1)「身の程を知る」ことは、日本人社会では常識だと思う。しかし、それは良い面と良くない面の両方を持つ。善良なる社会人を産む背景としては、理想的かもしれないが、その一方で国のリーダーや大企業の創業者などを産む背景と考えた場合、貧しい結果しか得られないということである。
 
日本の中で、“身の程を知らない人”を初めて観たと記憶するのは、テレビの画面で「金儲けは悪いことですか?」と言い放った村上世彰氏や、村上氏にインサイダー情報を与えたと言われた堀江貴文氏の事件である。勿論、一般に金儲けは悪いことではないが、決算書虚偽記載やインサイダー取引は悪いことである。更に、社会や法の弱点を突いての金儲けは、犯罪としては成立しないが、強欲的として批判されるだろう。
 
その真相はわからないものの、有罪とされ多額の追徴金を支払わされたことは事実である。昨日のTV番組「そこまで言って委員会」でも、この事件は話題になっていたが、真相は闇の中にあるという印象だった。その村上氏は、現在も日本での金融取引等で儲け、シンガポールに住み節税しているらしい。やはり、この人は“身の程を知らぬ強欲人間”(補足1)であることは事実だろう。
 
この事件、厳密な意味での法治国家であれば、有罪になっていたかどうか疑わしいのかもしれない。過去の刑事事件の顛末を見ると、そう考えてしまう。つまり、日本では検察や司法が時代劇の水戸黄門的裁きをしている可能性が高い。この件は別途議論する予定である。(補足2)
 
今回のカルロス・ゴーン氏の逮捕劇も、上記事件やライブドア事件の時と同様の感覚で観た。ただし、ゴーン氏は外国人であり、この国の文化の中で育った訳ではない。国際的な意味で、優秀な経営者に過ぎないのだろう。あの時と同様の感覚で逮捕が為されたのなら、検察は負ける可能性があると思う。(補足3)現在の犯罪捜査と裁判のあり方は、「身の程を知る日本文化」に頼った人治国家のものであると思う。
 
2)日本人以外の大陸系の多くの人たちには、「身の程を知る」という考えなどあまり無いようだ。その差は、生存に要求される視野の広さと時間スケールにおいて、大陸と日本では全く異なるからだと思う。
 
「身の程を知る文化」は、自分の近傍のグループが調和的であれば、あとは自然の偉大な力が全体の調和を約束してくれると信じる文化である。この文化の背景には、自然崇拝(古来の神道)があると思う。(これは伊勢神道とは異なる。2月の記事「天皇家と国家神道について」参照:https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/02/blog-post_22.html
 
日本人は、この偉大な自然の中に生きる人間であるから、個人は集団の中に調和すれば(埋もれることを考えれば)、生き残ることが可能である。そして、専ら隣近所と過去に視点が向けられる。その視野を超えた世界は、観測の世界ではなく想像の世界である。この文化は、日本人の島国根性の正体だと考える。
 
日本独特の「箱庭や盆栽」は、その文化の中で生まれた。それらは、自然を想像し模倣したものであり、観測した結果ではない。そこにあるのは、事実としての自然ではなく、あるべき姿の自然である。自然は限りなく大きく、その視点からは巨木も小さな存在として想像される。箱庭や大自然を模した庭園の中に、主人公である自分たち小さな人間を想像するのである。
 
身の程を知る文化、つまり「箱庭文化」は、神道的自然崇拝の結果である。一方、箱庭や盆栽は、偉大な神の視点を得るために作ると考える人もいるだろう。それも事実だと思う。つまり、自然に調和した自分は、自然という神との合一を意味しているからである。
 
日本人は、自然に調和する一環として、周囲に調和しているのだろう。巨大な自然の中の小さな存在として生き、そして自然の中に消滅するのが日本人の一生のあるべき姿である。小さな箱庭や盆栽を見て、その人のあるべき姿を想像するのだろう。小説「楢山節考」は、常に貧困の中にあった昔の日本における、自然調和を信仰とした人間の姿を描いていると思う。
 
