1)フジテレビ系の番組で北朝鮮問題を議論していた。ゲストは宮家邦彦、武貞秀士、有本香の三氏である。武貞氏は、「北朝鮮は核保持を憲法に唄っているので、廃棄は困難である。従って、米朝交渉の入り口で核を捨てさせるという戦術は取りえない。北朝鮮は核兵器を朝鮮半島統一のために持っているのだから、出口で捨てさせるようにするしかない」と言っている。更に、「統一のための核兵器だから、統一してしまえば役立たない」という発言は、日本人とは思えないものである。
 
私には、武貞氏が何人でどこの国の利益を考えてこのようなことを言っているのかわからない。武貞氏は拉致問題の解決を最大の成果として、今回の北朝鮮問題の幕引きを受け入れる考えのようである。それは、韓国の意見の代弁のように聞こえる。武貞氏に対する似たコメントがあったので引用する:https://snjpn.net/archives/31057
 
武貞氏、そして、ホスト側のパックンが言うように、トランプは北朝鮮の核放棄を諦める路線を取る可能性が高い。一方、宮家氏は米国の利益を代表するかのように(日本国民を騙すことになると思われる)、米国の強硬姿勢を宣伝している。両者の意見は対立するように見えるが、実は同じ将来を違う角度から見ているに過ぎないと思う。呉越同舟とはこのような時に使うのだろうか?
 
チャンネルを替えた時、毎日テレビ系の放送で寺島実郎氏が、日米首脳会談の中身を議論していた。そこで、「安倍総理とトランプ大統領は蜜月関係を演じているが、外交関係で重要な問題の議論はほとんどしていない。朝鮮半島問題では、日本側を納得させるために拉致問題解決と貿易問題での譲歩で終わるのではないか」と言っていた。
 
これらの番組出演者の姿勢で共通しているのは、核兵器を持つ統一朝鮮の出現を(渋々か積極的かは別にして)認め、日本から独自核武装の議論を排除するという、米国並びに日本以外の極東アジア諸国の戦略に沿っている点である。
 
その為の有効な日本国民を対象にした目くらまし手段は、拉致問題である。つまり、拉致問題を、これらの問題と同じかそれ以上に大きく見せかけて、その解決を日本国民に見せるのである。つまり、日本もこの朝鮮半島問題の解決に関して、蚊帳の外ではなかったと、日本国民を騙すのである。


拉致問題(拉致被害者救出問題)は比較的小さい問題であることは、既になんども書いてきた。4月9日、4月18日のブログ記事もその趣旨で書いた。(補足1)
 
2)米国のトランプ大統領は、朝鮮半島統一の時に、完全、検証可能、且つ、不可逆的に除去する(complete, verifiable, and irreversible dismantlement; CVID)形で核兵器を放棄するという類の約束を例によってするだろう。しかし、その約束は、完全で検証可能な形で後々テーブルの上に置かれないだろう。そして、その約束は単に幻の出口に置かれたゴミ箱の近くの紙テープに過ぎないだろう。
 
これまでごまかし外交を常としてきた北朝鮮と米国の歴史を考えれば、数年後の約束など風化消滅する可能性大である。宮家氏や有本香氏の言う通り、二度あることは三度あるだろう。これまでの北朝鮮の約束反故は、北朝鮮だけの責任ではない。それを許した米国の責任も同程度非難されるべきであると言う人も、トランプ大統領を含めて多いだろう。それを攻撃しながら、これだけのパーフォーマンスをしながら、同じことをトランプ大統領はするだろう。これまでを非難して、脅しの格好をして、新たな約束をするだけなら、誰でもできる。実行は他人任せなのだから。
 
そこまでは、共演者としての日本のトップが安倍総理であってほしいというが、本音だろう。安倍氏との外交なら、なんとなく格好がつくのである。野田聖子氏や石破茂氏が仮に俄か総理になったとしても、この演技は無理であり、米国が日本に押し付けたという印象を四方八方に与えてしまう。
 
