3月23日追補: 最後のところ。
 
(昨日の最後の記事は詳細に書いた。読みにくい可能性があるので、短く内容をまとめた) 
 
森友問題も正念場となった。今日、葛飾区議会議員の立花孝志氏が公表したyoutube動画に非常に有力な説がアップされた。 
 
当初財務省は、森友学園が開校を目指す瑞穂の国記念小学校が、日本会議だけでなく安倍総理夫人(そして安倍総理自身)の支援があると勘違いしたことで始まるという説である。そして、その開校を異なった意図から応援をしたのが、大阪維新の会であり、更に建設会社の藤原工業や京都の設計会社である。 
 
当時大阪維新の会の橋下氏や小学校開校の許認可権を持つ松井大阪府知事は、安倍総理と近い関係にあり、財務省はこれら全て(つまり森友学園、大阪維新の会、藤原工業など建設屋の三つのグループ)を安倍総理の意向を汲んで動いていると考え、法を無視してまで全面的な協力を始めた。それを利用して、これら全部あるいは一部が最終的にはゴミ処理費用として8億円を敷地購入費として値引きさせることを画策した。 
 
もちろん、その全てではなく、かなりの部分を学園側が負担するとすれば、利益はその残りのグループが得るので、三方(あるいは二方かもしれない)数億の得という計算になる。(立花氏が維新側関係者として名前をあげて居るのは、橋下氏や松井氏ではなく、もっと下位の安倍府会議員である。) 
 
ところが、国会で8億円値引きの話が取り上げられ、安倍総理が「自分または夫人がこの件に関係したとすれば、総理だけでなく議員も辞める」と言ったことで、財務省は安倍総理周辺の意向ではないと気づいた。その動きをいち早く察知したのが、上記三つのグループの間を取り持っていた、森友学園の顧問弁護士の酒井氏である。 
 
酒井氏は籠池氏に、「このままでは大変なことになる」と言って、小学校開設願いを大阪府から取り下げさせた。近畿財務局の理財部では、これまでの証拠を隠すための書類書き換えに走った。それは不正に加担した自分たちを守るためのものであり、本省の理財局などは直接関係ない。(もちろん、書き換えの事情を話した可能性は高い。本省は財務省防衛のためにそれを許可した。)
 
以上が立花孝志氏の推理である。これ以上の詳細は、酒井弁護士の証言がなければ明らかにならないだろう。(補足1)今日は国会で集中審議がなされていたが、堂々巡りで何も新しいものは出なかった。与党側は佐川理財局長の証人喚問を延期した。
 
以上の話は安倍明恵夫人にも立花氏から知らされているので、新しい人が証人として呼ばれるかもしれない。また、この問題で正念場を向かえた人も居る可能性が高く、第3の犠牲者が出る可能性もある。そのようにはならないことを祈りたい。
 
 
補足:
1)佐川氏の喚問では、上記モデルを想定して誘導すれば、近畿財務局の事情を喋る可能性があると思う。
追補:その後(実際はこの記事投稿前の午前11時36分)足立孝志氏による解説がyoutubeにだされた。その考え方と以下は全く同じです。https://www.youtube.com/watch?v=mpcEdg11SgU(午後6時追加)
 
森友事件の国会審議が続いて居るが、それは事実究明の方よりも財務省の公文書改竄に重点が置かれて居る。昨年変死した田中造園土木の秋山社長は、自殺とされているが、何故自殺しなければならなかったのか?それに、今年の1月に自殺したとされる、森友学園用地の売却担当の財務省近畿財務局金融監督第三課上席調査官の赤木俊夫氏も、何故自殺する必要があったのか?
 
これらは国会の審議の方向、つまり安倍総理と財務省の責任を追求する方向では、全く解明されない。何故なら、予め政府中枢の支援で計画されたものなら、もっと単純な話であった筈で、恐らく何も明らかにならずに、今頃は森友学園は小学校を開校していただろう。
 
国会は、公文書改竄の追求よりも事件全体の真実解明を考えた方が、より短時間で財務省の責任なども明らかにできるだろう。その鍵は何かについて元NHK職員で東京都葛飾区の区会議員の足立孝志氏がyoutube動画で発信して居る。
 
 「森友事件」の大きな流れは、以下の様に考えられる: 
①大阪府松井知事が、森友学園名義で敷地を持たないのに学園側に小学校開校認可適当という通知を、ルールを無視してまで行った。(これは、単なるミスではすまされない。) 
②その通知を根拠にして、小学校開設認可が降りるのなら、随意契約で国有地売却が可能だという判断を財務省がした。 
③財務省が森友学園に実際に国有地を売却するのなら、瑞穂の国記念小学校の開設を大阪府は認可することができる。 
④その一連のプロセスを森友学園側にあって手続きをしたのが、酒井康生弁護士であったが、昨年3月に籠池氏に小学校開校願の大阪府からの取り下げを勧め、取り下げられたことを確認した後、顧問弁護士を辞めた。 
 
