山口県周防大島町で8月12から、藤本理稀(よしき)ちゃん(山口県防府市当時2歳の誕生日前)3昼夜行方不明になったケース、何か変である。15日朝に1人のボランティアに無事発見されたのだが、発見前日の14日までの3日間、山口県警と地元消防は延べ約380人で捜索にあたったが、発見に至らなかった。
 
14日は、集落の周囲のすべての山を捜索範囲に加え、数十人ずつの捜索班に山を割り振った。発見現場の一帯も捜したが、手がかりは得られなかったという。https://www.asahi.com/articles/ASL8J5T78L8JTIPE020.html
 
しかし、ボランティアの人が20分ほどの捜索で、自宅からわずか560m離れたところで見つけられた。そのような離れ業は何故可能なのか?述べ380人の捜索隊員はよほど愚かな者たちの集まりだったのか?その裏には、何か別の事情がありそうである。
 
何かがあると疑問に思った人は多い一方、それを報じたlivedoorニュースは、情報提供者の都合により削除されている。(http://news.livedoor.com/article/detail/15203601/)その都合とは何なのか?一旦疑問に思うと、不思議なことが山程みつかる。(補足1)
 
行方不明になった翌日にインタビューに応じた祖父の笑顔を交えた応答も変だ(https://koku-byakunews.com/archives/20092)し、父親が全く姿を出さないのも変だ。ボランティアの方が、発見した子供を警察に渡さず、自分で親に届けると言い張るのも変だ。ボランティアの神様と呼ばれているというが、警察など正規の方が出てきたときには、正規ラインに仕事を渡すのがボランティアの基本だろう。
 
自分の功績に拘るのかと思えば、子供の親から「風呂くらいどうぞ」というもてなしも断る姿勢も示している。この顛末を見ているのは日本人だけではないだろう。このまま曖昧なままにして、一件落着にするのは、日本らしいと言えばそうだが、外国人の目にはお笑いだろう。
 
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祖父は、「兄と2歳直前の理稀君を連れて400m離れた海に出かけたが、理稀君がぐずったので、1人で返した。自宅の方に折れずに真っ直ぐに行ったが、海に来る予定の母親に発見されるだろうと、そのまま二人で海に向かった」という。
 
しかし2歳になる直前のこどもを、しかも間違った道に入ってしまっているのに、そのまま放置する祖父。もうひとりの大きい方の孫の二人は海に向かったのである。そんなこと考えられるのか?しかも、繰り返しになるが、一晩経って心配な筈の祖父が笑顔を交えて語るのも変だ。
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私は、何か仕組まれていると思う。何のためかわからないが、日本社会の反応を観るためなのか、日本社会の捜索能力を観るためなのか? そこまで考えてしまうのである。
ここからは、公安の出番だろう。何もかも曖昧にして終わる国であれば、将来は危うい。

補足:
1)この件の特徴として、新聞報道などやブログ・サイトなどでの議論が、削除されていることである。上記livedoor newsの引用記事の他にも、https://mainichi.jp/articles/20180813/k00/00e/040/189000cでの引用記事も削除されている。不思議である。
1)前回までの総括:
前回までの2回のブログ記事で、民主国家などの個人が自立した社会では、各個人が公的善悪を共有しながら独自の私的善悪を持つべきだというモデルを提出した。公的な善とは、社会を健全に維持するために、個人やその集団が自己の負担を乗り越え、取るべき行動等である。(補足1)公的(社会的)善悪は、その社会の歴史や文化に依存し、文化の一部である。
 
私的な善悪とは、各個人に固有の善悪とその基準であり、個人の思想、信条、経歴、嗜好などに依存する。個人は、私的な善などの自分の思想信条などを、公的空間で主張する自由が存在する。そのような公的空間での情報交換(補足2)により、文化の一部である公的善悪が制御変更される。
 
前回の記事で、公的空間と連結して存在する窪みのような私的空間を考えた。個人が社会的に生きる空間である。私的空間の内側に、ホモ・サピエンス(動物としてのヒト)である自分が存在する。私的空間と公的空間のチャンネル(ボトルネックのような部分)の広さは、文化や言語環境などに依存するのだが、日本人の場合は狭い。「沈黙は金、能弁は銀」の民族だからである。“沈黙は金”は日本人の甘えの文化の一端を示す。
 
