「アポロ計画陰謀論のウソ」と題するインチキブログがあったので、紹介する。https://matome.naver.jp/odai/2147856572723596101
 
政治的目的で書かれているようで、理系人間の私からみれば、説得力など皆無である。それでも、(アポロ計画、陰謀論)でグーグル検索すると、ウィキペディアの記事の次に出て来るので、敢えて反論する気になった。因みに、私はアポロ11号で人が月に送られて帰ってきたというのはウソであると思うので、その根拠を下の記事としてまとめた。
 
ここで議論するnaver.jpというサイトにある記事では、怪しげな論理を使いアポロ計画で宇宙飛行士は月面に立った筈だと訴えている。箇条書きに、可怪しい(可笑しい)と思う点について少しだけ指摘しておく。 
 
1.ブログ記事の表題「アポロ計画陰謀論のウソ」は、何か変である。アポロ計画は米国の巨大国家プロジェクトであり、陰謀ではない。 
 
2.「今、月に行けない理由は、膨大な資金が必要だからである」と書いている。アポロ計画の予算は250億ドルで、それは現在の貨幣価値で1350億ドルになると試算し、それだけ高額な予算がかかるので、今では月に行けないというのである。しかし、アポロ計画の費用の殆どは、技術開発の費用の筈である。そこで集積された技術を再現して一度だけ月に行くのなら、アポロ計画の予算の数%の資金で可能だろう。こんな誤魔化しをするのは、政治的動機で書いたからだろうと思う。 (補足1) 
 
3.宇宙飛行士が月着陸をしたという発表がウソであるという主張を始めたのは、“地球は球ではなく聖書にある通り平である”と主張するキリスト教の一派であると書いている。 
 
この“アポロ計画で月に人が立った”というのは捏造であるという説で、まともに取り上げるべき最初のものは、ロケット開発の会社に勤務していたビル・ケーシングの本(1976年)だろう。そして、重要なのはそれを取り上げ且つ独自の情報を収集して「人の月面着陸は捏造である」と論じたBBCの放送である。
 
 ここで記事を終わっても、上記サイトの記述が科学的議論の対象たり得ないことが分かるだろう。また、ダラスでアポロ計画を始めたケネディ大統領が暗殺されたが、その時にケネディ大統領は宇宙人の存在について演説の中で喋る予定をしていたという。その意図について1027日の本ブログに書いたが、それは「アポロ計画」を知る重要なヒントになると思う。
 
4.月面に残されたくっきりとした靴跡の問題については、「水も空気も存在しない月面の砂(レゴリス)は、粒が細かい上に侵食を受けていないため丸まっておらず、地球の砂に比べて非常に固まりやすい性質がある」と書いている。 
 
月の砂“レゴリス”で実験した様な記述である。筆者が飛行士なら、その特殊な砂を1g程持って地球に帰る。何故なら、あのような靴跡は、砂粒子表面の界面張力と水の表面張力の両方が、働かなくては出来ないと考えるからである。それら界面張力の働きにより、水を介して密に接触した二つの砂粒子が容易に離れられないからである。 
 
仮に砂粒子が丸まっていなくても、あのような靴跡は出来ない。これは物理化学的考察である。反論があるのなら、同じく物理化学的にすべきである。また、砂を靴で踏みつけた時に静電気が発生すれば、それは靴跡を崩す働きをするだろう。 
 
5.https:www. flick.com/というアドレスにあるアポロ計画の書類を紹介している。何故、NASAのアーカイブを紹介しないのか。NASAのホームページのかなり下の方のディレクトリにアポロ計画の成果が紹介されている。しかし、データの数、写真の数は非常に貧弱であり、人類初の月面着陸という誇るべき成果にふさわしくない。 
 
6.バン・アレン帯については、ロケットで無事通過できる可能性があると思うので、私はとりあげない。 
 
7.アポロ宇宙船の着陸跡の写真を紹介している。それに十分説得力があるのなら、アポロ計画での発表を疑う議論はなくなるだろう。しかし、写真の捏造など、だれでも出来る。また、「月の石」についての議論で、表面に微小なクレーターらしきものが見えると書かれている。しかし、このブログの筆者が屡々引用しているウィキペディアで「月の石」に関する説明を見たが、そこにはそんな写真はないので、信憑性に欠ける。 
 
尚、上に紹介した私のブログ記事では、NASAの発表した画像にある地球の半円形の像と、着陸地点で建てた星条旗の旗の影の長さが矛盾することを示した。
 
補足:
1)ペンス副大統領は今年(2,017年)10月に、再び人を月に送ると表明した。http://sorae.jp/030201/2017_10_06_nasamoon.html
21世紀に入ったばかりの頃に一度、米国は再び月に人を送ると発表したが、中止になった。今回は是非やってもらいたい。1960年代に蓄積した知識が本物なら、予算的にも技術的にも簡単に行ける筈だ。
113日は憲法公布から71年目にあたる。中日新聞26面(12版)によると、国会周辺で憲法9条改定に反対する集会が開かれ、元最高裁判事の浜田邦夫氏も9条改憲反対のスピーチをした。
 
