朝日新聞のピンクトラップ(サブサイトに掲載しましたが、閲覧が少ないので、こちらにもアップしました。)
 
朝日新聞は社をあげてピンクトラップを行なっているように見える。福田次官への取材と称する女性記者の接近は、次官室でも官庁の然るべき部屋でもない場所で行われた。週間朝日の記事では、駅裏のロシア語の店名のバーだという。わざわざ夜に、男一人が酒を飲む怪しげな店名のバーに、録音装置をもって出かけて行って、何がセクハラなのだ?https://dot.asahi.com/wa/2018042100013.html
 
それを女性記者が望んで行ったのでなく、朝日新聞社の業務として、上司が行けと命じたのなら、それはその上司のパワハラではないのか?その音声データを確認した女性記者は、どう言ったかわからないが、その上司はすくなくとも「やった。しっかりセクハラ発言を録音できた」と言っただろう。
 
それは、女性が福田次官にどこかを触らせて、何か機密に類する情報を吐かせようと体を張った業績稼ぎだったのか、そのセクハラ発言を録音しようとした一種のピンクトラップなのか、女性記者の上司のパワハラのどれかでなければ、一体なになのだ。裁判すればよいではないか。
 
もちろん、裁判の結果がでるまで、朝日新聞社には担当の裁判官や検事の名前を教えてはならない。全く別の用件でも、朝日新聞社の女性記者には彼らへの取材を許してはならない。
 
つまり、福田次官の女性記者への発言は、そのような場所にふさわしい私的な口説き発言だろう。そのような発言を受けることまでは、その場所と時間を考えれば、互いに合意があったと考えるべきである。
 
中国のピンクトラップについては、テレビで岸博幸氏が体験談を喋っている。デパートに視察か何かに言った時、「どの店員がお気に入りか知らせてください」と耳打ちされたというのである。その時は、とんでもないと断ったという。竹中平蔵氏の秘書官をしていた時の話である。スケールが一桁小さいだけで、パターンはほとんど同じではないのか?

1)道徳と道徳教育のあり方:
「道徳」を辞書(広辞苑第二版)で引くと、「ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為を規制するものとして、一般に承認されている規範の総体。法律のような外面的強制力を伴うものではなく、個人の内面的なもの」とある。(補足1)

道徳は、ある社会における善の基準である。その道徳による善の基準とそれに対する人々の忠実度が、その社会全体の性質を決める。道徳はその国(その地域)の現実社会と固有の伝統的文化(歴史)が決め、家庭や学校で教育される。日本のような多神教の国では、道徳を宗教に頼ることは出来ないため、家庭と社会が道徳教育を意識的に行うことが大切だと思う。

子供が社会の成員となる前に、何が善で何が悪かを学び、どのように「善」が個人の生活を豊かにし、社会(とその枠組みとしての国家)を安全で暮らしやすくするか、個人の生活と社会を守るのにどのように役立つかを、出来れば論理的に修得するべきである。(補足2)

「論理的に教えることが大事である」ということは、18世紀の哲学者カントの定言命法という考えを否定している。つまり、「人を殺すことはいけない」という道徳の存在理由を聞かれた時に、「悪いものは悪い」と答えることは知の堕落だと思う。(補足3)また、「戦争は絶対悪だ」と言えば、それは自軍の戦意を無くする効果しかない。しかし「戦争にもチャンスを与えよ」(ルトワック著)と論理的に自衛軍の戦意を鼓舞すれば、情況は全く違った方向に進むだろう。

2)道徳と宗教と社会の関係:
一神教の国では、道徳教育の骨組み或いは底辺に流れる精神を、その宗教の聖典が中心的に記述するだろう。一神教の聖典は、ある民族の生き残る戦いの歴史と、そこで確固とした基礎を作った統率者の言葉を、神の言葉として記述したものである。指導や戒めの言葉や社会のルールも、神の言葉として記述されているだろう。勿論、その細部まで記述した法典は、存在するだろう。

多神教の国では、宗教は明確な道徳基準を与えない。そこでは別途、先人の知恵や哲学を記述した本が存在するだろう。インドの仏教や中国の儒教や道教などは、本来その類のものだと思う。この場合、仏教の哲学はローカルな多神教と結びついて、道徳の底流をなす宗教となる可能性がある。日本仏教はその例だと思う。

一般に神を想定することは、個人の増長を抑える意味がある。従って、多神教でも一神教でも、自分(の欲望)を小さく抑えることを要求する。つまり、社会を生物に例えれば、その中の様々な器官を作る一つの細胞のように生きることを個人に教える。その一般向けの道徳は、社会をリードする立場を得るときには障壁となる。