更に、社会全体に広がった公的空間が存在しない地域では、見知らぬ第三者は社会的対応をしてもらえない可能性が高いことを、中国における自殺見物や韓国におけるナッツリターン事件を例に説明した。そして、公的空間を持たない地域の政治体制に、他国(米国など)が武力を用いて介入し、民主主義という政治制度を導入しその後放置すれば、最終的には内乱となることを、リビアのカダフィ暗殺とその後の内乱を例に説明した。
 
公的空間を持たない国などでは、近代社会において必須と考えられる、公正、真実、法治原則などが疎かにされる。そこでは、人間が生きるための命綱は大家族などの人的ネットワークとなる。国家のレベルでみれば、その地域は無数の部族や大家族などに分断されたミニ社会の集合となる。そこでは、中世的帝国や社会主義政治のような、支配と被支配の政治体制のみが馴染むと思う。
 
一方、住民を構成する人々が互いに見知らぬ間柄であっても、パブリックな空間(つまり公空間)を持つ民主社会なら、上記生活上の諸条件が保証され、普通の生活が可能となる。尚、韓国の民主制も戦前戦後、外国から移入されたものである。(補足3)
 
2)一神教の国の公的空間について:
一神教の国では、人格神を崇拝する宗教が中心に存在する。それは、聖典に示された法が、“公的空間の意識”の代わりをする。見ず知らずの人間の間にも、神の示す公正、真実、法治が基本的に尊重されるだろう。つまり、公的および私的善悪が聖典から移入され、民主的社会の初期建設がなされる。しかし、民主政治と一神教は本質的に両立しない。
 
一神教の国々で、民主的公的空間の代わりをするのは、宗教的空間である。しかし、この場合根本的な問題が存在する。それは、「善悪は聖典に書かれており普遍的である」ということである。世界が如何に変化しても、聖典は変化しない。そして、公的な善悪基準は2000年たっても殆ど変わらない。変わるのは私的善悪のみである。特に厳格な一神教では、善悪に公的も私的もない。その結果、人々はやがて、聖典の善悪と私的感覚に基づく善悪(私的善悪)や外部世界の善悪(国際社会の善悪)との衝突の中で苦悩する。それが、現在のイスラム圏の難しい政治状況と関係している。
 
例えば、一時エジプトを支配したイスラム同胞団のムルガーン・サーリムというジハード主義者が、テレビに出演して、「ピラミッドとスフィンクスを始めあらゆる偶像を破壊しなければならない」と語った。しかし、イスラムの法学者たちは、イスラム法典に依拠する限りイスラム過激派をイスラム教の信者と認めざるを得ないのである。(飯山陽著、「イスラム教の論理」 新潮新書20182月)(補足4)
 
文明国の現代人は、世界の国際的連携の中でしか生きられない。そんな中で、我々が、スフィンクスやピラミッド、更には、東大寺の大仏や金剛力士像までも破壊しなければならないという人たちと共に生きることは、奴隷として以外は不可能だろう。
 
その結果、それらの国々でも宗教から一定の距離をとる政治支配層を産み出し、その政治環境で矛盾を棚上げしている。キリスト教圏では、宗教そのものの変質や無効化が知識層を中心に進んでいるのではないだろうか。その結果、現在の欧米ではアンチクリストなる本などでも、許容されている。つまり、本を読む知的階層までは、宗教に対する姿勢は多様化している。そして、その証拠だが、現在のキリスト教圏やイスラム教圏のほとんどの国は、聖典の法から人定法を定めている。(飯山陽、「イスラム教」の論理、p26)http://blog.livedoor.jp/dokomademoislam/archives/49255343.html
 
3)欧米等外国では、聖典に書かれた理想論的善悪は、頭の中に知識としてのみ存在する。個人はその建前を言葉の上で記憶し、時々必要に応じて用いるだけであり、心はそれらに縛られてはいないだろう。勿論、非常に熱心な宗教家がいれば、その方は聖書の善悪をそのまま私的善悪としてコピーしている可能性はある。何れにしても、個人を動かすのは本音であり、建前は経済的或いは社会的な利益不利益を通してのみ、個人に影響を及ぼすのだろう。それが西欧のリアリズムの本質ではないだろうか。
 