この記事によると:
集会では、「憲法の番人」である最高裁の判事だった弁護士、浜田邦夫さんも壇上に立ち、「民主主義、立憲主義、法の支配を守るため、国民一人一人が勇気を持って発言していくことが重要」と主張。「改憲の検討自体は反対しない。しかし、安倍政権の独裁的手法を認めるわけにはいかない。安倍政権が目指しているのは、戦争ができる普通の国。戦前の日本に戻るコースだ」と訴えた。
 
この新聞は何を考えて「憲法の番人」なる言葉を、最高裁の形容に用いているのか?最高裁は長沼ナイキ事件で、自衛隊は憲法に違反するかどうかが問われた時、統治行為論”という屁理屈で憲法判断を避けた。憲法判断を避ける裁判所をどうして「憲法の番人」と呼べるのか? (筆者は最近、最高裁の憲法判断を避ける姿勢を批判したばかりである。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43453611.html
 
この記事によれば、浜田邦夫氏は2001-2006年に最高裁判事を務め、退官後の2015年の参議院公聴会で、集団的自衛権行使容認を違憲と指摘。それに関して、「民主主義の危機に黙っていられなかった」と語ったと書かれている。
 
この元判事は、全く我が国と国民の安全など考えていない。何故なら、現在の日本は「民主主義、立憲主義、法の支配」を守らず、核ミサイルを我が国に向けて、「日本列島を海に沈めることもできる」と脅す国と、それよりも巨大でもっと恐ろしいかもしれない独裁国を隣国に持っていることなど、念頭にあるとは思えないからである。この元判事には、現在の憲法を堅持し、それに従った外交でどのようにして国民の生命と安全を守れるのか、答えて見ろと言いたい。
 
安倍政権は独裁的手法を用いると言って非難しているが、それも全くおかしい。何故なら安倍政権は、選挙で選ばれた国会議員たちにより、法に従って作られた政権だからである。3日前にも、我々日本国民により10日程前に新たに選ばれた国会議員たちにより、安倍晋三氏が再度総理大臣として適任だと確認されている。それをまるで民主主義に反する政権の様に言うのは、小学生の論理さえ持ち合わせていないか、他国の利益のために発言しているとしか思えない。
 
集団的自衛権行使を可能にするという憲法解釈も、国民が信任している内閣のものである。それに反対しているのなら、今回の選挙でも自民党が勝利をおさめる筈がない。
 
昨日の集会で、「安倍政権が目指しているのは、戦争ができる普通の国。戦前の日本に戻るコースだ」と訴えたそうだが、「戦争ができる普通の国」を目指すことのどこが悪いのか?(補足1)普通の国になるのがいけないというのは、異常な国のままでいてほしいということだろう。また、普通の国に戻ることが何故戦前の日本に戻ることなのか?何も考えないでいい加減なことを大衆の面前で喋らないでほしい。ボケているのなら、家に居ろと言いたい。
 
兎に角、最高裁判事がこのような人から構成されていては、まともな機能は果たさないのは当たり前だろう。非常に寂しく悲しい気持ちになる。

 

補足:
1)ワシントンの米戦略国際問題研究所の上級顧問である、著名な戦略家のエドワード・ルトワック氏は、「戦争にチャンスを与えよ」(訳本は2017年4月出版)と言う本を書いた。20世紀の前半までは、この本の主張でもある、「戦争は外交の一環である」という考え(クラウゼウィッツの戦争論)が世界の標準だった。そして現在でも、戦争ができる軍事力は、戦争を避ける軍事力でもあるという厳然たる事実に変わりはない。日本人の「戦争だけはしてはいけない。そのためには非武装が良い」という全くナイーブな考えなど世界に通用しない。全ての日本人は、中国の李鵬首相(当時)がオーストラリア首相が訪中の際(1993年)に言った言葉「日本は取るに足らない国である。30年程したらだいたい潰れるだろう」を反芻すべきである。

宗教には表題に書いた二つのタイプがあるようだ。また、代表的な宗教は、二つの側面を持つようだ。以下は先日宗教について書いた文章の続きである。(22:50大幅修正) 

 

1)日本人にとって身近な宗教である神道を考えてみる。神道での二つの宗教とは、オリジナルな神道と伊勢神道(筆者の命名)である。オリジナルな神道は、自然に対する畏敬の念がそのまま宗教になったものであり、所謂アニミズムに属する。何度も取り上げて恐縮だが、深沢七郎の小説「楢山節考」の中に出てくる楢山信仰がその例である。高い山を神格化し、そこに参ることが死出の旅の始まりであるという宗教である。楢山参りは、人生設計の中にしっかりと組み込まれている。 

 

神道を信じることは、人として生まれた自分も自然の一部であり、自然は全体として調和的に存在し動いていると信じ、感じることだと思う。それは、草木、昆虫、動物から、岩、山、川、海、空に至る自然全てに対して畏敬の念を持つことであり、日本古来の文化となって定着していると思う。 

 

