでに”乾いている”し、葬式は形骸化している。もっと言えば、葬式は不要である。現に、葬式は親族だけで済ませましたという挨拶状が多いのはその証拠の一つである。
  (19:00 加筆の上、全体を編集;翌日語句修正あり)

補足:
1)小説金閣寺の中に、父親の遺体を前にしたときの記述がある。屍はただ見られている。私はただ見ている。見るということ、ふだん何の意識もなしにしているとおり、見るということが、こんなに生けるものの権利の証明であり、残酷さの表示でもありうるとは、私にとって鮮やかな体験だった” しかし、その感覚はもはや現代人のものではないだろう。
2)もし、人々もマスコミも行政も、そのような意味で孤独死の問題を考えていたのなら、言葉はもう少し丁寧に使うべきだと言いたい。日本人だが私も日本語が十分には使いこなせないのだが。