つまり、一神教の国々では、公的善悪が宗教的善悪から離れて、未だに人々の心に樹立されていないのではないのか。それが、自立した西欧の人々の真の姿であり、中国人の自立した姿と本質的な部分で似ているのである。本来公的善悪は人々の心の中にあるべきだが、それが不十分な欧米では、細かく法律で明確化することで問題発生を避けているのである。
 
人間が社会を作って生きるのなら、厳密な意味では個人は自立していない。その中で個人の尊厳を保って生きるには、社会の原則(善悪)と個人の原則(善悪)を合わせ持つことが必要である。日本人は、その社会性を私的空間と公的空間の両方を持つことで、実現している。欧米人では、それらに対応するのは私的空間と法的知識である。また、一部の公的善悪は、西欧人の中ではマナーとして存在するだろう。しかしマナーは着物であり、肌ではない。
 
日本は法を軽んじるところがあるが、それは公的善悪或いは公的道徳がしっかりと存在するからである。(補足5)それは、柔軟な社会であり、西欧から見てわかりにくい社会でもある。一方西欧社会で、法が細かく厳格に書かれているのは、公的善悪がしっかりと構築されていないからである。公的善悪が構築されていない国家は、問題解決を法と武力で行う。日本人はそれをしっかりと頭に入れておくべきだと思う。
 
(以上、社会学の素人ですが、思うところを書いてみました。批判等歓迎します。)
 
補足:
1)ここでは、形容詞としての「善」と、行為概念としての「善」と、それを人間の行動空間に展開した善的行為の集合も、全て「善」と表現する。
2)公的空間での情報交換とは、現代ではマスコミなどでの報道、国会などでの議論、街頭でのデモなどである。日本では、マスコミは偏向し、国会は田舎の世襲政治屋に占拠されている。それでも尚、街頭は静かである。街頭を静かにさせるには、大衆にパンとサーカスを与え、テレビで健康番組とクイズ番組を放送するのが良い。
3)現在の韓国の民主主義政治も、外国から移入されたものである。日本帝国の支配下では、内地在留の朝鮮人には選挙権が与えられ、朝鮮人衆議院議員も誕生している。他に貴族院議員も数名誕生している。敗戦の時白紙となったが、朝鮮地域の選挙区設定が予定されていた。その後、韓国には米国による李承晩政権が作られた。
4)例えば、日本のキリスト教の信者を名乗る人に、奈良の大仏など破壊すべきではないのか?と問えば、その通りだという人は少ないだろう。それは単に、現在のキリスト教が堕落しているからである。キリスト教もイスラム教も、神は同じヤーヴェ神であり、モーセの十戒の最初の二つの戒めには、ヤーヴェ神を唯一の神とすることと、そのために偶像崇拝を禁止することが書かれている。
5)交通ルールに対する姿勢を例に説明すると、日本は円滑で安全な交通を重視するが、それを達成すべく作られた交通規則を適当に無視する人は多い。数年前、古屋国家公安委員長が、「安全な道路での制限速度20km/h超過を取り締まるのは疑問だ」と発言して問題となった。日本では法の目的を意識し、公的善悪の中に織り込んで運転している。法の中の数値は、単なる目安に過ぎないのである。
1)善とは、生きる空間を共有する個人が、その共有する空間を良い状態に維持するためにとる行動と、その為の自己のエネルギーや財の積極的な負担を、形容し計測する概念である。(補足1)悪とは、自己の利益を優先して、共有する空間等の悪化を招くことに対する、善と対をなす概念である。 
 
同一の社会に生きる人間は、善と悪の体系(行動を分類した体系)を共有する。従って、善悪の体系は普遍的ではなく文化的である。人間が棲む社会が国境で分断されていれば、人間の行動に対する善悪判断もそこで分断される。 
 
前回の議論で、素人が大胆にも、善悪を公的と私的に分けることを提案した。ここで、公的善悪と言っても各個人が “おおやけの善悪”として意識するもので、支配者が公布した規則によるものではない。社会の多数の構成員が共通して合意する善悪と定義する。公的な善は、社会の安全と繁栄(つまり健全)を維持する責任を果たすために、個人又は個人の集団が取るべき行動を形容する。
 