一方伊勢神道は、世界を創造した神とその子孫である天照大神の信仰である。それは、天照大神の子孫である天皇家に対する忠誠を、人々の間に醸成するという政治的意図を伴っている。原始的アニミズムに分類されるオリジナルな神道と比較して“先進的”と言えなくもない。(補足1) 

 

伊勢神道は、天皇を国家の象徴とし国民団結の旗頭とする意味があり、それは日本人がこれまで国家を維持し生き残る上で、大きな役割を果たしただろう。しかし、靖国神社を建立し兵士を鼓舞する方向に伊勢神道を用いたのは、結果として宗教へ頼り過ぎたのではないかと思う。そして、先の大戦での大きな犠牲は、知恵と戦略に欠けた為政者の無責任の結果であることを、後の戒めとして再確認すべきだろう。その為政者まで合祀したのは、時の宮司の国民に対する裏切り行為だと思う。(政治家の靖国参拝を支持する櫻井よしこ氏を批判した文章:https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/41369336.html) 

 

現在の何かとグローバル展開される世界において、伊勢神道は日本民族の故郷であるが、そこに拘っていては日本に生きる道はないと思う。 

それとは次元のことなる、他人を支配する宗教も多く発生している。それらは邪教というべきだろう。それについてはここでは触れない。 

 

2)世界最大の宗教神は、エホバ神(ヤハヴェ神)だろう。それを信仰する宗教は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教である。それらに於いても、濃淡の差はあるが上記の性質が“二つの側面”として存在するだろう。つまり、人が生きる為の知恵が集積された本として、聖書を見ることができる一方、特にキリスト教において、後述のように政治的に利用されやすい側面があると思う。ユダヤ教やイスラム教も、同じ宗教の人たちを率いるという政治的側面があると思う。 

 

旧約聖書は創世記で始まる。その創造神話は、自然と人間に対する極めて深い理解が背景になければ書けないので、本当に神のことばかもしれないと思う程である。人に、それらの本質を教えてくれる、知恵の書であると思う。そして、ユダヤの歴史の部分は、やはり民族の団結を意識したものだと思う。 

 

イエス・キリストの“ことば”は、ローマの支配下にあった人々に生きる勇気を人々にあたえただろう。そのイエス・キリストの言葉を用いて新約聖書を編纂し、新しい宗教として組織化し、強い勢力となるようにまとめ上げたのが、パウロだろう。(ウイキペディア参照) 

 

キリスト教の一派であるイエズス会が、ローマ帝国の宗教を世界に広めたのだが、それは世界各地の植民地化プロセスの最初の役割を果たした。それはまさに宗教の政治利用だった。キリスト教は“愛”の宗教だと言われるが、他国の人や政治を堕落させる武器ともなるのだろう。(補足2) 

 

その辺りについては、ニーチェのアンチクリストの翻訳書の一つを読んだ感想として、以前書いたことがある。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43225234.html

 

3)宗教は広い範囲に広がれば広がるほど、同時に政治的色彩が強くなるだろう。アニミズムの範囲の神道は、個人や集落や部族のものであるが、伊勢神道は日本国全体を制覇すると同時に、政治的色彩を強くしたと思う。それと同じく、キリストの教えもパレスチナの宗教、ローマ帝国の宗教、そして世界の宗教と対照範囲が広がるが、それぞれの段階で政治的色彩が強くなったのではないだろうか。 

 

人間の歴史を通して、大衆が満足した時代は少ないだろう。厳しい現実の中で、絶望的な将来に向かって希望を与える言葉が、結果として二枚舌になってしまうのは不思議ではない。パウロは、「神は世の中の弱い者を、世の中の愚かな者を、軽く見られている者を、お選びになる」と言った。それは大衆の心を掴むが、神がいない以上、現実は「神は自ら助くるものを助く」(God helps those who help themselves.)ということになる。 

 

上記パウロの言葉は、人間社会の大多数を占める下層に、上層に位置する人間の否定を教えたのである。その考えには政治的意図が含まれていると考えられる。おそらく意図的に挿入された政治的要素だろうし、世界に広がった理由の一つだろう。言葉で飾る民主主義とキリスト教は、非常に親和性があると思う。 

 

民主主義の価値観である、自由、人権、平和、正義といった言葉で、世界を統治できるのなら理想的である。しかし、現実は利益をどうあげるかで動いているのである。そのメカニズムを熟知した世界の国々は、理想論を表にだして、現実論で動くという国際政治を採用している。それは同じ人間の中に同居している以上、二枚舌と言わなければならない。それが世界の標準であるということを理解しないナイーブな国の代表が日本である。 

 

補足: 

1)学者は、アニミズム的宗教を原始宗教に分類する。その分類に従えば、伊勢神道は先進的ということになる。時代が進み、人の集合(社会)の単位が、大家族、部族、国家と大きくなるに従って、宗教も政治的側面を持つことになる。時の経過を進歩と呼ぶ習慣に従って、アニミズムを原始的と呼ぶだけである。それは“学問的偏見”の一つだろう。 

2)母親の愛は、幼い子供を育てるが、成長したあとは子供を堕落させる恐れがあるのと同様である。