1)昨夜毎日新聞から配信されたというニュース(ヤフーニュース)によると、民進党江田議員が、自身が橋本内閣に於いて首相の秘書官をしていた時に発生したペルー日本大使公邸占拠事件の際、「橋本内閣では人質に犠牲者が出た場合、首相か官房長官が辞めると話していた」という話を紹介した上で、南スーダンの国連平和維持活動(PKO)に派遣されている自衛隊に死傷者が出た場合、首相辞任の覚悟があるのかと質問した。
 
この衆院予算委員会(2月1日)での質問に対して、安倍晋三首相は「もとより(自衛隊の)最高指揮官の立場でそういう覚悟を持たなければいけない」と述べた。
 
この江田憲司氏の質問は売国奴的である。先ず私は、①「橋本内閣では人質に犠牲者が出た場合、首相か官房長官が辞めると話していた」という話自体を疑うし、仮にそのような話があったとして、その判断に正当なる評価を与えた江田議員の資質を疑う。何故なら、「ペルー事件の責任をなぜ、日本の官邸が取らなければならないのか?」という問題を考えれば明らかである。事件の責任は犯人たちが負うべきであり、更に日本の内閣官邸がその事件における人質の命に関して、決定能力を持っていないからである。
 
従って、あの橋本龍太郎がそのような事を秘書官に言う筈がない。もし、②「ペルー大使館公邸の人質が殺されて、国民の間にその責任の一端が内閣にあると言う非難が巻き起こった場合、首相か官房長官が辞任しなければならないかもしれない」と言う話なら、橋本さんは言ったかもしれない。しかし、①と②では話の内容が全然違う。(補足1)もし、万が一橋本龍太郎氏がそのような事を言ったとしても、あの国会質問で引用すべきではない。
 
2)上記のような質問が国会で出され、それに対して総理大臣が「もとより(自衛隊の)最高指揮官の立場でそういう覚悟を持たなければいけない」と答弁しなければならない我が国の現状を情けなく思う。

独立国で軍隊を持たない国などない。軍隊保持を禁じる憲法を持つ日本国は「自殺志願国家」である。日本国は、その憲法の改正に国民のかなりが賛成しない国なのである。一方、自衛隊は誰が見ても軍隊である。その憲法の規定と実態との乖離に平気でいられる国民が多いのは、多数の国民は政治など何も解っていないからである。日常生活で精一杯なのかもしれない。
 
韓国の司法判断を笑う人は多いが、日本のこの件と大差ないではないか。否、日本の司法の方が自殺志願国家で良いと認めているという点で異常ではないのか。

更に、軍隊が国際協力という形で外国に出かけそこで死傷者が出る事を、国会において内閣の命運と同レベルで論じることの異常さにうんざりである。そして、それに平然として報じる報道機関や静かにやり取りを聴く国会議員たちにうんざりである。またそれを、複数の思想信条の異なる政治勢力の間を流浪しながら、野党の有力議員の座を掴み取った政治屋の議員が、堂々と国会で質問する異常さにうんざりである。http://blogos.com/article/169370/
 
補足:
1)①では、人質の命が奪われたことに対して官房の責任を認めて辞任することになるが、②では、官房自身ではなく国民が内閣官房に責任を帰したことになる。その国民の声が一定数になった時、国民が内閣に不信感を持ったと判断して辞任するのである。
トランプ大統領は「取引こそ芸術だ」と自著で述べているという。その芸術的取引を現在行っているのだろうが、我々には芸術には程遠く、一見八方破れの戦術に見える。水攻め拷問は国防長官に諌められて止めたが、今や古くからの同盟国の日本も、中国と同様に為替操作などの不公正貿易を行う国という一方的な烙印を押されて、今や敵に回されている感じがする。
 
経済評論家の上念司氏が、プロレスの試合前のマイク合戦のようなものだと言っていた。しかし、試合はもう始まっている。最近防衛省現役の必読書と言われている、「米中もしたたかわば」(元のタイトルはクラウチングタイガー)という本に面白い記述があった。それは、Mad man’s theory(気狂い男の理論)というもので、米国のニクソン大統領が北ベトナムとの交渉の時に用いたそうである。つまり、気狂いじみた奴で、この辺りで手を打たないと何をするかわからないと相手に思わせる交渉術である。その戦術を今トランプ大統領が用いていると考えると、わかりやすいと思う。
 
