国民を馬鹿にする政府なのか、そもそも政府が馬鹿なのか?

新元号が令和と決定された。そのニュースと伴に、テレビでは何時の収録かは知らないが、今上天皇と次期天皇である皇太子の言葉が紹介されていた。そこでは「象徴としての天皇」という言葉が繰り返された。元号を議論する前に、このような天皇のあり方を模索されてきた天皇陛下と皇后の美智子妃殿下には、国民の一人として心から感謝申し上げたい。

4月1日には、エイプリル・フールという西洋からのモノマネ慣習が影を潜めて良かったが、新元号の決定というエイプリル・フール的馬鹿騒ぎに困惑させられた。新元号は、有識者と言われる人たちから案を出してもらい、それらに対する意見を、衆参両院の正副議長、全閣僚会議、最後に「元号に関する懇談会」で聞いた後、臨時閣議で決定される。

日本独特の「元号」をカレンダーに用いることは、言うまでもなく、天皇の在位と直結した制度である。しかし、何処にも新天皇の意見を聴くというプロセスはない。この元号制度と現在の国家のあり方の矛盾に対する意見など、新聞にもテレビの報道などにも、出てこない。

それを象徴するのが、最後に意見を聴く場である「元号に関する懇談会」のメンバーである。医学生理学の山中伸弥氏、国際政治学者を自称する元NHKアナウンサーの宮崎緑氏などである。宮崎緑さんには悪いが、何故彼女があのような場に座るのかわからない。大島紬に詳しいからなのか?

宮崎緑さんが、国民の前、或いはテレビやyoutubeなどの画面で、国際政治の何かを語ったことがあるのか?もし国際政治の分野から、そして同じ宮崎を名乗る人から意見を聞くのなら、世界を見ている宮崎正弘氏の方が適当だろう。

これらのプロセスと時間及び経費をかけて、セミの抜け殻のような元号を制定するのが、不思議の国日本の姿である。これだけのプロセスで、関係者がどのような発言をしたのか、その資料は一切公表されずに最後はゴミ箱から焼却炉に消える。 
「刺青」は谷崎潤一郎の最初の小説だという。原稿用紙20枚にも満たない短編であるが、小説の面白さを教えてくれる作品だろう。谷崎は明治19年生まれであり、活動時期は20世紀であったが、小説の描く時代は絢爛たる町人文化の江戸時代だろう。私の理解した概略とその感想を書く。 
 
物語の概略:
 
主人公清吉は、豊国国貞のような浮世絵師を目指したが、その目的は達せずに刺青師となった男である。自分の刺青師としての能力の限りを尽くして、それに相応しい美女の背中に女郎蜘蛛の刺青を入れるという物語である。その思いに駆られて数年の後に、清吉の命を懸けるほどの欲望に相応しい美女を見出す。しかし、その際見えたのは駕籠の簾のかげから溢れたように見える素足だけであった。
 
以下のように書かれている。小説家の文章とはこのようなものかと思わせる描写である。
 
その女の足は、彼に取っては貴き肉の宝玉であった。拇指から起って小指に終る繊細な五本の指の整い方、絵の島の海辺で獲れる薄紅色の貝にも劣らぬ爪の色合い、珠のような踵のまる味、清洌な岩間の水が絶えず足下を洗うかと疑われる皮膚の潤沢。
 
その時は後を追うものの見逃してしまうのだが、半年ほどして、色街の芸者の使いとして、羽織の裏地に何か絵を描くようにという依頼の手紙をもって清吉を訪ねてきた。そこで、清吉はその娘の深層に眠る心理を呼び覚ますために、二つの巻物を見せる。欄にもたれて生贄の男を眺める紂王の寵妃の絵巻物と、多くの男たちの屍骸を見つめて居る女と凱歌を歌うような小鳥の群を描いた「肥料(こやし)」と云う巻物である。
 
娘の心に自分の本性を知る切掛を与えた後に麻酔を嗅がして、清吉は仕事に取り掛かる。 丸1日程して、娘の背中に女郎蜘蛛の刺青ができあがる。(補足1)その仕事を成し終えた清吉の心は虚となるが、その一方で、娘の背中に彫られた女郎蜘蛛が命を得るかのごとくに、麻酔から覚めた娘の苦しみの中でうごめく。
 
