一週間程前に「身の程を知る日本人」と題して記事を書いた。しかし、その考え方は若い世代や外国文化圏の方には分かりにくいだろう。そこで、もう一度自分でも考えを整理しようと思い、この文章を書くことになった。後半では、日本における組織運営の欠陥について、その延長上で考えてみた。
(以下は、あくまで素人のメモとして書いたものです。)
 
1)日本人の多くは、大自然の中の小さい自分を自覚している。そして、そのように自分を観察する視点を持っている。それが前回言及した日本人の心に定着している「身の程を知る」道徳文化である。この典型的な日本人は、自分が外部に働きかけることよりも、外部世界への調和に高い価値を置く。
 
この文化は、神道に由来すると私は考えている。日本人は、自分ではあまり気が付いていないのだが、神道に根ざした文化の中で生活している。そして、世界の中の自分を、自身の外から眺める習性を強く持っている。
 
神道は、外国の方には分かりにくいだろうが、それを理解するには深沢七郎の「楢山節考」という小説が助けになるだろうと思う。簡単に粗筋を補足に書く。(補足1)自分の誕生から死までのすべてを大自然の神に委ねる信仰だと、私は理解する。
 
この「身の程を知る」という生きる上での規範は、富者と貧者の区別なく、社会的地位も超えたもので、大自然を司る神の意思の下ですべての人間は生きるという信仰であり、道徳文化である。この「自己主張よりも周囲との調和を重視する」民族は、日本人以外には、大きな集団としてはないかもしれない。(補足2)
 
日本では、この道徳規範のために、他人を批判することは勧められない。自分も他人も所詮小さい存在であり、他人の批判は身の程を知る人間のすることではないからである。これは美点のように見えるが、西欧規準で設計運営される組織の世界では、大きな弱点となると思う。
 
競争が人間世界の本質であれば、この考え方では、未来の生存が困難になる可能性が高い。批判とその応酬がが議論であり、個人にしても組織にしても、生き残りの為には必要である。「身の程を知る」規範は、神が本当に全てを支配するのなら、或いは、世界が進歩の限界に達し定常的になったとすれば、賢明な考え方だろうが、そうでない場合は弱点となる。
 
2)その弱点について、以下具体例をあげる。
 
議論による合意形成の困難:
 
日本人は立場の異なる相手との話し合いを嫌う。競争や闘争が始まる可能性が高いからである。これは、議論の習慣が日本人の中に無いことと等価である。
 
議論は、言葉は道具であるという考え方が出来ないと難しい。しかし、日本人は言葉には、霊が宿るという信仰をもっている。言霊信仰である。(補足3)その言葉の重み故、有り難い言葉(お経や定着した標語の類)以外は、口に出すことをためらう。その結果、議論なき合意を目指すのである。(補足4)
 
日本人の発する言葉の中で「私は」とか「あなたは」という主語のない文章が多い。「私は」で始まる言葉を公衆の門前で言うことは、神への挑戦のように受け取られる。「代議士の選挙演説ならともかく、そんなことを言う身分か?」という視線を受けるだろう。(言葉には出さないだろう。)
 
言葉の重みと、身の程を知る謙虚さ故、自分の考えを言葉に出すことを怖れるのである。(補足5)
 
西欧型組織への不適合:
 
文明の発展は、人間を組織化して成し遂げられてきた。現在の世界は、会社から国家まで、西欧的組織で形成されている。そのプロセスで、自然と調和する人間の姿は無くなっていく。文明は人工的環境であり、そこで生きるには精神的順応が必要である。
 
組織の運営は、弱点克服(弱者及びマイノリティの切り捨て)と新規発展の両方を議論し、その実行によりなされる。組織の最終意思決定は、そのトップが行う。この人間集団の組織化と、組織内での議論で進行方向を決定する戦術は、「身の程を知る」日本文化とは調和しない。(補足6)
 
グローバルな競争の世界において生き残る為には、この日本文化との不適合を自覚し、克服しなければならない。それは、自分たちだけでは無理かもしれない。
 
この組織における不適合な日本人の姿は、日常的にテレビ等で放映されている。何かの問題が生じた時、その原因が追求されることを嫌い、組織の責任者数名が揃って頭を下げる光景である。この様子を滑稽だとか、ふざけているとか思う人間は、日本にはあまりいないのである。
 
事件や自己の責任を個人に特定することを好まず、組織の連帯責任として希薄化し、最終的に逃れる方法を模索するのである。この連帯責任で話を終わらせては、組織は腐敗し潰れてしまう。そしてことの本質が明らかにならず、失敗に学ぶことができない。
 