多神教の場合、その壁を超えるには、蛮勇を振るう場合と周囲から押し上げられるかの何方かが必要である。蛮勇を振るう場合、その人が本当に野蛮であるに過ぎない可能性がある。周囲から押し上げられる場合、その人が大衆受けすることと優れた知的能力の両方を持たなければ、優秀なリーダーになれない。従って、社会が優秀なリーダーを得る可能性は低い。つまり、多神教の日本では、優秀なリーダーを得ることは至難だろう。

無神論が支配する国家の場合、リーダーは権力闘争の結果として決まる。従って、一定以上の優れた政治能力が保証されている。中国がその例だろう。

一神教国のリーダーの選ばれ方の詳細は知らないが、そのエッセンスを想像する。この場合、神との対話というプロセスが大事だと想像する。一神教の聖典は、現在まで残ったという事実が、優れた内容を持っていることの何よりの証明だと思う。それは神の言葉であるから、神との対話は可能である。神の答えは、聖典の中にある筈である。米国大統領が、就任の際に聖書に手をおいて誓いの言葉を述べるのは、それを示していると思う。

対話を聴いた周囲の人間は、神と対話するものがどの程度の人物であるかが直感的に分かる。言語感覚(ランガージュ)が人類共通だとすれば、リーダーを得るという点では、一神教の民族は有利である。また、民族の言語能力を磨くという点でも、聖典を持つ有利さは圧倒的だろう。(補足4)

3)世界の政治環境と日本の愛国教育のあり方
人間の知恵のはじめに言葉がある。(補足5)言葉を用いて「地球に棲む人と、人が作る社会」を論じ、人に知恵と戒めを与えたのが一神教の神だろう。それは古代の書物であるので、道徳、政治(歴史)、学問(哲学)の三つの分野の全てが、未分離のまま総合的統合的に語られていると思う。

多神教の国である日本の道徳は、古来、他人特に弱者に対する思いやり(仁、情)、正しい行いによる社会への貢献(義、和)、家族間の協力(愛、慈、孝)など様々な言葉で語られ、教えられてきた。それらは主に、利己的になりやすい個人を戒めるためのものである。人々は様々な本や社会の慣習から学ぶが、それらを学ぶ際に一神教の場合と違って神の人格を感じることはない。道徳教育がないのなら、それら道徳の個人の心の中での支配力は、非常にバラツキが大きいだろう。

政治の道徳に対する影響は、封建時代の忠孝、絶対主義国家の時代の忠君愛国、国民国家の時代の愛国と、時代に応じて変化してきた。戦前までの日本で行われていた修身敎育は、敎育の最重要項目とみなされていた。
修身は、国家主義(補足6)の時代の道徳教育であり、個人主義(補足7)の時代になり廃止された。

第一次大戦直後に一旦国際社会と呼べるシステムが、まともに機能すると期待された時期もあった。しかし現代の国際環境は、独裁国家の性格を強めつつある国(中国やロシア)、どこから見ても独裁国である国(北朝鮮や中東やアフリカの諸国)、民主国家を標榜しながら非合法行為も行いうる国家機関を持つ国(英米イスラエルなど)などが混在し、野生の世界の様相を呈している。
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過去の歴史の中に、支配者や為政者が人々を政治的に支配する上で都合の良い人格形成を目的として進めたという、悲惨な歴史を日本国民は記憶している。しかし、上記国際環境の悪化を考えれば、国家の枠を軽視することは、将来国家の滅亡と国民が生きる空間を無くする可能性が大きいと危惧される。それは、道徳教育として愛国教育が将来の国家の生存のために必要であることを意味する。

その意味でも(過去の歴史を繰り返さないためにも)、道徳教育(愛国教育)は論理的に行うことが非常に大事だと思う。

補足:
1)因みに、「倫理」を辞書で引くと、「人倫の道、実際道徳の規範となる原理。道徳」と書かれている。辞書では道徳と論理に明確な差は記されていないので、ここでも区別しない。
2)教えるべきは、何が善で何が悪かという、行動と善悪の判別表ではない。教えるべき知恵は、人間と社会と社会の改善の三つに関しての理解である。
①我々はか弱き人間であり、一人では現在使っている物の何一つも作り出せない存在であること、②社会や国家は、我々が現状において相互扶助的に生きる機能を既に備えていること、③今生きている人間一人一人が、その社会と国家を世界の変化に即応させ、更に世界の変化をリードする責任を持つこと、などである。

