昨日のブログに、安田純平氏の拉致被害について議論した。そこで、以下のように書いた。
 
退避勧告が出された地域に取材に入ったので、拉致被害にあったことの責任は自分にある。ただ、個人の自由として退避勧告が出た地域に取材に入る権利は存在する。その権利まで否定するニュアンス(補足1)で自己責任という言葉を使っているのなら、それは間違いである。
 
上記表現には多少誤解を招く部分があるので、もう少し書き足したい。一般論として、言うまでもなく、外国は日本の法令の適用外地域である。従って、外国に入国した後の旅行者の権利義務は、その国の法令によって決められる。
 
外国にいる日本国の外交官の仕事も、日本国民の生命保護などの為にするべきことが規定されているだろうが、保障までは不可能である。外国政府には、パスポートに書いてあるように、政府が設定した関門を、障害なく通過できるように配慮してもらうのが関の山である。つまり、外国での滞在は、最終的に自己責任でしなければならない。
 
今朝の読売系のテレビ放送「ウエイク」で橋本五郎解説員が、「日本政府はどの様な手段でも駆使して、邦人の保護をしなければならない」と言っていた。私は、この方は何もしらないか、大嘘付きだと思う。そんなに親切にはしてくれないのが普通である。(補足2)
 
更に、日本国内でも命の保障を含めて、基本的人権を享受する権利を示した条文は、日本国憲法第3章以外にはないと思う。(補足3)しかし、それは国家権力が、基本的人権の享受を妨げないという意味であって、一般国民の間のトラブルや天然災害を対象にしたものではない。(補足4)
 
国家は、発生した人権侵害の排除、捜査、侵害者の処罰はするだろうが、人権侵害を防止できなかったことの責任は取らないだろう。ある人に対する人権侵害を完全に予防するためには、その他の人間の自由を束縛することになるからである。
 
補足:
1)「人騒がせな」という非難や、「お騒がせして申し訳ありませんでした」という謝罪は、この自由と矛盾する。
2)私の経験(1987年)を書く。ソ連のノボシビルスクでの学会に参加するために、モスクワで迎えを待ったのだが、夜が近づいて来るのに迎えが来なくて困った時、大使館に連絡した。そのとき「あなたのパスポートは何色ですか?」と問われた。「赤色です」と答えたところ、「公用パスポートではないので、コチラとしては何ともできません」と撥ね付けられたことがあった。
3)憲法第11条:国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。憲法に記載がなくとも、自然権として基本的人権は当然存在すると考える場合も多い。
4)刑法第199条に「人を殺したるものは、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」とあるが、それは罪人を罰する法律であり、人の命の保障を示した法律ではない。更に、人を殺すことは悪であるという道徳を示したものでも、更に、人を殺してはならないという宗教的指示でもない。単に、裁判官に対する指示である。
カメラマンの安田純平さんが、シリアでイスラム過激派に拘束されてから3年以上経過し、今月になって解放され帰国した。安田氏は、政府から退避勧告が出されていた地域に、勧告を無視して取材に潜入し、過激派に拘束された。このことを根拠に、拉致被害は自己責任であるという説がネット上に多く出された。また、それに「反論する主張」も多く出されたようだ。それらが噛み合った議論になっていないようなので、ここで考える。(補足1)
 
1)退避勧告が出された地域に取材に入ったので、拉致被害にあったことの責任は自分にある。ただ、個人の自由として退避勧告が出た地域に取材に入る権利は存在する。その権利まで否定するニュアンスで自己責任という言葉を使っているのなら、それは間違いである。
 
先ず、”自己責任論”に反対する意見を少し拾ってみたい。テレビ朝日の玉川徹氏は、1024日の「羽島慎一モーニングショー」で、紛争地帯に飛び込むフリージャーナリストの役割の大きさを力説。安田さんを「英雄として迎えないでどうするんですか」と主張した。
 
更に、「そもそも、ジャーナリストは何のためにいるんだ。民主主義を守るためにいるんですよ」と力説した。また、「たとえて言えば、兵士は国を守るために命を懸けます。その兵士が外国で拘束され、捕虜になった場合、解放されて国に戻ってきた時は『英雄』として扱われますよね。同じことです」と主張する。
 
勇気ある行動でプロとしての仕事に従事したことは、賞賛に値するだろう。ただし、過激派に拉致されたことは失敗だったことも、明白な事実である。その失敗に、日本政府を自分の意思で巻き込んだとしたら、それは賞賛を大きく減少させるだろう。
 