重大な事件等の場合、日本でも個人がむき出しにされ調査されるだろう。それでも、特定の個人の失敗や犯罪として、明確に原因を洗い出せない場合が多い。多くの者が各段階で“印鑑を押している”場合でも、それだけ精査されたという訳ではない。それら書類は、学校の骨格標本のようなもので、本質はそこには残っていない。
 
このようなケースが国家の最高のレベルでも起こる。最近裁判が始まっている森友問題においても、残された書類だけでは西欧的国家組織において組織の系統にそって判断が積み重ねられている様に見えるだろうが、それは本質ではない。実際はトップの意向か威光が、組織全体の”空気”を創り、その空気に支配された組織が決定したことであり、一個人の責任とするのは酷である。
 
従って、日本の官庁では決済書類の保存期間を極めて短くしている。出来るだけ具体的な書類は廃棄して、骨組み的な書類のみを残すのだろう。更に、歴史の捏造や隠蔽をし、異常事態は天災的な出来事として話を収束させるのである。事件や事故、或いはもっと大きな戦争も、全て天災のように民族の歴史に記述される。(補足7)
 
結論:
日本の汎ゆる組織の運営が、西欧のように上手く運ばないのは、その日本文化と西欧型の組織とその運営方法が調和的でないからである。この日本は人類の文明が進化する中で滅びゆくだろう。上手く行っも、ギリシャやローマ(失礼だが)のような遺跡的国家になるだろう。
 
 
補足:
 
1)深沢七郎の名作「楢山節考」は、主人公のおりんという70歳を迎えた老婆が、死を人生の成就として受け入れる姿を描いている。家の跡継ぎに背おられ、信仰の対象である“楢山”の頂上付近に行き、そこで座り凍死する。その“楢山参り”の前日には、その集落の人々と伴に小さな宴を開いて、門出を祝うのである。<br>
つまり、自然の中に生まれ自然の恩恵で生きた人間が、自然に帰るのである。この風習は、作者の創作だろうと言われている。しかし、それが理解されるのは、日本人の心に神道が深く根ざしていることを証明している。(繰り返すが、その神道は伊勢神道ではない。)
 
2)仏教と神道は調和的関係にあるので、仏教圏の中小国にそのような国があるかもしれない。仏教は、「生病老死」の四苦の本質を理解し、そこからの開放(つまり解脱)を目的とする宗教だと理解する。この世(現世)の悩みは、全てその形ある自分の身体に関係する。しかし、自分の本質は精神にあるので、その精神の救いは形ある身体とその欲望を否定することにあるはずと考えるだろう。
その身体を虐める修行の果に、自然の中に消滅する自分を感じるトランス状態を解脱というのなら、上に紹介した楢山参りの目指すことと同じである。鎌倉時代から仏教の殿堂である比叡山の千日回峰行もその一つだろうし、四国88ヶ所の巡礼参りもその大衆版だろう。
 
3)受験生のいる家庭では、落ちるという言葉を口に出さないようにする。多分、老人のいる家庭では、4月2日には祝の行事は行わないだろう。42は「死に」と読めるからである。般若心経は意味がわからなくても、ありがたく聞く。例は山程あるが、それでも「言葉に霊が宿る」という指摘を受け入れる人は殆ど居ない。
 
4)西欧的交渉においては、双方が論理に基づき自己の正当性を主張する。一方、日本人同志の交渉では、双方が中間点(落とし所)を探す。
 
5)因みに、私自身も専門外のことをブログ記事に書くにあたって、かつての同業の先生方の「専門家でも無いくせに・・・」という嘲笑を意識した。しかし、その昔の専門分野での一定の自信と、権威筋から遠い存在であったので、その圧力は跳ね除けることが出来たのである。
 
6)日産の経営が傾いた時、カルロス・ゴーン氏がルノーから派遣された。彼が行ったことは会社内の弱者(非採算部門)の切り捨てである。日本人経営者がそれを出来なかったのである。シャープも多分同様だろう。今回はスキップするが、この日本文化では、汎ゆる組織でミニ天皇が生まれる可能性がある。東芝が傾いたのは、ミニ天皇が米国ウエスティングハウスを買収したからだろう。
尚、現在西欧社会がマイノリティーの権利保障を問題視しているのは、元々の弱者切り捨ての社会における反作用である。
 
7)第二次大戦も終わってしまえば、天災のように記憶されるのみである。責任者は居ないし、失敗の理由も公的には明らかにされない。「平和のありがたさ」を後世に語り継ぐことしか出来ない。一般国民は、軍備は戦争をするものであり平和の敵であると考える。「平和が軍備とそれによる外交によりもたらされる」という論理は、まさにコペルニクス的転回というべきである。与党と官僚は、ごまかしと隠蔽により、ミサイル開発するしか方法がないのである。
 