当然、最初しかこの戦術が使えない。理路整然と話していた人が急にMad Man’s理論を使うわけにはいかないからである。このタイプを相手に上手く交渉をするには、この時期を外して交渉することである。今朝のテレビ番組「とくダネ」で、木村太郎氏がその対策を喋っていた。「逃げるが勝ち」だというのだ。こちらから、早々にアポイントメントをとって、会いに行くのは愚かなことだというのである。
 
我が安倍総理は、このことをご存知なかったようだ。実務的なことは国防長官が来日されるので、事足りる。このような情況では、向こうから声がかかるまで、じっと待っていた方が良い。声をかける側には、その時点で交渉にハンディがつくからである。
米国で異色の大統領が就任したが、それは現在の米国と世界の情況が産んだ必然的現象である。表題の番組は、その背景を広く論じて、その中に於ける日本の位置と今後の日本の姿、それが安全で繁栄を維持した姿になるにはどの様にすべきかなどについて、専門家を集めて議論したものである。最後まで聴いた感想だが、現在のテレビ番組では聞けないレベルの充実した内容であった。オススメの動画であり、この番組を作られたSakuraSoTVに敬意を表明したいとおもう。https://www.youtube.com/watch?v=zoDYQ2IhoQY&lc=z12bx3pwszeeuxvm023nh52hgviwulsxb04.1485702129322412
 
1)一時間目に出席者8名がトランプ大統領の就任の背景と今後の国際情勢とについて、自分の考えを披露した(以後敬語丁寧語表現をとらない)が、それを一通り聞くことだけでも非常に勉強になった。出席者の殆ど全員が、トランプ氏が大統領になったことを世界史的転換点と捉えており、各人各様のスポットの当て方で、世界史の流れの中にそれを位置づけている。
 
最も大きな枠組は、ローマクラブの「成長の限界」という報告に類似もので、渡辺哲也氏により出された。米国の異色の大統領の出現は、「中国の発展に地球がもはや耐えられなくなった」時代の一つの”表現”である。そして渡辺氏は、トランプは米国をニクソン訪中前の米国に戻すことを考えているという。それを象徴する出来事が、キッシンジャーを中国に送り習近平と会談させながら、台湾の総統と電話会談を行ったことだというのである。 
 
佐藤健志氏の把握は、もう少しクローズアップした視点でのものであった。それは、国家を超越した枠組みにより、安定した世界の秩序を作るという20世紀に流行った夢の崩壊であるというものである。それは、ウエストファリア条約以後の主権国家体制の枠組みに戻らざるを得ないということである。佐藤氏の、アメリカの開発途上国化とトランプ政権が開発独裁類似であるとの把握は、非常に示唆的である。日本は今後このモデルを参考に、日米関係や世界での日本の位置を考えるべきであると思った。 
 
馬淵睦夫氏も、トランプ氏の方針をウエストファリア体制への回帰と捉えたが、それを日本にとって歓迎すべきことであると言っている。そして、トランプの演説の中にあった「米国は今後米国第一主義を取るので、各国も夫々の自国第一主義を取れば良い。米国は各国の内政に”チョッカイ”を出さない」という言葉を最大限に評価している。日本も自国第一主義をとれば良いので、先ず精神的自立を果たすために東京裁判史観から脱却すべきであるとも言っている。 
 
以上三人の似通った視点からの指摘を考えてみると、私は螺旋階段のように歴史は進むものだと思った。つまり、平面に投影すれば同じ点に戻ったとしても、ウエストファリア体制のときに戻るのではなく、現在は一巻き上の段階である。その縦軸の開き(時間の開き、軍事技術、経済的情況、国際関係などの変化)をどう把握するかで、取るべき政策についての考えも変化するだろう。その階段をあと数段登った所にハルマゲドンしかないのなら、必死でトランプ潰しをしている米国エスタブやマスコミの姿勢は正しいのかもしれないのである。 
 