私的善悪は、社会的存在としての個人に主眼点をおいて定義する各個人に固有の善悪である。ここで、公的空間と連結して存在する窪みのような私的空間を考え、その中で許容される個人の幸福や安寧を考える。私的空間でも、社会的存在としての自分を自覚する場合、社会に対する貢献は私的善の大きな比重を占める。(補足2)しかし、個人の生活や欲望充足との釣り合いがとれなければ、その特定の個人の行動として成立し得ない。
 
生物としての自己は、その私的空間の奥に存在すると考える。社会の中で社会に依存して生きる人間は、社会の安全と繁栄なくしては生きられない。従って、公的善悪は私的善悪とは共通する場合が多い。また、両者の共通する部分がほとんどなければ、社会を構成する個人が支配者と被支配者に分断される以外に、社会は安定的に存在し得ない。(補足3)
 
つまり、住民全てが社会の運営等に参加する社会においては、社会の安全と繁栄および個人の安心や幸福が同時に成立するためには、私的空間を公的空間と連結する形で持つことが必須だと思う。また、公的空間が存在しない場合も、支配と被支配の関係に個人が置かれていることになる。
 
2)隣の大国は、皇帝が支配する帝国から、孫文らによる民権主義の短い期間を経て、共産党党首による帝国類似の国家の時代が続いた。そこに棲む人たちの意識としては、おそらく家族、大家族、同志的知人の人的ネットワークが生きる空間だと感じていただろう。鄧小平時代から進んだ経済活動の自由化があっても、公空間を意識することはそれほど進まなかった筈である。
 
従って、公的善悪の意識は一部の知識人や上層階級を除けば、あまり存在しないと考える。人的ネットワークの空間を擬似的な公空間と把握するとしても、それには限界がある。それが、話をしたことのない人、見えない第三者に対する義務感が希薄な理由だと考える。そのことについては既に、「中国人群衆の自殺見物と「早く飛び降りろ」の合唱について」と題する記事で議論した。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43715804.html
 
その中国人の性質は、政治文化と政治体制が原因であって、中国人の本来の性質ではない。日本人も米国人も、同じ歴史の中に生きれば、同様の善悪基準を持つ筈である。
 
直ぐ隣の国でも同様であった。李氏朝鮮時代の厳しい身分制度は、社会を分断し、一般民が公空間を意識することは考えられない。国教であった儒教は、その身分制度を温存することにつながった。一時話題になった大韓航空のナッツ姫事件や、その妹の態度は、身分制度や儒教の悪影響の結果だろう。https://www.bbc.com/japanese/43748707つまり、公空間とそれによる全国民的な公的善悪など想定できる筈はない。
 
一方、日本では、儒教の影響は学問の領域に限られ、神道という自然崇拝が文化の中に定着していた。身分制度は人工的に持ち込まれたものの、心の中にまでは定着していなかったようである。それは、明治天皇の歌、「四方の海 皆同胞(はらから)と思う世に。。。」の“同胞(はらから)”という単語を見てもわかる。江戸時代の将軍綱吉の「生類哀れみの令」も、本来弱者保護のためにだされたものだったと再評価されている。明治以降、西欧の制度を取り入れて、身分制度を廃止できたのも、そのような背景があったからだろう。
 
つまり、日本の文化の下では、公空間を意識することが容易にできる筈である。それが日本が民主国家として一応成立する理由である。西欧諸国での公空間については、次の機会に考察する予定である。
 
補足:
1)スタンダールの本「de IAmour (恋愛論)」に以下のような文章があるそうです。I honor with the name of virtue the habit of acting in a way troublesome to oneself and useful to others. 自分にとって厄介で他人にとって役立つように振る舞う性癖を善(徳)という名で讃える。
2)善なる様々な行動も「善」一文字で書く。つまり、形容詞としての「善」と、行為概念としての「善」と、それを人間の行動空間に展開した善的行為の集合も、全て「善」一文字で表す。
3)この考え方が、独裁制で安定していたアラブに民主化を持ち込んだ際の結末を説明する。カダフィを排除暗殺すれば、リビアが内戦状態になることは、米国の戦略家にはわかって居た筈である。