北朝鮮の非核化問題から、米朝戦争や第三次世界大戦の勃発が危惧されて久しい。しかし、韓国文在寅大統領のオリンピックを利用した宥和作戦で、南北朝鮮トップ会談から米朝トップ会談までがスケジュール化されており、朝鮮半島の核排除と和平への期待が高まっている。実現すれば、文在寅のノーベル平和賞の声も聞かれる。http://www.sankei.com/world/news/180320/wor1803200044-n1.html ;

この動きに対して、一条の光がさしたように感じる人は多いだろう。ただ、この延長上に北朝鮮の非核化があるとは到底思えないことは、多くの専門家が語っている通りだろう。そして米朝トップ会談が5月中という準備期間をあまり置かないでスケジュール表に乗せられたことは、軽挙妄動だと考える人も多い。http://www.hochi.co.jp/topics/20180309-OHT1T50043.html ;

最近のトランプ大統領の政策を見て、彼を評価してきた日本の政治評論家の一部(補足1)は、淡い希望を見出してトランプに飛びついただけで、本当はテレビでデーブ・スペクター氏らのこれまでのトランプ批判が正しかったのかもしれないと思う。(3/30; 4/1の記事参照、特にhttps://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43612480.html 
 
そうは言いながら、”瓢箪から駒”という言葉もあるので、これらのトップ会談から北朝鮮の非核化と米朝和平の実現に期待している人が殆どだろう。それを望むのなら国際社会が忘れてはならないことある。それは、北朝鮮の金正恩がこれらの会談に向けて、非核化の意志を表明したのは国際的圧力で疲弊した結果であり、その圧力を国際社会が一致して継続するのが平和への唯一の道だということである。
 
歴史的経緯はともかくとして、現在世界の秩序を破壊する方向に進んでいるのは北朝鮮の金正恩政権である。(補足2)それを止めさせる難しい交渉に向かうのは、米国のトランプ大統領である。その両者の“会談という戦い”の背景にあるのは、北朝鮮の核兵器と米国の武力及び経済力である。中でも、北朝鮮への圧力の本体は、米国の武力攻撃の可能性である。
 
その米国の武力攻撃の可能性という「刀」に対して、それが鋭利な光を保つように、当事者だけでなく国際社会は一致して協力しなければならない。
 
それに反する行為が、表題に挙げた韓国芸術団とIOCバッハ会長の北朝鮮訪問である。韓国芸術団の北朝鮮公演を止めることが文在寅に出来たのなら、何故止めなかったのだろう。バッハ会長は何故、あのような会談を行ったのだろう。おそらく彼ら、特に後者は、ノーベル賞狙い(文在寅氏と共同受賞?)の気持ちが強いのだろう。愚かな行為だ。 
 
付録:殆ど全ての賞には、嘘が伴う。その中でもノーベル平和賞ほど、馬鹿げた賞はない。ノーベル賞は諸分野の歴史教科書に付けられた付箋紙のようなものかもしれない。しかし、それは選考委員が私的な判断でつけたものである。その付箋紙だけで歴史を勉強したような気になる人が多いと私は危惧する。
 
付箋紙をつけることや、重要箇所に線を引くのは教科書を持つ人の自由だが、それは教科書を汚すことになる。他の人も利用する図書館の本なら、付箋紙をつけたり線を引いたりすべきでない。付箋紙には本来価値などないことを人は知るべきだ。
(なお、日本の褒賞制度や国民栄誉賞は、もっと悪質である。)
 
補足:
1)米国の金融資本家がグローバル世界の成立を目指して、米国の政治を支配してきたというモデルで、世界政治を考える人たちである。ロックフェラーの回顧録に、そのようなグローバル化の活動を誇りに思うという言葉が書かれていると、政治評論家の馬渕睦夫氏は言っている。
2)朝鮮戦争の休戦協定にあるように、早期に和平の話し合いを始めなかった米国に、これまでの朝鮮半島の混乱の責任がある。それについては何度も書いてきた。
3年ほど前にヤフーブログの別表示名(同じID)に書いたが、長期間アクセスしなかったのが原因なのか、全部削除された。その中に重要なものがふくまれていたので、それをここに再録します。

人は言葉を話す唯一の動物である。私は、言葉に関する感心は昔から強く、日本語の特徴や成立についても特に感心が高かった。そこで、表題の本(ちくま学芸文庫、2008年)を見つけて早速購入し読んでみた。この本は主に、近代言語学の父と呼ばれるフェルナンド・ド・ソシュール(フランス、1857-1913)の言語学を中心とした近代言語学の入門書である。
 
ソシュール以前の言語学は、I期:世界に色んな物や概念の存在は先験的なものであり、それに名前をつけるのが、言語であると考えられていた。その後19世紀になって、第II: インドの古語、サンスクリットの発見に伴って、言語の歴史と起源を探ったが、結果は惨憺たるものだったということである。ソシュール以降が第III期であり:ソシュールの新しい言語論を出発にして、言葉のあり方とその構造についての考察が主な主題になった。
 
