(3月25日午前7時、一部編集)
今朝(3/25)のサンデーモーニングで、寺島実郎氏は、“官僚は気の毒な職業だ。このままでは、日本の行政が官邸レベルになり、日本が官邸レベルになる”と言う趣旨の発言をした。内閣人事局が官僚人事を握ることになり、内閣官房の機嫌を損なわないようにしなければいけないことに対する発言である。
その場面に先んじて、近畿財務局が安倍総理周辺の意向を忖度し、森友学園へ不正に国有地を払い下げたのではないかという疑惑をめぐる国会質疑や、その中での自民党和田政宗議員の質問に対する財務省の太田充理財局長の必死に怒りを抑えて答弁する場面が放映されていた。(補足1)
しかし、行政が内閣官邸の意向を反映するのが、日本の政治システムの根幹である。寺島氏は、官僚独裁こそあるべき政治の姿だと思うのだろうか。官僚は、あくまで行政システムのエンジンであり歯車であり、司令塔であってはならない。従って、高級官僚を行政のトップが選任することは、米国でも当然のこととして行われている。
行政トップと行政府の職員の関係は、日米に原則的にはあまり差はないと思う。内閣の判断が下位にある官僚に伝達され、それを円滑に実行するのが官僚の役割である。勿論、実行が困難な場合は、その困難が官邸にフィードバックされて方針を練り直すことはあっても、官僚が独自判断で行政トップの意図に反することをするのは厳禁の筈である。
官僚が独自判断出来るのなら、所謂「官僚の無謬性」は成立しない。この表題にもあげた「官僚の無謬性」は官僚の役割に関する原則論であり、“公務員は誤りを起こさない”という意味ではない。その点については、全く異なったことを主張するサイトがあったので、それを紹介して置きたい。
2)先ず、上記原則論という解釈を取らない人の意見を紹介したい。小池都知事の誕生と同時に有名になった音喜多駿都議のブログに、“なぜ政治・政策はゆっくり・少しずつしか変わることができないか?—官僚の無謬性神話—”と題する記事がある。その政治が少しずつしか変われない理由の説明に、音喜多議員は「官僚の無謬性」を使っている。http://otokitashun.com/blog/daily/9141/
この根底に横たわる重要な概念が「官僚(行政)の無謬性」と呼ばれる、我が国に根強く存在するものです。つまり我が国では、官僚・公務員・行政は間違いを起こさないということになっているのですね。
その後、「官僚の無謬性」に関する説明が始まる。
官僚が行う政策には、長期スパンで行われるものが多く存在します。よってその影響も、何百万・何千万人にも及ぶことが予想されます。これだけ影響力が大きい政策を実行する官僚部隊には、万が一にでも間違いを犯してはいけないという強烈な圧力がかかるわけです。この強迫観念やプレッシャーが高じて、「官僚は間違えてはいけない=官僚は間違えない」という恐ろしい発想に飛躍していくことになります。
政治がなかなか動かないということには同意するが、「官僚の無謬性」の解釈は間違っていると思う。
これとは全く異なった解釈が、元経済産業省官僚の原英史氏によってなされている。ここでは、官僚の無謬性の原則の下での円滑な政治実現の鍵は、政策決定プロセスの可視化だいう議論を展開している。
戦前は、「最終的には天皇陛下がご裁断されたこと」という建前が、責任の所在を覆い隠し、checkをおよそ排除し、「無謬性」原則を形作っていました。現在ではそこに、「みんなで決めたこと」、「最後は国会で決めたこと」、「最終的には、政治家を選んだ国民の判断」といった建前が入り、「無謬性」原則を生かし続けています。
鍵は、一言で言えば「政策決定プロセスの見える化」だろうと思います。
その中で、どこまでが政治家の責任で、どこまでが官僚の責任なのかを明確にしていくことも求められます。その意味でも、きちんとした「政治主導」体制の確立は重要です。「何でもかんでも政治家が決めるのだ」といった類の無邪気な「政治主導」(補足2)ではなく、かといって、旧来の「官僚主導」に回帰するのでもなく。
ここで、「官僚の無謬性」は、「官僚は本来無謬であるべき、つまり、政治の責任は政治家にある」という意味である。http://www.fsight.jp/5752
3)ここまでの三人の議論は全て、日本の政治をどのように改善するかという話である。寺島氏の批判する官邸レベルの日本の行政(政治)は、日本の政治の原則論を批判していることになり、全くおかしい。何かの勘違いかと思う。内閣人事局の批判は、別の角度から別の根拠で行うべきである。
音喜多氏の政治が微速でしか動かない理由の解釈もおかしい。官僚にその原因を求めるとした場合、しっかりとした歯車として機能していないことである。また、政治家にその原因を求めるとした場合、民主主義における大衆のあり方や役割、そしてそこから優秀な議員を選び出す選挙制度の方向に話をすすめるべきである。