1)人間の歴史は、一緒に生きる仲間の範囲を決めて、その外との間に境界線を引く行為の物語だと考えられる。人は農業を覚えてから、その仲間の範囲が地図上の境界線に一致する場合が多くなったが、そうではない境界も依然として大きな存在である。
 
ニュージーランドでの銃撃事件の報道を見て、そのように考えた。同じ国に住んでも、仲間の範囲を決める境界線が複雑に入り組む状況を、20世紀後半から21世紀の世界は人為的に作ってしまったのである。その結果、意図的、恣意的、偶発的な境界線上の争い、殺し合いの頻度が増加するは、当たり前である。
 
イスラム教信者とキリスト教信者の間の境界線は、それらを固く信じる人達にとって、地理上の境界よりも明確だと思う。経済が上手く行かなくなると、ガス爆発のようにあのような事件が起こる可能性がある。防止策としては経済状況の改善と、地理上の境界線のみを残して、他の境界線が出来ないように、国家の指導者が政策立案するしかない。
 
その様に考えると、安倍政権は大きな犯罪的行為をしたことになる。新入管法である。頭の悪い人が政界を牛耳る我が国の未来は暗い。そのそもそもの原因は、日本の政界が隠れた特別区の人物に独占されているからである。
 
2)日本復活の処方箋:
 
上記の明確に境界線が見える場合は、その対策や予防の方法は比較的簡単に考えつく。経済的弱者を作らないことと、異質の文化を持つ地方からの移民は受け入れないことなどである。
 
一方、偏光グラスや透視メガネなどを用いないと見えない類の境界があり、それが現実の政治を左右する場合もある。あのような新入管法(移民法)が簡単に日本の国会で可決されるのは、日本の政界が非常に狭い範囲の無能な連中によって支配されているからである。
 
それは、代々政治を職業とする田舎の人たち、元官僚の権威に従順な人たち、そして、明治革命を行った薩長土肥の人脈にある人たちの複合体である。それを守る為に彼らが利用する法的手段は、2倍以上ある一票の格差と小選挙区制、更に当該選挙区の住民でなくても立候補可能な選挙制度である。東京に住みながら、中国地方や四国地方の小さい選挙区から立候補できるのである。(補足1)
 
つまり、江戸末期に天皇家を利用して実権を握った薩長土肥の人たちは、殆どが東京に移り住んだ。そこから群馬など周辺諸県に移った人(例:楫取素彦群馬県令)も多かったと思うが、それらの人脈にある比較的優秀な人物が東大文系卒から官僚になり、その後“政界に天下り”をして日本を牛耳ることになった。日本(或いは東アジア全体)では、其の種の支配層的人脈にある人物は、将来の成功を80%程度それに依存して決めることが可能である。(補足2)
 
改善方法は、見えない人脈で作られた境界を破壊することである。例えば、これまで似たことを何度も書いてきたが、選挙区を道州制中選挙区制に替えて、立候補資格をその住民に限定し、更に一票の格差を完全撤廃することである。日本を10位の道州に分割して選挙区とし、現在の都道府県単位の選挙区を廃止するのである。勿論、選挙区だけでなく将来的には現在の都道府県を廃止すべきである。(補足3)それは第二の廃藩置県的改革である。
 
面白みの全く無い東大文系卒から官僚になった人間の天下り先でしかない日本政界と、東京一極集中の日本に未来などある訳はない。(補足4)政界には、もっと広い範囲で人材を送り込む必要がある。
 
官僚にはリーダーシップに従属する性質の人物が適する。一方、政治家はその反対側の性質が適している。つまり、政治家はリーダーシップを発揮する人間でなくてはならない。
 
土佐の家系から出た吉田茂は元内務官僚であり、日本国のリーダーシップをとる立場にありながら、マッカーサーの権威の蛇口となってマッカーサー内閣の筆頭官僚となった様に見える。その後の自民党長期政権を担った、岸信介、池田勇人、佐藤栄作、中曽根康弘など多くの元首相は、全て同様の経歴を持つ米国の傀儡政権の筆頭官僚だったに過ぎない。(補足5)
 
それを無批判に支持してきたのは、全く無能な田舎出身の自民党議員と、理想家なのか他国の利益代表なのかわからない野党議員である。前者は、東京の元官僚政治家たちが全国の田舎に作り上げた人脈の出身だろうと思う。
 
小中高の18歳までの教育において、明治以降の日本史はそのエッセンスを抜いて駆け足で教育されるのは、その歴史を隠すためだろう。未だに日本の内閣が、岸信介の孫が首相で吉田茂の孫が副首相兼財務大臣という、薩長土肥支配であることを、もっと深刻に日本人は考えるべきである。
 