つまり、この(歴史の螺旋を一回りした時間である)370年間の世界の変化は、地球が狭くなったということがある。そこで、自国第一主義を超大国も中小国もとれば、それは軍事弱小国の消滅を意味する。私が最近のブログにおいて、馬淵氏のトランプ支持を批判してきたのは、馬淵氏の考えに上記のような危機意識が同居していない様に感じるからである。日本は自国第一主義を今の時点から取れれば、それに超したことはない。しかし、それだけの覚悟があるのか、その覚悟とはどの程度のものか解っているのか、その環境を作る政治的力があるのか、時間的余裕と知的、経済的資源がこの国にあるのか、全てにおいて疑問が残る。(補足1) 
 
2)馬淵氏が言った言葉、それは3時間番組の最後の総括で司会の水島氏が言ったものと同じだが、「先ずなすべきことは、東京裁判史観からの脱却である」という右翼的姿勢は間違っていると思う。太平洋戦争の総括が原点から成されるべきであるが、それは東京裁判史観へ反対するという視点からであってはならない。それでは、“歴史修正主義者”というレッテルを世界から貼られるだけである。後ろ向きの姿勢ではなく、つまり昭和史の肯定に拘泥るのではなく、歴史に学んで前に進むことが大切だと思う。 
 
国家の維持発展が今後の政治の目的なら、それを危うくした太平洋戦争時の日本の指導者の間違いに学ぶべきであり、それをわざわざ神体として合祀した靖国参拝に参拝することなどは、その姿勢に完全に反する。志が如何に正しく崇高でも、結果を産まなければ指弾されるのが国家のリーダーである。(補足2)また、日本国が日本のこころに自己陶酔するようでは、世界の中で生きていけないだろう。 
 
国民一人一人が1日も早く、自分と家族の安全が、日本という国家の防衛に依存していることを原点から学び、そして、肌感覚で知るべきである。そして、どのような場合に日本の防衛が損なわれ、その様なことが起こらないようにするには、どのような備えをすべきなのかを、具体的にプロセスを含めて思考する力を持つべきである。“平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持する”という台詞は、「子供の国日本」の憲法に書いてあるが、それは本来軍事強国のものであると知るべきである。(補足3) 
 
日本国が、この期をチャンスと捉えること自体には賛成である。何故なら、人口数千万人以上の国家で“狭くなった地球”に残るは、軍事大国だけになる可能性が大きく、日本はこのままでは消滅する危険が大きいからである。この機会に、北朝鮮と中国の核の脅威を正しく把握し、それに対する対抗策を諸外国と連携して探るべきである。(補足4) 
 
 
補足: 
1)その覚悟を示したのが、北朝鮮である。あれだけの米国による脅迫と国際社会からの孤立を耐えて、自国の防衛に備えて核武装を成し遂げたのである。日本ではこの様な見方をする人は皆無である。こちらから向こうを見ることができるのに、向こう岸からこちらを想像する力がないのである。北朝鮮の場合は、中国のバックアップがあったから核武装できたのである。日本がその役割をトランプ政権に期待できるだろうか? 

2)子供の清い好奇心で自然に向かい国家予算を使うことが良しとされるのは、それなりの研究成果を論文誌に発表したときだけである。研究成果を出さなければ、穀潰しとして指弾されるべきである。

3)聖徳太子が、天皇家の敵対勢力をほぼ滅ぼした後に「和を持って貴となす」と言ったのと同じである。その言葉の意味を、この国は100年間間違って解釈している。

4)北朝鮮が核実験を行った時、ライス国務長官が日本に飛んできて、「日本は米国が守る」と言って日本の核武装論議の発生を抑えた。しかし、国民の間で核武装論議が生じる気配は全く無かった。その証拠に、北朝鮮が核兵器をミサイルに搭載できる様になっても、与党内ですら核武装は議論されていない。彼らは、H.キッシンジャーが「同盟国に対する核の傘を保証するために自殺行為をするわけがない」と発言したこと、つまり、核の傘など幻であることを知っている筈である。日本の政治家は、全国民を死滅させる核兵器よりも自分の政治家としての地位を失うのが恐ろしいのである。そして、公の場で「核兵器は人類の敵」という核大国しか言えない台詞を恥ずかしげもなく言うのである。彼らを解雇するには、全国民の政治的成長がなくては不可能である。