①毎日利用している便利さの0.1%も、一人では独力では作ることが出来ない。我々の毎日の生活が成り立つのは、我々が社会をつくり国家を形成して、相互扶助的に生きているからである。②相互扶助の原則において大事なのは、自分に相応しい量を受け取ることと、貢献することである。どれだけが自分に相応しいかを見つける為には、他人から意見を聞くことも必須である。人とその種の情報交換をする際に必須なのは、ウソをつかないこと、そして正しく理解し易い言葉を用いることである。二枚舌が支配しては、健全な社会形成は不可能である。③その社会や国家は、頭脳と行動力に優れた先人達の努力の成果であり、それを無条件に大切に思うべきである。この国もその一つであり、この国の興亡は今生きる国民の知恵と努力にかかっている。そして、この国を時代とともに変化する世界に適応させ、更にこの世界の流れを良き方向に導くことが、今後に生きるエネルギーを持った人たちの責任である。

3)数学者を名乗る藤原正彦という人が、テレビ番組で「人を殺すことは悪いのは何故?」という問には、「悪いから悪いのだ」と教えるべきだと言っていた。この人のレベルが知れるというものだ。「国家の品格」という本で人気を得たが、あまり勧められた本ではない。
4)日本の知は、中国の書物(仏典、四書五経、老荘の類)に完全に依存している。しかし、言語が母国語でないので、知や言語能力を磨くことには役立たなかった。
5)“はじめにことばがあった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。”戸口に立つことで有名なキリスト教のある一派が来た時、このヨハネによる福音書の出だしの言葉について聴いた時、その方は言葉=キリストと読み換えれば良いだけと信じていて、非常に驚いたことがある。
6)ここでは、国家主義を「個人よりも国家に優位性を置く政治的考え方」と定義する。全体主義を極端な国家主義と定義し、対義語として全体主義の対義語である個人主義を採用する。国家主義の対義語を検索して探せば、国際主義やグローバリズムとするサイトが多い。しかし、それらは国家主義の対義語にするほどの実体性がない。国際連合中心主義を叫ぶ政治家は、現在では夢想家でしかない。グローバリズムを目指した共産主義が、全体主義に堕したことを考えてもそのことは分かる筈である。
7)個人主義とは、国家や社会の権威に対して個人の権利と自由を尊重することを主張する立場。民主主義は個人主義が政治思想となったものと考える。

(4月25日午前6時編集)
北朝鮮による拉致被害者を救出する問題は、日本にとって大きな問題である。しかし、この問題は十分理解されていないと私は思う。その証拠だが、この問題が単にに拉致問題とだけ呼ばれていることである。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43631245.html
 
実は拉致の問題には、二つある。それは、この問題は既に終わった「北朝鮮国家による日本人拉致事件」と、これから日本政府がやらなくてはいけない「日本人拉致被害者救出問題」の二つである。
 
前者の責任は日本政府にあるのだが、不思議なことにその追求をだれもしない。日本国憲法に違反して、日本政府は日本人の基本的人権を保証することに失敗したからである。(上に引用の記事参照)その責任は日本国政府が取らなければならない。
 
北朝鮮政府が日本人を拉致したのだが、北朝鮮とは国交はない。従って、それの原因は第一に日本の沿岸警備力がなかったことである。そのほかに、容疑者に協力できる人間が国内に多数在住していることも今や常識であり、それをそのままに放置したのも大きな問題である。

 

それを北朝鮮の責任だというのは、「戦争に負けた責任は、相手国が取るべきだ。なぜなら、相手国が強過ぎたからだ」というのに等しい論理である。
 
後の問題も、日本の防衛力の問題と関係している。つまり、拉致被害者救出は、普通の戦争をできる国としての体勢を整えて、北朝鮮と交渉すべき問題である。戦争も外交の一環であるとするクラウゼウィッツの戦争論を常識とすれば、軍事力は外交、特に独裁国家との外交、のために必須である。
 
従って、憲法9条第二項の廃止に反対する与党の一部と野党の連中が、拉致被害者救出を大問題のように言うのは、論理的におかしい。彼らには、米国戦略国際問題研究所のエドワード・ルトワックが書いた「戦争にチャンスを与えよ」(文春新書)を読んでもらいたいと思う。

 

補足:この文章は前投稿の補足を独立させたものです。
 
追補(4月23日午前):
1.上記議論についていけない人がいる可能性もあり、追補を書く。国際関係について一点だけ丁寧に書いておくべきだったことがある。それは現在の国際環境は、法と正義の支配する社会を形成していないという点である。国際法や国際司法裁判所などは、国内の法や裁判所に似ているが、超国家的な権力がないので形だけの制度である。つまり、国際環境は突き詰めれば、野生の世界である。
 
2.(蛇足)日本国はボスである米国の作る群れの端に居るに過ぎない。現在、適当に境界らしきものを認識して、幾つかの群れが棲み分けているが、いつ何時群れ同士の争いに発展しないとも限らない。もっとも、現在の群れのボスらも、争いは好まない。しかし、群れを乗っ取る力をつけた若いサルが現れれば、その危険性が増す。