1)以下のyoutube にある動画が面白い。末松という立憲民主党衆議院議員が国会で質問に立ち、河野太郎外務大臣が答弁している。https://www.youtube.com/watch?v=eg1IsfFjVT0 

末松議員の質問は、3日に発表された河野外相の談話に関するものだろう。それは、トランプ米政権の新たな核戦略指針「核体制の見直し(NPR)」に関し、「わが国を含む同盟国に対する拡大抑止へのコミットメントを明確にした。高く評価する」という談話(意見表明)である。

産経新聞によると、河野外相は「北朝鮮の核・ミサイル開発の進展で安全保障環境が急速に悪化している」と指摘。米国と危機意識を共有するとした上で「日米同盟の抑止力を強化していく」と表明したようだ。

末松議員は、「河野太郎さんは、2,3年前に世界から核廃絶する道を開くべく日本政府も努力しなければならないと(理想論を)話していた筈だが、その話は何処へ行ったのだ」という意味の質問を必死にやっているのである。そこで以下のコメントを投稿した。
 
末松さんは格闘しています。目標は核廃絶信仰へ河野太郎を勧誘すること。しかし、河野さんは当然現実問題を喋っている。宗教への勧誘は、教会の前でやることなのだが、場所を間違えている。戦場の指揮官に向かって、神の愛を説いているのだ。誰か、漫画に描けば面白い。
 
2)この動画は、政治家河野太郎の姿勢が明確に示されている点、そして、立憲民主党などの野党議員の国会活動の本質が見える点で、興味深い。河野さんは、現実と理想を上手に使い分けている。


本音と建前の使い分けは、民主主義世界の政治家教育では、初等中等教育の必須科目だろう。素人である大衆の前では建前を語り、玄人である筈の政治家の中では現実を語るのが、これまでの政治家の姿勢だったからである。


しかし、ネット社会になり、この政治家の姿勢維持が難しくなったと、昨年なくなった米国のブレジンスキーが白状している。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43792629.html
 
ブログの記事を読んでもらえば分かる通り、最初の発言でブレジンスキーは、ユダヤ社会がマイノリティーの権利拡大という「建前」で、「現実」の米国政治の支配権を獲得したことについて言及し、更に2番目の発言(100万人云々の話)で、その建前が通用しなくなりつつあることへの懸念を表明した。

そこでは、知りすぎた素人は殺した方が楽だと発言してしまった。(補足1)それは、玄人はだしの素人が現れたからである。現在、知識を持った素人とズブの素人的な職業政治家が、共存する時代となった。

そして、理想論ばかりで現実論など頭の端にもないのが立憲民主党の議員たちであることをリトマス試験紙的に示したのが、この動画での末松議員の質問である。(時々同僚から起こる拍手が、リトマス試験紙が有効であることを示している。)


日本の国会の正常化には、国民一人ひとりがユダヤ人のように原点から物事を考える習慣を身に着け、この手の理想論しか頭にない政党や議員を出来るだけ国会から排除することが必要だろう。


補足:


1)ただこのケースでは、年を取ることが、秀才ブレジンスキーからも本音と建前の使い分け能力を奪ってしまうことを証明したのか、それとも、年を取れば、話し相手すら間違えてしまうことを証明したのか、更には、玄人だけの秘密の会議を盗み聞きして、誰かがネットに流したのかわからない。

この発言は、「知りすぎた素人100万人を説得するよりも、殺したほうがよほど簡単だ」である。https://www.youtube.com/watch?v=Gc9rsvBIh9Uにあったのだが、今は削除されている。グーグルで「ブレジンスキー、100万人」で検索すれば、それに言及したサイトが出てくるが、そこで引用された動画は全て削除されているようだ。これも恐ろしい現実を示している。
1)安倍政権は、外国人労働者の受入枠拡大のための法令を、準備しているようだ。単純労働者を大量に入れることになるかもしれないのに、殆ど国民的議論のないままにそれを推し進めようとしている。在留資格として、専門性の高い職種のほか、特定活動従事という訳のわからない資格を設けて、要するに単純労働の長期在留者を作ろうとしている。それが一つの移民制度でなくて何なのか。(補足1)
 