一方、大きく優秀な村上氏や堀江氏は、そのままの自分をテレビの画面に出してしまった。それらは、身の程を知らない外国人の姿だったのである。
 
3)現在老齢の域に達した日本人には、この神道的な考え方が身にしみている。そして、自分は、自然という大きな存在の中に含まれる小さい存在だという自覚を持つ。自覚というが誇りなのかもしれない。それは不思議な感覚:「箱庭感覚」である。
 
その「箱庭文化」(=身の程を知る文化)が、日本人の集団としての性質を作っている。集団の中で、違和感のある存在にならない様に、外にある目は自分を眺めている。「列を整然とつくる日本人」はその結果である。
 
この従順でおとなしい日本人の姿は、列に並ばない大きな集団を見た時、従順さを失って凶暴になる可能性を秘めている。それは、列に並ぶことで列の外に居る人間を軽蔑しているからである。その可能性がミクロに現実化したのが、イジメである。戦前の日本軍の強さもひょっとしてこの解釈で説明可能かもしれない。
 
別の表現では、日本人の視点は殆ど自分の外にある。そこから自分を一つの対象として見、自分とその周囲の人間の関係をシミュレートする。その結果、日本人の個は集団の中で縮小し、その周囲をゲル状の空気(山本七平の本にある)が覆うだろう。外国人が見る集団化した日本人の姿だろう。
 
我々日本人は、この特性を理解して、その限界を超える工夫をしなければ21世紀末まで生き残れないだろう。
 
 
補足:
1)村上氏は、西欧社会なら有能な会社経営者として迎えられた可能性が高い。このタイプの人を受け入れることができないのは、日本社会の“懐の狭さ”であり、日本経済低迷の原因の主要なる一部だろう。
 
2)日本の犯罪に関する捜査は、明確な証拠を抑える以前に、犯罪のシナリオが作られるようだ。そのシナリオとそれまでに掴んだ証拠らしきものとで、裁判所は簡単に逮捕状を出すのではないだろうか。その後、シナリオの補強と証拠の精査及び追加の探索がなされる。裁判もそのシナリオ通りに進み、結審するのである。名張毒ぶどう酒事件や高知白バイ死事件を考えた時、その印象を強めた。
 
3)無罪請負人或いはカミソリ弁護人という異名を持つ方が弁護に付き、無罪の可能性があると明言していた。
国会は議論する場である。参議院の金子予算委員長は、首相に対して暴言を吐いた小西洋之議員に厳重注意し、議場から退席させてもよかった。
 
1)立憲民主党の小西洋之議員が参議院予算委員会において、安倍総理にたいし「幼稚園児以下だ」という暴言を吐いた。そのことに対し、答弁にたった横畠内閣法制局長官が「国会の行政監視機能は、このような場で声を荒らげて発言することまで含むとは考えていない」と述べた。
 
この発言について、国会軽視だといって立憲民主党など野党議員が騒いだため、金子予算委員長が横畠氏に厳重注意をした。(毎日新聞配信)https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190308-00000095-mai-pol
 
おそらくこの注意は、余計なことを言わなくても良いという注意だろうが、それ以前に小西議員に厳重注意すべきであった。国会は国政に関して議論をするところであり、喧嘩をするところではない。従って、感情に走らず走らせず、言葉はあくまで論理的に用いるべきである。
 
立憲民主党の小西議員は、その原則を踏みにじり、総理を感情に走らせる為か、自分が本当に怒ってしまったのか分からないが、上記暴言を吐いた。小西議員は、安倍総理が感情的になり易い性格だと考え、たぶん揚げ足取りのために暴言を吐いたのだろう。どちらにせよ、国会議員にあるまじき行為である。
 
この件、彼ら野党議員の他に、しっかりと仕事をしなかった人がいる。それは金子参議院予算委員長である。国会の機能を暴言で麻痺させようとする行為は、国会を軽視し、国会の機能を妨害する行為なのだから、小西洋之という議員を、厳重注意の上で退場させても良かった。
 