つまり、大阪府松井知事の離れ業で小学校開校とその用地の財務省による売却が可能になった。この辺りを徹底的に追求すべきである。開校申請の取り下げた後、籠池氏が「松井知事にはしごを外された」という類の話をしていたことが思い出される。
 
③と④の間に、
⑤財務省による敷地内で発見されたゴミの撤去費用として数千万円が支払われた。
3m以上の深部でのゴミの存在を主張し、その撤去費用として9億円あまり必要だと藤原工業が虚偽の試算をした。https://mainichi.jp/articles/20171116/k00/00e/040/280000c
⑦その虚偽の試算をもって、売却予定敷地の8億円値引きなどの決定を財務局がする。
⑧8億円値引き問題が表面化したので、安倍総理による「関与したのなら議員も辞める」との無関係宣言がおこなわれた。
 
財務省は、恐らく大阪府の知事や前知事の橋下徹氏らと安倍総理が一緒に食事するなどの関係があること、瑞穂の国記念小学校の名誉校長の名前に安倍総理夫人の名前があることなどから、①〜⑦のプロセスに安倍総理の関与があると勘違いした可能性があり、そのために⑤〜⑦の主として業者側が仕組んだことも総理周辺が背後にあると考えていた可能性がある。
 
ところが⑧の安倍総理の強い非関与の発言で、自分たちが総理周辺の意向と思って行っていた特例的なことが、安倍総理周辺でなく自分たちと森友学園、その背後にある工事業者による犯罪行為であることに気付いた。背後に安倍総理が居ると思って行った破格の学園側への配慮の責任も、自分たちがとる必要があることがわかった。
 
そこで書類の改竄を行なって、全く最初から合法的で一点の曇りもないものとして、処理をしようとしたのではないか。
 
従って、その真相を明らかにするには先ず上記①〜④の解明がなければ明らかにならない。書き換え疑惑の本当の動機や犯罪性も、上記①〜④の解明がなければ明らかにならない。上記①〜④のプロセスと深い関係があるのは、死亡した藤原工業の下請け会社である田中造園工業の秋山肇社長と財務省の赤木俊夫氏、そして、藤原工業の経営者や担当者、松井大阪府知事、それに森友学園の顧問弁護士だった酒井康生氏などである。(参考:http://trd.111e.jp/index.php?QBlog-20170418-2
 
これらの人、特に酒井弁護士の証言があれば、真相が明らかになる可能性があると、足立孝志氏が動画で発言して居る。是非、真相究明してもらいたい。鍵となるのは酒井弁護士の本当の立場である。森友学園側の利益のために働いていたのか、それとも藤原工業などの金儲けを企んだ側の人であるのか?後者の可能性を上記立花氏は考えている。それから松井知事は何を考えていたか? 彼らが、正に鍵を握る人物である。
 
なお、今日の森友問題関係の国会審議を見たが、野党議員はほとんど出ていない。この事に関連して、元ウクライナ大使の馬渕睦夫氏は、「決済資料の書き換えからこの件への総理の関与を裏付けるものは出てこないからである。また更に追求すれば、あの辺りの土地取引の真相究明に向かい、そこで問題として出てくるのは、日本会議以外の日本の強力な政治団体の関与があり、やぶ蛇的なことになる」と言っている。
1)法治主義(補足1)を背景に統治を行う国家が、法治国家である。国家の構成員とその構造、機能、構成員間の関係、及びそのあり方などについての全てを法律で定め、それに基づき国家を統治する。一方、統治者の徳で国を治めるのが徳治国家である。西欧の近代国家は前者であり、昔の中国や日本など東アジアの儒教国家は後者であったとされる。
 
東アジアも、産業革命をいち早く成し遂げた西欧諸国の法治主義を模倣して、現在は法治国家らしくなっている。しかし、東アジア諸国では徳治主義の残像が残っている。森友問題などは、法治主義と徳治主義の混在がその原因の一つなのだろう。「徳治思想を残像として葬り去って良いのだろうか?」が、今日の主題である。
 
海外で森友問題は「アベゲート」と呼ばれ、日本よりも事件性が強調されている。日本では安倍総理を守るべきとの主張も強いが、「厳格な法治主義者」を演じる野党の言葉の方が生き生きとしている。それは亡国のシナリオの可能性が高い。(補足2)
 
そのように考えた時、私の脳裏に「法治主義は万能なのか?」という疑問が湧く。東アジア文化圏に生きているので、答えはすぐ「NO」と出る。そして、「法治主義を万能と考える政治システムの欠陥に苦しんでいるのが、世界の実相ではないのか?」という疑問が新たに湧く。
 