これらの放送で、日本の防衛をどうするかの議論が欠けているが、それは元々これらの放送局は日本の自立など視野にないから当たり前かもしれない。日本は朝鮮戦争の当事国ではないので、この北朝鮮問題について直接的に拘らない。宮家氏が言ったように、本来蚊帳の外で良いのである。しかし、事が東アジアの政治的安定性、そして、日本国の防衛問題にまで影響するのなら、日本も積極的にその部分で関与すべきだろう。
 
それと同時に、事の成り行きを睨みながら、日本の防衛体制を独自に考えなければならない。その話を今回首脳会談で、安倍総理とトランプ大統領がしたのなら、評価されるべきである。従って、いつもの政治の問題と同様、安倍外交の評価は歴史がするだろう。

兎に角、憲法9条第二項を変えるべきではないという意見の政党が、与党に加わっている現状では、日本の将来はないし、その日本の現実を金正恩の所為にするのは、迷惑な話だとキム氏は言うだろう。


補足:
1)この拉致被害者救出問題を、一般に呼ばれるように単に拉致問題と言及するのは非常におかしい。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43631245.html
それは、この問題は既に終わった「北朝鮮国家による日本人拉致事件」と、これから日本政府がやらなくてはいけない「日本人拉致被害者救出問題」の二つを一緒にしているからである。前者の責任は日本政府にあるのだが、不思議なことにその追求をだれもしない。(上に引用の記事参照)後の問題は、日本の防衛力の問題であり、防衛軍を背景にして北朝鮮と交渉すべき問題である。憲法9条第二項の廃止に反対する与党の一部と野党の連中が、拉致被害者救出を大問題のように言うのは、論理的におかしい。西部邁さんの、彼ら等を非難するジャップドットコムという声が無くなったことが、非常に悔しい。
1)無神教は、神がいないと信じる人たちを分類するための言葉である。神など存在しないと言い切るのも宗教の一種と思われるからである。何故なら、科学的には神が存在するとも、しないとも言えないからである。(補足1) 
 
一神教はユダヤ教、キリスト教、イスラム教などを指す。同じヤハウェ神の信仰なのに教義に違いがあるのは、宗教改革の結果だろう。また、その間、神は沈黙されていたのだろう。 
 
無神教と一神教は似て居る。それは価値や善悪の基準を原点に置くからである。善悪で言えば、原点にあるのが善であり、そこから離れるのが悪である。その原点に自分が居ると信じるのが、二つの宗教の共通点である。 
 
二つの宗教の違いは、無神教では神が居ないことであり、一神教は自分が神と同じ処に居ることである。 
 
多神教は両者とは異なり、価値や善悪の基準は自分の外にある。自分も他者も、何かあればその基準を探すという努力しなければならない。多神教の信者が作る国で私が知って居るのは、我が日本国である。 
 
 
一神教の国とは、例えば英米などヨーロッパ、無神教の国はどこかはここでは敢えて言わないでおく。 
 
2)人間は互いに協力することで社会を造って生きて居る。この協力とは、自分の権利の一部を公に預けることである。その段階で、ともかく原点から部分的であれ自分が退去しなければならない。(補足2)
 
社会を造り生きているとしても、トラブルはつきものである。しかし、トラブルの解決をしなければ、正常な社会を回復できない。その解決のプロセスに、これら3つの宗教信者で、大きな違いがある。
 
トラブルの解決は、原因を探すことから始まるのだが、無神教と一神教の信者は、必ず相手側にその原因を押し付ける。それは、原点に自分がいるのだから、トラブルが生じるとすれば他者が原因である筈と考えるからである。 
 
一方、多神教の信者は、トラブルの原因を探すとき、自分と相手側の両方を含め、その間を探す。そのため、同じ宗教の信者の間のトラブルなら、その解決が一番早いのは多神教信者の間のトラブルである。(補足3)
 