補足:
 
1)現在の総理大臣安倍晋三氏は、東京生まれであるが、本籍地を山口県に置いている。そこから立候補するためだろう。
 
2)研究者として全く無能な人物(筆頭論文が主要研究論文誌に全く無い人)が、日本最大の理系研究所の首脳として出世したケースを知っている。それは、人脈登用の結果であり、其の人は同様の人脈の上にあった上司によって引き上げられた様だ。同様な現象が、自民党二階幹事長の人物登用に見られるだけでなく、恐らく汎ゆる日本の組織に見られるだろう。
因みに、人脈による登用は人材の劣化を伴う。それを見事に表現した言葉がある。
First-rate people hire first-rate people;second-rate people hire third-rate people.Leo Calvin Rosten)。
 
3)現在の都道府県の区割りは、記者も自動車も殆どなかった時代に作られた。その区割りが、新幹線や高速道路が日本全国を走り、一つの県に一つ以上の飛行場がある時代にふさわしい筈がない。この何もしない行政を放置して、日本が来世紀に一応の体裁をとって残存できる筈がない。
 
4)大阪維新の会の大阪都構想を攻撃する人が多いが、これも東京一極集中の日本を改善する一つの方向上にある。
 
5)福田赳夫、宮沢喜一、大平正芳なども同様である。或る人が初めて宮沢喜一に政治に関する意見を求めた時、先ず「君は何期?」と聞いたそうである。多分、その人が自己紹介で「大蔵省の出身です」とでも言ったのだろう。「何期?」とは、東大法学部の何期卒業なのか?という意味である。東大法学部の卒業生以外は彼の頭になく、その学生となり優秀な成績で卒業したことが人生最大のachievementだったのだろう。面白くない人物の代表だ。
 1)3月8日(2019年)のブルンバーグの記事によると、米国は同盟国に駐留する米軍の経費を100%駐留相手国に要求するだけでなく、更に50%のプレミアムを上乗せして、米国の商売にすることを考えているという。

 

TrumpSeeks Huge Premium From Allies Hosting U.S. Troops
By Nick Wadhams and Jennifer Jacobs201938 14:00 JST
 
このニュースは、国際政治評論家の田中宇氏のメルマガで初めて知ったのだが、検索すると、他にもジャパンタイムズを含めて、多くのメディアで報じられている。
 
米軍駐留費の増額は、既にニュースになっていたが、それは実際に必要な経費と駐留相手国の負担分との差額を、現在よりも小さくするというレベルの話だと思っていた。この線での話として、既に米国と合意している韓国の駐留経費8%増がある。

 

日本は、他国に比べて負担率が非常に大きいが、それでもトランプ大統領は駐留経費の多少の増額を言ってくるだろうと思われていた。

 

しかし、ブルンバーグの報じるトランプの考えは、米国の赤字解消のため相手国に米軍駐留経費の全額負担だけでなく、50%の儲け分をのせて払わせようというのである。トンデモナイ話である。

 

この話に関して、田中氏はメルマガの中で、韓国は将来的に米軍の撤退を考えるだろうし、ドイツもEU全体の防衛構想の中で、米軍の駐留をなくする方向で解決するだろうと書いている。つまり、日本だけがこれまでの”思いやり予算”などの経緯にお構いなしに、倍額近い駐留費増を要求する米国に従順だろうと書いている。
 
トランプは、そんな考えを持つトンデモナイ大統領であるが、もし田中氏の分析通りなら、同様に日本政府もトンデモナイ政府である。
 
トランプ外交をマッドマン理論で解釈する向きが多かったが、完全に間違っているのかもしれない。つまり、マッドマンを演じているのではなく、本当にマッドマンなのだ。米軍の駐留に至った過去の経緯などお構いなしに、駐留経費を大幅増加しなければ、後は野となれ山となれというのだろう。
 
2)田中宇氏は、「隠れ多極主義」という言葉で、ずっと以前から米国は世界の多極化を考えていると言ってきた。そのとおりなら、トランプの考えはオリジナルではない可能性もある。米国支配層は、丁度良い時期に良い大統領が就任したので、荒療治はトランプにやってもらおうと考えているかもしれない。
 
トランプは、米国と他国との貿易不均衡問題でも、二国間で輸入と輸出が釣り合わないと、もっと米国製品を買うべきだと喚いている。これでは物々交換の古代の経済と同じではないのか。
 
金正恩と恋におちいったとか、訳の分からないことを言ったり、無茶な要求を同盟国に押し付けたりと、本当に厄介な大統領である。トランプ大統領をグローバリズムと対決する偉大な大統領だと持ち上げている馬渕大使に、この話に対して是非コメントしてもらいたいものだ。