日本の政府は、差し当たり労働者が必要だからという理由だけで外国人を受け入れるべく、なるべく有権者の反発を招かない文言で法令をつくるつもりだろう。しかし、それが将来的に移民に変身する可能性があるのなら、最初から移民制度として考えるべきである。https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181109-00184845-diamond-bus_all&p=1
 
現状で移民を受け入れれば、日本社会は諸外国以上に不安定になるだろう。日本が、個人主義文化の国でないからである。会社の採用のあり方や就労形態を見ても、諸外国とは全く異なる。会社への就職は、主従の関係樹立であり、労働力を売り買いする契約ではない。そこに単純労働の外国人を実習生や短期雇用の労働者の形で入れれば、大きな不満を生じることになるだろう。その不満を持った多数の外国人が発生すれば、将来国際問題の火種になる可能性すら存在する。
 
70年以上も前の徴用工問題で、日韓の間に修復不可能な亀裂が生じようとしていることを、どう考えているのか?
 
一定数以下の少数の外国人なら、ローカルな努力が社会全体の問題になる前に、不満を吸収できるかもしれない。しかし、多数の外国人在留者が一定の社会的勢力にまで成長すると、現在の日本文化と致命的に衝突し、社会全体が不安定となるだろう。その事態になれば、治安の悪化や様々な社会的コストの増加で、日本の政治経済は破壊される可能性すらあると思う。
 
世界の中の日本を考える際、日本独特の文化をそのままにして、国際化社会に生きることは出来ないだろう。その議論を先ずしてから、外国人労働者の受け入れを考えるべきだと思う。
 
2)労働力の不足の問題も、総合的視点にたって問題点を整理しなければ、真に国家の利益となる様な解決法は見つからないだろう。経済界の一部から強力な圧力が政権側にあったのだろうが、その企業のエゴイズムに屈する形での法令改正は、国民への背信行為である。
 
先ず、労働力は何故不足しているのか?という問題を考えるべきである。GDPはこの20年間ほとんど増加していないのに、何故労働力が不足するのか。GDPが一定であり、労働生産性が減少した訳でもないのなら、通常労働力不足は考えられない。(補足2)
 
突然経済成長が始まった訳ではないのだから、老齢人口の増加と若年労働力の不足が原因だろう。しかし、それは本質的な労働力不足ではない。労働力があるにも関わらず、それを有効利用していないだけである。
 
もしそうなら、日本独特の中世的な労働文化を廃止して、西欧と同じ様にすれば問題は解決する。それは、会社と従業員の関係を、労働力の需要側と供給側という普通の関係にするだけである。そうすれば、定年制廃止がただちに可能であり、大量の「労働市場に提供される労働力」が発生する。(補足3)
 
また、その労働文化の改革により、若年労働力の不足も解決する可能性がある。何故なら、高校や大学の卒業生にとって、就職の意味が大きく変化することになるからである。大手企業と封建的な関係を結ぶわけでないのなら、一流大学に入学していなくても、自分の技量と能力を示せば、就職出来るはずである。就職という点だけなら、90%の仕事において大学教育など不要だろう。相応の中等教育と社内研修で済むだろう。(補足4)
 
大学進学率が日本や韓国で非常に高く、社会が学歴に異様に拘るのは、223歳のときの一流企業への就職が人生を決めるからである。人生は80年と長いのに、何故その大学に入る前の5年間ほどの努力、つまり体力と執着力、で全てが決まるのか?
 
米国では、仕事にアプライする際、履歴書に年齢は書かない。そして、年齢差別は強く禁止されている。雇用関係を、純粋に労働の需要側と供給側の関係と捉えることで、労働力の再配分の能率を上げているのである。まさに、適材適所がネチネチした人間関係に邪魔されることなく達成される社会なのである。
 
そのような労働文化であれば、パワハラなど生じる素地はなくなるだろう。そのような上司の下には優秀な労働力は自然と来なくなるからである。無駄な高等教育もなくなり、大学に就業している教員や事務員が多数、企業に流れることになるだろう。
 
老齢の者も、そのような社会になれば、自分の能力を客観的に把握できるようになり、相応の社会貢献も可能になるだろう。定年後の優れた能力をボランティアとしてのみ用いるのは、もったいないと言える。
 