無心教の信者間でトラブルが生じた場合、その収束は極めて困難だろう。力での解決以外にないだろう。運良く国家が存在した場合、国家権力がその収束に当たるだろう。 
 
一神教信者間のトラブルでは、当事者双方ともに必ず自分が善であると思うので解決に時間がかかる。つまり、何方が原点である神の位置に近いか、その決定を第三者に委ねることになる。 
 
つまり、裁判制度を一神教信者が考え出すのは、必然である。多神教信者は、裁判をする前に当事者双方が解決に至る可能性が高いから、そのような面倒なことでGDPを嵩上げする必要がないのである。 
 
あと一点だけ指摘して、話を一応終わる。 
 
最後の一点:それは、以上の点を日本は外交上常に頭に置くことが必須である。一神教の国は未だ良い。公平に判断できる第三者を探せば、トラブルは解決可能である。しかし、無神教の国とは、力しかトラブル解消の方法がないことである。
 
補足: 
1) 人間が作った知的体系として、科学は最高の緻密制と整合性をもつ。従って、科学的認識法は最も広い範囲の人々が共有できる。
2) 一神教であれ多神教であれ、人間は宗教を信じる前に社会性を持っている。従って、自分を絶対的な神の原点に置くことに抵抗感が残っている筈である。従って、ここでの議論はあくまでも単純化したものである。 念のため、補足します。 
3)所謂落とし所を双方が探す。この時、どうしてもゴネ得が発生する。それが多神教信者の侵しやすいミスである。
(18:00編集)
 
人間社会は、色んな人がいて成立する。人間社会は非常に広く、その中で生きる人たちも様々な性格をもつ。職業により人の性質が変化していく場合もあるし、人の性格が幅広く分布しており、様々な職業に就くときに適当に性格に従って分配されるのかもしれない。
 
粗野な人、温厚な人、厳格な人、気の長い人、短い人、人が好きでやたらと距離を縮める人や、孤独を愛する人などなど。それら別種の人格(性格)を持つ人たちは、それぞれ気のあったグループを作って職場でその他の社会で生きて居るのが人の世界ではないだろうか。
 
それらの別種の人間が、ちょっと袖触れ合った瞬間に、片方は普通の言動や態度であっても、他方は非常に腹立たしく思う場合があり得る。それが、所謂ハラースメントと呼ばれる“イザコザ”だろう。それに対して国会が出しゃばって、更に、報道機関が金になるからという浅はかな動機で問題にしたのが、今回のセクハラ騒動ではないだろうか。
 
ハラースメントは原則関係者間で解決すべき問題である。この種の個人間の問題解決に法が出てくるのは、第二の段階である。つまり、法は最小の道徳であり、法で罰せられる以外の所謂ハラースメントは、第一に個人間で解決すべきである。


一方、法に触れる行為は処罰され、犯罪と呼ばれる。そのような行為なら、ハラースメントというわけの分からない外国語を使うべきではない。迷惑行為で、国会が占領されたり、行政府の事務次官を解雇したり、辞任を強要したりするのは異常である。野蛮国か、多数の他国のスパイが国家機関の機能を妨害するようになった、病的国家の出来事だろう。

 
また、職業にふさわしい人格、場所にふさわしいマナーはある。しかし、女性と男性が同じ空間で生活をし、仕事をする場合には、男性に相当の配慮が必要だが、女性にも同様の配慮が要求されるべきである。
 
セクハラは双方向から防止を考えるべきである。若い女性が、天下の公道をスケスケルックのミニスカートで闊歩するのは、男性に対するセクハラである。女性側にセクハラ防止の努力が足りないことを指摘したい。女性がセクハラで訴えられたという話を聞かないのは、単に行為の方向性によるのだろう。
 
また、仮にセクハラ等が発生しそうな場所に、それを起こしそうな人を採用した場合、そのセクハラ1-2件でただちにその人を解雇したりするのは、選任した側の責任を選任された側に押し付ける行為である。
 
兎に角、迷惑行為で人の人生を破壊するような仕置をするのは、独裁国家のやり方である。日本はマスコミ独裁なのか?