2)人間は機械ではない。それと同様に、人間が作る社会も機械ではない。それを機械のように考えて社会を統治しようというのが法治主義である。「主義」であるからイデオロギー(理想論)であり、頭の硬い連中がハマり易いドツボのようなものである。機械の歯車はルールつまり法によって規則正しく動くが、社会を構成する人間は歯車ではなく、ルールに従うとは限らない。法治主義を厳格に追求すると、人は生きる空間を失う。(補足3)
 
「悪法も法なり」と毒杯を仰いだソクラテスは正しかったのか?おそらく古代ギリシャでは正しかったのだろうが、現在の世界では正しくないだろう。ここで言いたいのは「悪法」と「善法」があったとしても、それは状況により異なるということである。
 
社会の大多数の人間と子孫にとって幸せとなるように、法は制定されなければならない。そして、その判断は漠然とした概念ではあるが「徳」によってなされるべきである。つまり、優れた知性が徳で判断して書いた法により統治するのが、さしあたり善い法だろう。我々人間はそのような言葉にできない存在であり、その人間が社会をつくって生きていることを知るべきである。
 
その知性に欠けているのが、野党の連中である。野党構成員の多くは元社会主義者であり、良いルールを定めれば楽園ができるという思想に縛られた「楽天主義者」である。その「楽天」は、悲惨な結末に至るまで脳を支配する薬物のように作用することは、既にベルリンの壁崩壊以後の歴史が証明している。

 

法は言葉にしたルールであり、言葉にした瞬間に何か大事なものを失う。徳とか善とかいう漠然の中に、人は生きて居る。そのような面を、西欧一神教の世界は失って居る。
 
3)西欧社会の原点に聖書がある。何度も引用するのだが、ヨハネによる福音書の冒頭に「はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。この方ははじめに神とともにおられた。全てのものはこれによってできた。」とある。
 
ここで言葉とは「ロゴス」でありキリストのことであると協会の方々は言う。Logosはギリシャ語で概念、思想、理由などを意味し、論理(logic)と語源を共有する。素人っぽい漠然とした感覚だが、法(legislation)も同じ語源だろう。つまり、神のこの世界の設計書を言葉にしたのが、西欧社会の法に対する感覚だと思う。
 
その思想は、「人間は精巧にできた機械であるという考えから、それが作る社会も機械であり、それは一定のルールで動かなければならない。何か異常があればそれを直すのが、法である」という法治主義に至るのである。
 
人は当然、神の言葉に従わなければならない。神の言葉に従わないものは人ではない。そこに西欧文化の恐ろしさがある。神の言葉が、何時の間にか自分たちがつくった法に入れ替わっているとしたら、法治主義の行き着く先は何か?
 
機械論は科学として自然現象の解明方法として取り入れられ、大きな成果を得た。それを元に、西欧は産業革命を成し遂げ、蒸気船から原爆まで開発して世界を制覇した。今、立ち止まって考えるべきである。人は機械なのか、人間社会は機械なのかと。

 

中途半端ですが、今日はここで終わります。(補足4)
 
補足:
1)この知恵、或いは政治文化は、ヨーロッパで生じた。その背景にあるのが、一神教であると思う。韓非子などで知られる中国の法家も法治主義を説いたというが、それは現在まで継続していない。
2)法で国家を治めるには、権威と権力、そして、権力に付随した行政力がなければならない。権力だけで、恐怖政治的に法を適用したのでは、治めるということにはならないと思う。おそらく地検特捜部がリークした情報により深刻化した政権は、佐川氏の説明次第ではさらに追い込まれる可能性もある。https://news.yahoo.co.jp/pickup/6275454
なお、「地検特捜部の前身は”隠匿退蔵物資事件捜査部”であり、それは米軍占領下で日本の何処かに隠された資産を探し出すために米国により創設された。この部署は検察庁法にも明確な規定されない隠れ組織であり、徹底的にワシントンの利益のためにつくられた組織である」という指摘がある。勿論、事件の解明と法による処罰をするのは当然としても、日本国民はこの問題と政治の問題を考えるべきだろう。
3)自動車の制限速度が道路ごと場所ごとに決められている。それを厳格に守れば、不自然な運転となるだろう。また、信号が黄色になれば交差点に入ることは禁止され、交差点に居る車は交差点から出なければならない。しかし、信号を見てその判断をするのは生身の人間である。黄色に変わった瞬間にブレーキを掛けて交差点直前で止まれば、間違いなく追突されるだろう。本当は、「黄色になってから零点何秒後かには、交差点に入ってはならない」に改めるべきだろう。しかし、その秒数は年齢や人によりことなる。それらを考えて、幾分曖昧にルールを適用している。その曖昧さが、人に生きる空間を与える。
4)私は、昨日まで持論の法治思想から、今朝突然徳治思想に鞍替えした格好になって居る。しかしその議論を中途半端(曖昧)にして後に残して、ここで駄文を一応閉じる。