2)「国会は国権の最高機関である」という憲法41条の規定がある。(補足1)野党議員は、これを三文ドラマ「水戸黄門」の印籠のようにかざして、総理大臣やその下の行政官を攻撃しているのである。法制局長官ごとき官僚が、国会議員である我々に偉そうなことを言うのは我慢ならないというのが、上記発言を問題視する野党議員たちの感情だろう。
 
この小西議員の暴言、そして国会審議の場ではないが、枝野議員の同じ議事堂内での挨拶での暴言(補足2)などの根拠は、この憲法41条の曲解にある。実際、以下のサイトにあるように、小西議員は行政軽視の発言をしている。https://www.youtube.com/watch?v=JWFotTuPajU 
 
しかし、日本国の基本理念は三権分立である。小西議員の行政軽視の発言は、この基本理念に反している。憲法のGHQ原案は、国家元首として天皇を明記しなくて良いように、憲法41条にこの曲解されかねない言葉を挿入したのである。(補足3)
 
つまり、枝野氏たち野党議員は、憲法41条の規定を利用し、国会において故意に暴言を吐くことで、日本の三権分立を破壊しようとしているのである。本来冷静な彼らが、このような暴言を吐くのは、すでに書いたが、時として感情的になる安倍総理の癖に付け込むためだと思う。
 
もし三権分立の原則を重視するのなら、国家、行政、司法の3つの間でのやりとりにおいて、暴言など有ってはならない。そもそも独立した人格の間の会話等において、暴言など有ってはならない。(補足4)
 
私は、憲法のこの部分を是正すべきだと思う。そのためには、米国の大統領選のように首相選挙人を国民が選び、選挙人の投票で内閣総理大臣を選出する様に、憲法改正すべきである。この首相公選制を実現した上で、憲法41条の上記部分を削除する他、他の法令等との整合性をとるのである。
 
日本の国会議員たちは、河野太郎氏が提案したように、品位ある国会を目指すべきである。戦後(戦前は知らない)の日本の国会は異常であった。乱闘騒ぎとか、牛歩戦術、そして今回のような暴言騒動である。これまで冷静にあくまで腰を低くして国会で答弁をしていたのが、明らかに国会議員の平均よりも頭の良い官僚たちである。今回たまたま、官僚の一人が不適切な発言をしたかもしれないが、その背景を国民は真剣に考えるべきである。
 
3)話は変わるが、立憲民主と言う政党は、本当に日本の国益を考えて国会で議論などをしているのかわかりにくい。彼らを当選させた人たちがどのような人たちなのかある程度は想像できる。小西議員のような暴言を吐く者を国会に送り込む人たちが、同じ日本国民の中にいるのだから、もしや、日本国も分断が進んでいると憂慮せざるを得ない。
 
この小西議員の暴言等に腹立たしく思ったある自衛官が、国会議事堂前で小西国会議員様に“国民の敵”とか何とか言った。それが暴言だと言って、再び野党議員が騒いだ。自衛隊は、その自衛官を戒告処分にすることで事態の収拾に努力した。https://www.sankei.com/politics/news/180424/plt1804240038-n1.html
 
更に、戒告処分されたこの自衛官に何かもっと大きな存在が背後にあるかもしれないと、火事場に風を送る新聞がある。「背後をもっと調査すべきである」とわざわざ社説で書いた毎日新聞である。https://mainichi.jp/articles/20180509/ddm/005/070/029000c
 
この新聞の動きは、野党議員と連携しているようにも見える。日本の新聞は、戦前戦後を通して国家を異常な方向に導くためのプロパガンダ機関の役割を果たしてきたことを、日本国民である我々は復習すべきである。(補足5)そして、急激に変化している日本国と内外の情勢に即応できる体制を、真剣に我々は考えるべきである。
 
補足:
 
1)「第41条:国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。」この規定を、国会は司法に優先すると解釈すると、日本は法治国家でなくなる。あくまで三権分立を日本国の中心理念とすべきである。この点に関する議論は、以下のサイトにある:https://www.lsclaw.jp/kokkai/saikoukikan.html
 