このケースは、捕虜から解放された兵士のケースとは全くことなる。特に戦前の徴兵された兵士は、国家権力に従って、国家の為に命をかけて働かされたのである。今回のケースは国家のために働いたのではない。安田氏に敬意を示すとした場合、それは私的な取材活動において示した、プロ意識と勇気に対する敬意である。取材活動は社会の機能の一部を果たす重要な役割だが、そのような重要な役割は立派に働いている社会構成員の全てがそれぞれの分野で担っている。
 
「そもそも、ジャーナリストは民主主義を守るためにいるのだ」というのは、「ジャーナリストは」と助詞の「は」を用いる限り、思い上がった言葉である。上記のように、商社マンであれ、警察員であれ、医師であれ、会社の研究開発員であれ、学校の教師であれ、全ての職業人は、この国に異なった分野でこの国の繁栄と安全維持のために働いているのだ。(補足2)
 
2)更に、gooニュース7月122130配信の記事に、朝日新聞記者の石川智也氏の意見が掲載されている。その記事の中での石川氏の意見を下に再録する。
 
石川:アメリカやイギリスのジャーナリストに聞いても、安田さんのような行動を称賛する声はあっても、迷惑をかけたなんて声が大勢を占めることはないと言うんですよね。後藤健二さんがISに殺害された当時、アメリカのオバマ大統領(当時)は「勇敢に取材してシリアの人々の苦境を外の世界に伝えようとした」と声明で称えました。(補足3)
 
一方で、日本は自民党の副総裁が「どんな使命感があっても蛮勇だ」と言ったり、2004年にイラクで高遠菜穂子さんたち3人が拘束された際にも、現都知事が「危ないところにあえて行ったのは、自分自身の責任だ」と言っています。政治家がこういう言葉を流布させてメディアが乗ってしまい、拘束された本人ばかりか家族や関係者に批判が行くことは極めて日本的だなと思います。 https://news.goo.ne.jp/article/jwave/entertainment/jwave-165226.html
 
この意見も、事の経緯と分析を全くしないで、訳のわからない批判をしている。
 
オバマ大統領(当時)は、後藤健二氏の勇気ある取材活動を讃えたのは当たり前である。後藤健二氏の家族以外は、後藤氏の批判などしていない筈である。拉致されたのは明らかに後藤氏にとっては失敗であった。その失敗は自分の命を失うことに繋がったが、誰にも負担をかけていない。自己責任で紛争地に取材に出かけたのは、勇気ある行動である。それを賞賛するのは、当たり前である。(補足4)
 
3)ジャーナリズムは近代国家において第四の権力と言われる報道の一角を担う重要な仕事である。取材活動はその中のデータ収集という基本的で重要な役割である。ただ、上述のように、社会の機能を分担する重要な役割は、立派に働いている社会構成員の全てが担っている。そしてそれらは、民間ベースで行われることであり、公的活動ではない。その意味では、安田氏らの取材活動は、他国の領海近くに遠洋漁業で出かけた漁船員と似ている。その国に領海侵犯で拿捕されたとしても、法に定められた手続きにより召喚を求めるだけであり、政府に取り返す責任はない。
 
繰り返すが、退避勧告を無視して私的判断で潜入した以上、政府に身辺警備をする責任はない。また、誘拐されたとしても政府には最終的に救出する責任はない。その政府の本来の活動範囲で、救出が可能となった時のみ救出されるのである。この点は、北朝鮮に拉致された人たちとは根本的に違う。北朝鮮による日本国内での拉致被害は、日本政府の責任である。北朝鮮を非難するが、日本政府を批判する声がほとんどないのは不思議である。
 
過激派に殺された湯川遥菜氏と後藤健二氏は、自己責任でジャーナリストとしての仕事に身を捧げた。それは賞賛されることはあっても非難することなど論外である。同じように安田氏の取材行為も賞賛されるべきである。ただし、それは自己責任の下で行われた行為であるとした場合である。
 
初めから、避難勧告地域にその勧告を無視して出かけ、拘束されたのは自己責任の範囲である。そして、政府が法に定められた範囲の行政および外交活動として、自国民である被拘束者を救うべく行動することも、また当然である。
 
今回のケースは、数億円の身代金がカタールから出されたと一部で報道された。国際政治に利用された可能性があると、AERAdotの記事は書いている。
 
もしそうなら、そして、そのカタールの行為により、日本政府の外交まで今後歪められるとしたら、安田氏の件が政治に与えた影響はかなり大きい。そのように安田氏が自己の判断で誘導したのなら、非難されても当然である。(補足5)ただし、日本政府が民意に迎合すべく、多額の税金を使って安田氏の救済に動いたとしたら、それで非難されるべきなのは、日本政府である。
(一部言語修正あり。26日午前6時30分) 
 