ソシュールは、言葉の“概念とその具体的な存在形式”を厳密に考察した。そして“人間の持つ普遍的な言語能力、抽象化能力、象徴能力、カテゴリー化能力、及びそれらの行動”をランガージュ(Langage)と呼び、色んな地域(言語共同体)での国語体をラング(Langue)と呼んだ。ラングは体系をなしている。
 
ソシュールの意味するラングの体系とは、他(の単語)との関係において個(の単語)が意味を持つような相互依存型の体系である。そして言葉の状態とその変遷を、共時態と通時態という概念で解析した。(注1)
 
ソシュール言語学で重要な点は、言葉に依存しない概念も事物(もちろん、人間が知覚し把握する事物や概念)も存在しないという考え方である。そして、『言葉の体系は、カオスのような連続体である“世界”に、人間が働きかける活動を通じて産み出され、それと同時にその連続体であった“世界”もその関係が反映されて不連続化し、概念化するという“相互異化活動”が言葉の働きである』(103頁)と要約される。
 
つまり、言葉は既に存在する概念にたいする表現ではなく、言葉は表現であると同時に内容(概念)であるということである。ソシュールは、その表現をシニフィアン、内容(概念)をシニフィエと呼ぶ。両者は言葉のユニットの両面であり、統合的にシーニュと呼ぶ。
 
その他、言語の恣意性(つまり日本語では牛はcow, ox, beefも牛という言葉を用いるなど、国語により言語(概念)体系が異なること)、更に、言葉には外示的意味(最大公約数的意味、denotation)と共示的意味(個人的、情況的意味、connotation)があるなどの記述がある。しかし、それらは言語学的には大切であっても、私にはそれほど興味はない。
 
私が最も興味があるのは、その言語の発生と人間が言語を習得する過程である。

前者に関しては、言語学は既に書いた様にヨハネの福音書のことばを持て余している状態である。つまり、言語学第II期を教訓として言葉の発生に関しては議論出来そうにないとして避けた。私は、最初に書いたヨハネによる福音書の中の「始めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」という言葉の定義は、人間の智慧では否定できそうにないと思う。(注2)ソシュールの言う相互異化過程も、その過程を仮定しただけで、我々はその結果としてのことばしか知らない。(注3)

一方、後者は教育学か発達心理学の領域なのかもしれないが、恐らく未開拓領域だろう。それは、生物学的ヒトが人間になる過程である。(注4)結論として、言語学は言語の発生および習得過程(人類として、そして、一人の人間としての両面での)に何も言えないのなら、未だ萌芽期の段階に留まっていると言えると思う。
 
注釈:


1)ある一定の時期の言葉の体系(共時態1)と次のある一定の時期の言葉の体系(共時態2)の変化、つまり体系全体としての変化を研究するのが通時的研究ということになる。その変遷のあり方を通時態というのだろう。この第5節(82-89頁)の最後に突然、共時態と通時態という言葉があらわれたのだが、この補足はこの節の解釈を要約してみたものである。
 
には「諸言語の起源の問題は一般に認められているような重要性をもたない。そんなものは、存在すらしないのだから」(『一般言語学講義』)と書かれている。言語学を理解していないのだろう。しかし、丸山圭三郎のこの「言語とは何か」には、「この問題(言語の起源)の重要性を否定したからではありません。逆に、言語の起源を探ることが、あまりにも大きな問題であるだけに、言葉そのものの本質を究明したあとでない限り手がつけられないという、方法論上の反省に基づくものでした」(48頁)と書かれている。 
 
3)もちろん、国によって概念の区切りがことなるという、言語の恣意性はその異化過程の結果だろうとは考えることは一つのモデルとして可能である。
 
4)幼少期に母親とその周囲から獲得する言葉によりヒトは人間に生まれ変わる。
 
1)トランプと金正恩の駆け引きをマッドマン理論で考えてきた。マッドマンの勝負は、何方の化けの皮が剥がれるかで決まるのだが、それはあくまで理論が当てはまる場合に限られる。マッドマン理論で分析が可能な前提は、両方ともまともな人間だということである。片方が本物のマッドマンなら、結末は予測できない悲劇的なものだろう。
 
最初にマッドマンの仮面を脱いだのは、北朝鮮の金正恩であった。その正体は、老練とも思える政治家であった。一昨日夜、NHKの21時のニュースで報道された、ロシアプーチン大統領の評価の通りである。金正恩を成熟した政治家だとプーチンが評価した理由は、あの情況下で世界のどこにでも届く核兵器を開発し、外交力を得た実績である。
 