2)“「日本の総理、小学6年生並みで情けない」立憲・枝野氏”と題して、朝日新聞デジタルが報じている。
 
3)Article XL. The Diet shall be the highest organ of state power and shall be the sole law-making authority of the State.
翻訳:40条・国会は国権の最高機関であり、国に唯一の立法権威である。
 
4)この種の暴言に類する言葉は、指導する立場にある先生とその生徒との間、或いは、親とその養育中の成人前の子の間などであれば、一応成立するだろう。パワハラに当たるとして反対する向きもあるが、緊急の事態や非常に重要な事態においては、許されるだろう。
 
5)現在、百田尚樹氏の「日本国紀」を読んでいる。その中に、戦前戦後の新聞の煽りについて相当詳しく言及されている。
 
1)カルロス・ゴーン氏の件:
 
日産の前CEOのカルロス・ゴーン氏が、保釈されそうだ。100日も勾留しながら、更に勾留を続けようとする検察に呆れる。この件、裁判所は安易に逮捕状を発行した可能性が高く、批判されそうである。この上は、冤罪を産まないように、司法は慎重な判断をすべきである。日本の司法の国際的信頼感を損なう可能性がある。
 
今後、外国人犯罪が増加するだろう。その裁判のプロセスと結果が国際問題化しては、国益を損なうことになる。公正な裁判では、行政機関である検察と司法機関である裁判所が明確に独立していなければならない。一市民としての考えだが、私は過去に検察と裁判所が癒着したケースがあるのではないかと疑っている。
 
犯人として逮捕されても裁判前は推定無罪なのだから、100日も拘束することは人権軽視であると非難されても仕方がないだろう。日本の法律に従って拘束されているのだから問題はないと強弁をする評論家が多いが、本当に解って言っているのか怪しい。
 
冤罪が生まれる背景には、安易に検察に迎合して裁判所が逮捕状を出すことがあるだろう。日本の司法機関は、いい加減な証拠で逮捕状を出し、検察のシナリオに従って判決を出しているのではないかという疑いが強い。
 
今回のケースに関して知識はほとんどないのだが、長期の勾留と更にそれを延長したいという検察側の姿勢から、見込み捜査と逮捕だった可能性があると思う。また、それを未然に防がなかった司法の怠慢が疑われる。
 
2)過去の例: 
 
例えば、1961年の名張毒ぶどう酒事件では、検察による不十分な証拠に基づく逮捕、脅迫による自白、事実に基づかない犯行のストーリーが、高裁や最高裁で無批判に支持された可能性が大きいと思う。地方裁判所が証拠不十分として無罪判決を出したにも係わらず、高裁が逆転死刑の判決を出し、最高裁も何も考えずに上告を退けて死刑が確定した。一人の人間とその家族の人生を破壊したのである。
 
それ以降、度重なる請求にも係わらず、再審決定には至らなかった。その理由は、司法が自分たちの間違いを認めたくないからだろう。その際、よく用いられるのが「自白の信憑性が高い」という理由である。
 
死刑にあたるような犯罪で逮捕された被告の自白が、日本国の裁判では重要な意味を持つのである。その後、自白が強制されたものだと被告が主張しても、「自白の信憑性が高い」と言って、突っぱねるのである。驚くべきことである。
 
因みに、最高裁で上告棄却した裁判長は、勲一等の栄誉に輝いた。もし、この上告審での判断が間違っていたとなった場合、そのような栄誉は与えられただろうか。答えはNOの筈である。日本は法治国家とは言えない。
 
冤罪の疑いが濃いことは、司法も行政も気づいていた。何故なら、死刑は最後まで執行されなかったからである。毒物の不純物分析の結果に関する鑑定(補足1)が出て、冤罪が確実視されるに至っても、裁判所や検察はミスを認める代わりに、奥西死刑囚の人権無視を選んだのである。
 
2002年に第七次再審請求が成され、2005年4月5日、名古屋高裁(第1刑事部・小出錞一裁判長)は再審開始を決定した。同時に死刑執行停止の仮処分が命じられた。しかし不思議なのは、その決定を出した小出錞一氏は2006年2月に依願退官したことである。依願退職はこの国では体の良い解雇である。その理由を外国人に説明することは、非常に困難だろう。(補足2)
 