補足:
1)後藤健二氏がイスラム国に拘束された事件、安倍総理は後藤氏に渡航中止を3回求めていたことを明かしたという。それにも関わらず、世耕官房副長官は「我々は自己責任論には立たない」と言ったと、以下のサイトに「自己責任の罠」という表題で紹介されている。私にはこの世耕氏の言葉の意味が理解できない。単に二世議員の政治屋的発言だろう。この件は深い意味があれば後で、議論の対象にしたい。https://www.excite.co.jp/News/society_g/20150205/Litera_843.html
 
2)ジャーナリズムも社会の中に存在する多くの私的活動の一つである。特別に扱うべきだとする理由はない。「ジャーナリストは民主主義を守るためにいる」という、思い上がった態度は批判されるべきである。 それは、「目や耳が、情報を集めるから人を守るのだと言って、腎臓や肝臓をバカにする」ようなものだ。
 
3)自己責任で、社会を支える重要な仕事に果敢に向かった点は、高く評価されるべきである。しかし、拉致されあとの解放が、国際政治や国内政治に影響をかなり与えたとすれば、その部分はプロとして失敗だったと思う。その政治への影響が、良い方向に働く可能性もあるが、それはこの場合問題ではない。
 
4)政府が退避勧告を出したとしても、自己責任でそこに出向く自由がある。それを批判するとしたら、個人主義という西欧の法体系で作られている日本の制度を知らないことになる。
 
5)安田氏が助命嘆願を政府に自己判断で求めたとすれば、それは自己責任の原則を破ったことになる。その部分は、非難させても仕方がないだろう。
 1)善玉と悪玉の戦いと善玉の勝利という結末を演じるのが、大衆ドラマのパターンである。人気を得るにはハッピーエンドでなければならないのは、人は本来怠け者の保守主義者であり、将来の困難や近くの醜悪から目を背けたいからである。
 
この種のドラマにおける善玉と悪玉は、対立しているように見えるが、実は裏で結ばれている。同様に、現実の世界の善玉と悪玉も裏で結ばれた一つの勢力と考えた方が良い場合が多い。善玉と悪玉を演じる人たちの顔は、同種の顔で造った全く異なる表情のように見える。ドラマが現実なのかドラマの舞台裏が現実なのか、自分は何をこのドラマから得ようとしているのか、良く考えるべきである。
 
1956年、日本政府は「もはや戦後ではない」というセリフを言い訳に用いて、戦後から脱却出来ない或いは脱却しない道を選択した。(補足1)戦前と同じ薩長土肥の勢力が戦後も日本を支配することになったため、彼ら為政者に(傲慢により)国を滅ぼした戦前を忘れてしまいたいという欲求があったからである。
 
そのセリフが、経済企画庁が出した経済白書に書き込まれた1956年、「太陽の季節」が芥川賞を受賞し、“太陽族”が海辺を闊歩した。その小説は読んでいないが、似たような慾望全開&無責任映画の「太陽がいっぱい」は、DVDで見た。何れも、歴史も倫理も深く考えない方が、個人にとっては幸せだという無責任な姿勢を描いている、下らないドラマなのだろう。(補足2)
 
2)人間の歴史が書ければ、数十万年という長い物語になるだろう。個人はその中の短い一瞬と言っても良い期間を生きるだけである。深層の事実など見ない方が、幸せだという人生の真理を唄ったのが、1976年に発表された井上陽水の「夢の中へ」だろう。人生の目的とか、真理の探求とか、そんな難しい解けない問題を考えるより、短い時間を楽しく過ごす方が良いではないかと誘う。退廃的な人生謳歌の歌のように感じるが、作者独特の皮肉なのかもしれない。よく出来た歌だと感じるのは、真実を見る作詞者の姿を、黒子のように感じるからである。
 
真理を知る苦労して、”悪”を見出したとしても、今度はそれと戦わなくてはならない。それを倒したとしても、真理を知る姿勢を保てば、新たな悪を見出すことになるだろう。そもそも、善と悪に分類して何になるのか?それは単に、戦いの相手を見つけるためではないのか。自分は戦わないと決めた時、善も悪も消滅するのではないのか、その道が短い人生と限りある能力の人間にとって幸せなのではないのか。
 
この真理という概念、善悪という概念を、仏教なども利用して巧みに否定するのが、日本の伝統であった。真実も現実も所詮夢の中の話である。その日本の文化とその歴史を、陽水は知っているのだろう。
 