しかし、トランプ大統領は未だにマッドマンの仮面を脱いでいない様に見える。米国は正面から、そして中国は背後から、北朝鮮に非核化の圧力を掛けていた筈だった。しかし、予定している米朝会談の一ヶ月少し前に、その戦略を台無しにしている。貿易戦争を中国と始めてしまったのである。そのチャンスを見て、金正恩は恐らく以前から進めていたと思われる中朝会談開催交渉をひと押しして実現し、中国を味方に引き入れた。
 
ティラーソン国務長官のクビを切り、マクマスター安全保障担当補佐官を超鷹派と言われるボルトンに換えることで、北朝鮮に最後の圧力を掛けたと思った矢先、それを打ち消すことになる貿易問題を持ち出して、圧力を掛ける役割だと思っていた中国を反対側に向かせてしまった。
 
これでは、トランプは本当にマッドマンであり、米国の余剰武器を使うために戦争をやりたいのかもしれないと、思う人も多いだろう。本物のマッドマンなら、マッドマン理論で上手くやっているとトランプを評価していた人たちの立場は根底から覆ることになる。
 
2)モノゴトがわからなくなった時、すべきことは視野の拡大である。つまり、思考の前提や自分の眼も疑う方向で、思考範囲を拡大すべきだろう。我々日本人は、どうしても北朝鮮非核化を最重要課題という前提で考えてしまうが、本当はそうではないのかもしれない。
 
そのように考えると、直ぐに一つのモデルが頭に浮かぶ。つまり、米国のトランプにとって重要なのは、北朝鮮問題よりも、貿易赤字問題の方だということ、そしてそれを言い出すことで次期選挙を有利にすることである。(補足1)
 
その場合、トランプは北朝鮮と和平を実現し、金正恩はその代わりに今後ICBM開発に向けた核兵器開発の放棄と、絵に書いた核兵器全廃プロセスを差し出すだろう。それをトランプは大成果として国内で宣伝するが、日本は核保持国の北朝鮮と付き合って行く最悪の結果になるだろう。その事態に対する対策を考えるべき時に、日本で出されている蚊帳の外論とか乗り遅れなど全く意味のないどころか、有害無益だと言うことになる。
 
今回の米中朝韓の外交問題は、元々日本に無関係な朝鮮戦争の後始末であり、蚊帳の外が当然である。それよりも、米朝和平後に核保持国となった北朝鮮が実質的に韓国を併合する(補足2)時、日本の防衛をどう実現するのかを考えるべきである。
 
この時点でも、日本はトランプの米国と友好関係を深める努力をすべきだと思う。友好関係とは両者にとって利益となる関係であり、それを冷徹な計算で実現すべきだと思う。日本人は、外交まで情緒的に考える傾向があるが、それは間違いだろう。

そして、米国の支援を得て、核抑止力を出来れば自前の核武装により、当面は米国の核配備により実現すべきである。友好を深めるためには、米国の貿易赤字の解消に一層の努力をすべきである。牛肉などの農産物の輸入、シェールガスやオイルなどの輸入など方法はいろいろあるだろう。
 
日本人は、米国の車をもっと積極的に評価すべきである。(補足3)また、レクサスで十分なのに、下らないドイツ車を輸入する悪癖を改めるべきだ。それらの草の根運動を始めるのも良いだろう。
 
トランプはマッドマンかもしれない。しかし日本がすべきことは、自分のことは自分でするという基本中の基本をより強く自覚することだろう。そして、マッドマンならそのマッドマンを如何に利用するかを考えるべきである。
 
最後に繰り返しになるかもしれないが、短くまとめる。
 
日本はこれまで北朝鮮と外交はなかった。一方、米国とは濃厚な外交関係にあった。そこで第一に考えるべきは米国との外交であり、それに比較した場合北朝鮮問題など小さい。拉致問題は存在するが、それは一億三千万人の生死よりも遥かに小さい問題であり、外交が拉致問題に拉致されてはいけない。米朝開戦となれば、日本で数十万人死亡するだろう。それを回避すべく行う外交は、北朝鮮相手ではなく米国相手の外交であると思う。
(以上は、素人のメモです。)
 
補足:
1)トランプはアマゾンを攻撃している。アマゾンはこれまであった中小の商店などを破壊し、それにも拘らずまともに税金を支払っていないと言っている。つまり、経済構造の変化或いは進化を否定するような発言をしているのである。本当のマッドマンの可能性は残っている。
2)おそらく、中国と香港のような一国二制度で、連邦制を取るだろう。そして、韓国民にとって、香港人のような苦しい時代が始まるだろう。文在寅は、戦争を避けるべく米朝の間を取り持つことに成功したが、主役としての出番は無くなった。金正恩の方が、役者が一枚も二枚も上だった。
3)どうでも良いことだが一言。これまで私が乗った最高の車は、1980年代に買ったシボレー・マリブ(two door coupe)であった。その次が今乗っているトヨタのアベンシスである。