原英史氏の意見にある政策実行プロセスの可視化は、一見その通りだろうが、政治の世界が「清濁併せ呑む世界」なら、理想論にすぎると思う。その方向では、最近の内閣機密費の使い方も可視化すべきということになる。それでは諜報活動など出来はしない。
私は、日本国民の不勉強と劣悪な政治家に政治を任せていることに、日本の政治の停滞の原因があると思う。その克服には、もっと根本から総合的に問題を考えるべきである。それこそ、日本の文化、言語、宗教、歴史それらを総合する視点が不可欠だろう。
その一つの提言として一昨日ブログ記事をかいた。そこで、日本政治の停滞の原因として、一つには選挙民の不勉強とそれを許す文化があり、更に、選挙民の意志を十分汲み取らない日本の一票の格差や選挙制度があると書いた。
https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43605728.html
補足:
1)民主党野田総理の秘書官をやっていてため、「安倍政権をおとしめるために意図的に変な答弁をしているのではないか」と問いかけた。不適切発言として議事録から削除された。何故、削除するのだろう?残しておいた方が議事の詳細がより生き生きと分かると思う。議事録と議事要旨とは違うと思う。
1)大前研一氏の「中国にボロ負けして400年の衰退へ向かう日本」と題するmoney voiceに掲載メルマガ記事を読んだ。そこには、その主因として日本の教育制度の貧困さが挙げられている。大前氏は:「今の日本の教育制度は20世紀の大量生産・大量消費時代における中の上くらいの人材を大量につくるものでしかありません。エッジの効いた変わった人材、尖った人材をつくり育て21世紀の経済をシェイプしていくような仕掛けが全くないのです。」と嘆く。
「打つ手がなければ変わった人材を外国から呼び込む方法しかない」が、その議論も進みそうにない。そして、「世界の優秀な人材はみな日本に来たがっているのだ」と、「未だうぬぼれている」と続ける。更に「政治家や役人の状況からみて、日本の病が治る可能性はない。そこで、自分の会社やプライベートにおいて抜本的な改革を行うべきだ」と説く。ただ、その方法は次号と言うところで記事は終わっている。
以上の日本診断の、“外国人の呼び込み”以外の部分全くその通りだと思う。しかし、その国家としての日本を見捨てる姿勢、プライベートな生き残りに走る姿勢には反対である。本当に日本を憂える気持ちがあるのなら、日本にも大勢いる知識人には、知恵の結集と目に見える行動をしてもらいたいと思う。プライベートな対策では、結局海外に逃げるべきだと言うくらいの答えしか出てこないだろう。
大前氏は、日本再生は人材次第だと考えながら、その問題を殆ど追求していない。私は、素材としての人材は日本にも豊富に存在すると思う。ただ、適材適所に登用する文化がないだけだろう。日本の会社は就職する新人に、未だに封建領主の様な会社と労働者の関係を求めている。
その証拠に、日本では向いていない職場に、鬱病になるまでへばり着いて自殺するケースが多く報道されている。(補足1)つまり、人材の不適切配分と浪費である。「就職とは社畜になること」という現在の労使文化を破壊し、人材の流動性を高めるだけでも、日本社会の空気は一変するだろう。勿論、ネックとなっているのは政治である。その解決法は最後のセクションで考える。
2)文化的な面でもう少し考える。原因の背景に、日本の悪しき平等主義がある。日本は、収入も何もかも平等では無いという人もいるだろう。しかし、経済待遇において個別に多少の差があっても、或いは局所的に差があっても、日本社会を牽引すべき知識人層など存在しない。(補足2)つまり、そのような意識を持つ人間は個人として存在するのみであり、社会が或いは文化において、意識される程度の層を形成していない。
「厚切りジェイソン氏」(芸名)がVoice4月号に「意識高い系」で何が悪いという表題で、日本診断をしている。その考えを私流に解釈すれば、それは日本に知識人層が存在しないということになると思う。そのため、その層に入るべき人たちが社会の大多数の非知識人の中にばらまかれ、知識人層であるという自覚、役割を果す動機や義務感もないのである。それが大前氏のような発言を生む。
その結果、「アメリカ人は成功するために働いている。それに対して、日本人は失敗しないために働いている」という、厚切りジェイソン氏の指摘したような労働文化が主として知識人層に入るべき人たちの間で蔓延ることになるのである。その代表的人種が霞が関の官僚たちである。