そのように考えれば、外国人労働力など、経済成長しない現状では日本に不要だろう。そして、経済成長は労働生産性の向上によりなされるべきである。その正常な経済成長なら、尚更外国人労働者は高度な人材に限る事が可能となる。
 
補足:
1)この法案を読んだことがなく、報道された記事の概要だけで議論しています。間違い等の指摘があればお願いします。
2)給与は労働生産性と比例関係にある。給与が殆ど一定であるから、労働生産性が減少したわけではない。
3)前日まで年俸1000万円の労働力が、突然ゼロ近辺まで落ちるのが定年制である。それは、労働力の対価として給与があるのではなく、椅子に給与が張り付いていることを示している。日本では、この種の多数の椅子が社会を硬直化させている。それに気づくべきだ。
4)前の記事でも書いたが、佐藤優氏が日本は学歴社会ではなく、入学歴社会だと言っていた。つまり、一流と言われる大学を卒業して一流の学力をつけることが社会で成功する鍵ではなく、一流と言われる大学に入学することが成功の鍵だとうのである。華々しい人生は、一流の高等教育ではなく、私立中高一貫教育を受けた中等教育によりもたらされるのである。
人は言葉を話し、人の言葉を信じる動物である。どのようにして人は言葉を話すことになったのか?人は何故、他人の言葉を信じることができるのだろうか。以下、断定的に「である」で終わる言葉は、学説を確認したという訳ではなく、単に自分の考えを述べたにすぎないことをお断りしておく。(補足1)
 
人は長じて嘘をつくようになる。嘘が社会生活の上で一定の効果を持つのは、その嘘の言葉を人は信じるからである。人は、全く前提を置かずに言葉を聞き、その後言葉の意味と信ぴょう性を判断するのではなく、信じることを前提としてその言葉を聞くのである。人が「止まれ」と言えば、それを聞いた人は先ず止まるだろう。そのことからも、上記命題は明らかである。
 
言葉は幼児期に人の頭に埋め込まれるのだろう。その段階では、まわりの人は皆その幼児の味方である。従って、自分が聞いた言葉と自分の体験が常に一致する。その一致により、幼児は言葉を学習すると同時に“言葉を信じる性質”を獲得するのである。人の乳幼児の期間が長いのは、道具としての言葉の学習と、それを用いた人との情報交換の方法を学習するためだろう。
 
人が草食動物のように、早期に自分の足で歩いたり走ったりできれば、生存に有利だと思うだろうが、人間としてはそうではない。


生まれてすぐに歩き出せば、言葉の習得前に、幼児は自分の味方以外の人物と出会うことになる。その結果、幼児は言葉が信じられないことを学ぶと言うより、言葉そのものの学習が出来ないことになる。言葉を学ぶには、頭脳が完成したとしても少なくとも2年程かかるだろう。従って3-4歳までは、完全に信頼できる母親とその家庭の下で育たなければ、言葉の習得と言語文化の基本がまともに習得出来ないことになるだろう。
 
「駄々をこねる」のも、言葉を学ぶ一環である。それに対する、親の反応を見ることで、幼児は言葉が人に何かを要求する時の道具となることや、その際の限度などを学ぶだろう。道徳とは、個人が要求できる範囲の自覚であると考えると、言葉と道徳は一体として幼児期に習得されることも理解できるだろう。
 
以上の説明で、幼児教育の大切さ、特に、母親と家庭が言葉と道徳の学習に如何に大事かが理解できるだろう。現在、男女平等や女性の自立が議論されている。また、それを助ける保育施設の拡充が課題だと考えられている。心配なのは、その様な議論をする人たちは、人の言語習得や道徳学習などにとって非常に大事な幼児期を対象にしていることを、十分考えているのではないことである。

何故なら、人類は未だ自分自身を理解していないからである。

補足:
1)ネット検索をしても、人の幼児期が長い理由についての議論が見当たらない。多分定説はないのだろう。

追補:今回の議論の基礎は、ダーウィンの進化論である。つまり、言葉でのコミュニケーション能力のある人が、肉体的に丈夫な人よりも人間社会に適応できること、それに適者生存の原理を仮定している。やや禁句に近いことを言うと、豊かさと平等は、人の平均としての社会的能力を低下させる。また、男女が分業的に生きてきた過去の歴史を否定し、同じことを権利として主張することも同様である。
(補足と追補は、11月5日早朝追加)