○露と落ち露と消えにし我が身かな なにわのことも夢のまた夢 (豊臣秀吉の辞世の句)
○世の中は 夢かうつつか うつつとも夢とも知らず ありてなければ(古今和歌集に詠み人知らず)
 
“悪”が、運悪く(多分何かの間違いで)自分を突然襲うことになったとしても、死の必然を考えれば、隕石の直撃を受けて死ぬのとどこが違うのか。運命として諦めるしかないのだろう。キョロキョロと落ち着きなく周りを見渡すのは、視力自慢になっても、幸せとは言えないだろう。何もかも受け入れる生き方の方が、人生の総決算をすれば、大きいプラスを産むのかもしれない。

 

そのような考え方の伝統が、日本には広く深く存在する。日本政治が西欧化できない理由だろう。
 
3)近代社会は、西欧型社会である。その中に流れる思想は、キリスト教的世界観だろう。そこでは、「色即是空」や「夢のまた夢」的な考え方を受け入れる余地は全くない。従って、日本がこの西欧型世界に順応するには、それらを古典の古い本棚にしまい込まなければならない。
 
つまり、生の本質は戦いであり、戦いに勝利するには、善と悪の峻別が必須である。夢うつつの状態の人は、戦争は絶対悪だというだろう。非武装中立という夢は、確かに心地よい。西欧的視点からは訳の分からないこの後者の勢力が、この国の70%を占める。明治時代、英国からの貸衣装で演じた西欧風日本だったが、失敗した結果の”先祖帰り”だろう。
 
西欧的考え方を少し学べば、現在の我々の生は、祖先の戦争での勝利の結果として存在することが理解できる筈である。現在の国家も、そのようにして生き残ってきたのである。その歴史を学ぶ責任をこの社会で生きる権利を主張する者全てが持つべきだが、その責任感はほとんど無いのが現状だろう。
 
ただ、善玉と悪玉を取り違えることが往々にしてあり、その取り違えは仕組まれたものである場合も存在する。その場合、善悪の峻別と戦いの計画は、専門的知識を得た者に任せるしか無い。専門的知識に恵まれなかったグループは滅びることになるだろう。専門的知識のある者をどのようにして選任するのか、それが大きな問題である。
 
2週間ほど前になるが、TBS ニュースの報道によると:初入閣した柴山昌彦文部科学大臣は就任会見で、戦前の教育で使われた教育勅語について、「アレンジした形で、今の道徳などに使える分野があり、普遍性を持っている部分がある」などと述べた。
 
これは安倍総理が、森友問題などでも分かるように、民族主義的主張をもっていることを表面的に捉えた上での、政治屋的発言だろう。これはまた、野党が批判する口実をワザと与えて、戦後続けてきたパターンで政権構造を維持するためだろう。国民を馬鹿にしているのである。
 
19世紀末に、長州の下級侍たちが京都の下級貴族と結託して孝明天皇を暗殺し、倒幕後に政権を得たのだが、その勢力が未だに政権を握っているのが日本の現実である。国際的には現時点では安倍総理以外は考えられない昨今だが、その根本構造を破壊しない限り、この国は催眠術にかけられたまま夢から冷めないだろう。(補足3)
 
先程述べたように、善悪を自民党と野党で分業して演じる安物ドラマが、戦後の日本の姿であった。明治維新と言われる革命は、英国の指導によるものだろうが、戦後の政治は米国の指示によるものである。そのような外国勢力の下で働くのが得意なのが、自民党の怪しげな人たちだろう。
 
「明治維新という過ち」など、昨今上記のようなモデルを指示する本が多くなった。今のままでは、国民全てがその説を自分の説にするのは遠くないだろう。教育勅語をモディファイして、それを教育に使うのも良いと言うたぐいの発言は、明治以来の勢力の靴を舐める仕草だろう。節操も何もない人物のものである。
 
補足:
 
1)戦後の政治体制から全く脱却していないにも関わらず、また、豊かになった経済の実相から一切目を背け、「もはや戦後ではない」とは良く言えたものだ。無知だったと言えば、言い逃れである。無知を装うことほど罪深いことがないのは、犯罪も同様である。
 
2)「太陽がいっぱい」のラストシーンは印象的である。アラン・ドロン演じる主人公の描くシナリオと、彼の属する現実の進行が、分岐して行く様子、そして浮遊した主人公が現実に落下する瞬間直前で映画は終わる。
 
3)この文章は安倍総理を批判したものではない。安倍総理と曽祖父の岸信介元総理は評価すべき点が多いと思う。ここでいう克服すべき(排除すべき)根本的構造とは、与野党が対立しているように見せて、同じ政治屋の仲間で政治劇を演じているだけの政治である。