知識人層に属するべき人がいても、日本にはそのような階層がないため、取っ付きにくい相手とか、理屈屋とか、学校秀才とかいう言葉で、多数派から煙たがられたり馬鹿にされたりする。(補足3)勿論、本当の理屈屋で役立たずの人もかなりいるだろうが、悪しき平等主義文化の保存のために、知識人層全体を馬鹿にするためのラベルに用いられている。日本で知識人と認識されているのは、単にマスコミに乗った人物である場合が多く、多少の知識とずる賢さや芸を持っている人たちである。
厚切りジェイソン氏の言う「意識高い系」が、「知識人層」と言える社会的階層に成長するだけで、日本は再生の道を歩むだろう。そして、知識人層に属さないような政治家は日本から消える筈である。官僚も、たまたま国会答弁などで表に出た場合、各人がもっと個性を表に出せる、個人として威厳を持った人たちになるだろう。そして、知識人層に属さない政治家が本来知識人層に属する筈の下野した官僚を呼び捨てにしたり出来ない社会になるだろう。
そのための方法には側面ごとに考えねばならないが、鍵となるのは労働の流動性を増加させることである。労働の流動性が実現するためには、年齢給的給与体系を廃止することを、労使の間を契約の際に必須条件とする。それらが実現すれば、自然と資格や仕事の質に対する報酬が十分支払われることになるだろう。それは、知識人に自信と威厳を取り戻させることになるだろう。(補足4)
日本の問題の多くは、西欧的政治経済システムを導入しながら、その本質を理解していないことに起因する。
3)更に、政治改革について少し述べたい。西欧の民主政を導入したのだから、一票の格差は完全撤廃すべきである。大前氏も述べているように、現在の与党の政治家を含めて多くの政治家は家業として政治家をついでいる。それが政治家のレベルの低い第一の原因である。彼等は田舎に地盤を持ち、組織化された少数の票で国会に出てきている。それを劇的に変えるのは、一票の格差の完全撤廃である。
現在の政治家は、家業が継げなくなるので反対だろう。しかし、それをやらなければ日本は潰れる。それを目指す運動を大前氏ら著名人らが、著名人であるという責任(高貴なるものの責任)を感じてやってもらいたい。
道は2つある。一つは最高裁に一票の格差の完全撤廃をさせるために、総選挙の際に全ての最高裁判事に☓をつけるのである。その運動を展開するだけでも、最高裁判事の意識が変わるだろう。☓をつける理由は、彼等は三権の内の司法を担当せずに、行政の下に従属することで、独自の判断を放棄し利己的怠惰な姿勢に浸かっているからである。一票の格差が二倍までなら良いなんて、憲法のどこに書いてあるのか?そのような判断は、彼等最高裁判事の国民を裏切るサボタージュである。
もう一つは、大選挙区による国会議員の選出である。全国を、例えば北海道、東北、関東、北陸、中部、近畿、四国、九州、沖縄&奄美の9選挙区に分けて、完全に人口当たりの定員をつけるのである。現在、国家の政治において小さい選挙区の事情を考慮する必要は少ない。それに、コミュニケーションは全国同時に均一に可能になっている。そこで、この案を提出すれば、反論は困難だろう。小さい選挙区の政治は地方自治体の議員から吸い上げることが可能である。
この考えは、橋下徹氏の道州制に似ているが、政治単位として道州を設けるのは、時間がかかるようなら、取り敢えず国会議員選挙のみ“道州制”を導入すれば良いと思う。日本の知識人、特にその中の有名人には、この日本国の危機に際して、責任を果たしてもらいたい。嘆くのは簡単だ。行動するのは難しい。
補足:
1)東大卒の電通社員の自殺について書いた事がある。彼女は何故退社して、出直さなかったのか。それを邪魔しているのは何か考えるべきである。また、本当に彼女が不向きではあるが電通の仕事がしたかったのなら、労災保険の適用はすべきでない。
2)同じ国立研究所に勤務した普通の高卒公務員の年金よりも、博士号を持ち海外留学(ポスドク)を経て、25年以上研究公務員で働いた人間の年金の方が低い。高い研究実績を上げても、それではnoblesse obligeも誇りも持てる筈がない。
3)厚切りジェイソン氏は“少なくとも「あなたは人生で何が大事で、何をやり遂げたい?」と聞かれたときに、自分の答えを語れなくてはいけないでしょう。日本ではそのように向上心を持つ人が何故か「意識高い系」と馬鹿にされがちですが、その意識こそが他の動物にない素晴らしい部分だと私は思います。”と書いている。(Voice 4 月号174頁)このような背景が、本来知識人のクラスに入る知的な人でも、若い頃考えるべき上記「?」を、まともに考えた経験がない場合が多い。
4)19日の参院予算委員会で、自民党の和田政宗氏が財務省の太田充理財局長を攻撃し、太田氏が気色ばんで反論する場面があった。あの失礼な知的でない発言に対して、あのような抑制した反撃しか出来ないのが気の毒だった。