3)上記事件では、検察に基本的なミスがあったと考えられる。それは奥西死刑囚を支援する会のサイトに詳しく書かれている。犯行に使われたとされる毒ぶどう酒から分離された毒物のペーパークロマトのパターンが、説明出来ないのである。(補足1)
 
それはぶどう酒中の毒物が、奥西死刑囚が混入したとされる物と同一だとする鑑定が、捏造或いは重大なミスだったことを意味しており、重要な物的証拠を検察は失ったことになる筈である。それでも判決は覆らない。何故、このようなことになるのか?
 
検察や裁判所の人たちは殆ど法学部出身であり、理系の知識に乏しく、且つ、真実に対して謙虚な姿勢がないからだと思う。(補足3)また、文系公務員の人間には殆ど国際感覚がなく、人と人の連携が全てを決する日本村特有の文化に完全に染まっているのだろう。
 
例えば共同体内で犯罪が発生した場合、有力者は犯人ではないとする無言の圧力が働く。同じ力学で、検察が出した判断を裁判所がミスだと決定することは、日本村の仁義に反するのだろう。既に言及したように、2005年の名古屋高裁で再審決定をした裁判長が依願退職させられる羽目となったのも、その日本村の掟なのだろう。(補足2)
 
証拠が乏しいケースでは、非科学的な検察のシナリオが判決を決める可能性が高くなる。日本では、逆転有罪の率が非常に高いという報告がある。それは、上級審に行くほど行政と司法の癒着がひどくなることを意味している。http://www.asyura2.com/13/senkyo145/msg/834.html
 
日本の最高裁などの司法公務員は、何も仕事をしないで高給をもらっているように見える。その結果は、下の追補を見てもらいたい。三権分立の原則など、自分の出世と比較すれば、どこ吹く風という感覚なのだ。
 
追補:
①日本の最高裁判所がまともに機能しないことが、日本の政治の弱体化にも根幹部分で関わっている。例えば砂川事件での判決で、自衛隊違憲判決を出さなかったことが、日本の憲法改正を間接的に妨害したことになる。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2017/10/blog-post_24.html
 
②日本政府は数年前、横田めぐみさんのものとして北朝鮮から渡された火葬された遺骨のDNA鑑定をしたと結果、別人だと判明したと発表した。火葬してしまえば、DNAを構成する有機物は、殆ど全て酸化物となる筈であり、DNA鑑定などできないだろう。国際的に日本政府の理系音痴を宣伝する事になったと思う。その鑑定をした人は、その後行政により出世の道を与えられたようである。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2014/11/blog-post_2.html
 
補足:
 
1)毒物は化学薬品である。同じロット(同時に同じところで合成された製品)の薬物は、同じ不純物を同じ割合で持つ。通常有機物の成分分析で使われるのが、クロマトグラフィーという手法である。1961年、クロマトグラフィーの手法は既に確立しており、特にペーパークロマト(吸着媒として濾紙を用いる方法)は、学生実験でも行われていた基本的分析手法である。http://enzai-shikei.com/blog/226/
 
2)実質的に首になっても、依願退職という形を取るのが、後々組織の和を乱さないためには大事な儀式である。「和を以て尊しとなす」という宗教に毒された日本人は、自由と独立を恐怖する民族のようだ。
 
3)ぶどう酒から分離された毒物のクロマトグラムは、一つの不純物の有無という点で一致しないのである。この濾紙の上の斑点の有無という科学的に重要な意味を持つことが、日本のトップ大学の法学部卒の人たちには理解不能なのである。
尚、日本では理系と文系という不思議な人種分別が高校の段階でなされる。その結果、論理的思考が苦手でも暗記力抜群の学生だった人たちが、日本の行政、立法、司法の重要なポストを独占する。また、理系人間にとって、人としての常識に全く無知であっても、何の恥にもならない。それは、理系人間はこの国では道具の一種であり、政治経済文化などを考える立場にはないからである。