その後湯に浸かり、彫り込まれた色を肌に馴染ませて、刺青は完成する。その苦痛に耐えることで、刺青として彫り込まれた女郎蜘蛛と娘は一体となり、座敷に出る前の娘を紂王の寵妃の末喜の様な女に変身させた。
 
帰る前にその女は言った。
 
「親方、私はもう今迄のような臆病な心を、さらりと捨ててしまいました。———お前さんは真先に私のこやしになったんだねえ」と、女は剣のような瞳を輝かした。その耳には凱歌の声がひゞいて居た。(補足2)
 
以下感想文:
 
1)この小説を読み、最初はくだらないことに命を掛ける姿を見た気持ちになった。そして、次に私的な世界にのみ生きるタイプの人間が、生活に余裕ができた時、どのように自分の生命を消費するのだろうかと考えた。
 
その人間の本性の現れ方は、時代背景などにより変化するだろう。この小説は、江戸時代の町人文化の中に生きる、私的な世界に沈んだ人間の究極の姿を描く名作だと思うことになった。並外れた才能と美貌が出会い、私的な小さな世界を追求する姿を描いているのだと思う。(補足3)
 
江戸時代、この国には拡張の余地はなかった。文明も、そして、それにより拓かれる文化も、飽和状態であった。そのような世界では、多くの人は私的な世界に入り込み、原始的な姿に戻るのだろう。つまり、この小説はエロティシズムの中で、人生の全てを消費する文明社会の中での原始的人間の姿を描いている。
 
足先だけを見て、その美しい女性の全身を知ることができる清吉の姿は、研ぎ澄まされたエロティシズムの結果である。そして、女郎蜘蛛を背中に持ち、今後、世の中の男どもを餌食とする女の姿も同様である。勿論、それらは小説の世界でしか書けない話なのかもしれない。優れた小説家が、狭い江戸町人文化の片隅を見事というか、誇張して描いていると思う。
 
人間には他の動物にない想像力や自分の姿を見る目が備わっている。更に、有史以来数千年以上の間に作り上げた社会と文化を持っている。それらを表現のキャンパスにして、原始的な生物としての人間の生態を描くのなら、この小説のような世界となるだろう。
 
2)現代人は、江戸時代の人と比較して、遥かに大きく広がった空間を持っている。しかし、その文化は停滞的であり、多くの人に何らかの形でより文化的方向に前進する社会の姿は見えていない。つまり、江戸時代の町人文化のような停滞感や成熟感があるのではないだろうか。
 
彫り師の清吉と、女郎蜘蛛を背中に持つ女の世界は、江戸時代を背景に描かれた世界である。一方、高度に発達した資本主義文明の中で、停滞し腐敗の領域に入ろうとしている文化の下、類似の世界がある様に思える。テレビなどで、芸能界の隅の薬物と性で象徴される退廃した世界を垣間見る時、そのように考えてしまう。
 
この小説は、停滞した文明化社会の中で、人が生命としての本質に戻った時、どのような姿になるかに関して、一つの例を提供している。これは単に、一つの小さい世界に住処つまり巣窟(英語のnest)を求める人間の姿なのかもしれない。(補足4)
 
上に原始的な姿に戻ると書いたが、それは人間の本来の姿ではない筈と思いたい。人が単に知的能力に優れた哺乳動物(アニマル)でないのなら、原始的な姿=本質的な姿、ではない。人の本来あるべき姿は、隣の人や見ず知らずの人にも親和力を持つ「人間」という文化的な姿である。
 
もしそれが、仮の宿の仮の姿であるとしても、(補足5)それにこだわることに人間としての義務がある。私はエホバ神の信者ではないが、創世記の始めの方に「神は自らの姿に似せて人を作り賜うた」という記述を印象深く記憶している。それは、単なる知的なアニマルであるだけでは人ではないという戒めである。
 
(前日一旦投稿しましたが、不十分な内容だったため、書き直しました。2019/4/2)
 
補足:
1)丸一日麻酔の下で刺青をするようなことは実際にはあり得ない。しかし、そこに拘る解説をネットでみたが、それは小説の読み方ではないと思う。以前、芥川龍之介の藪の中を評した際、法医学を持ち出して小刀を刺したのは多襄丸ではないという議論を紹介したが、それも同様に滑稽である。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2018/08/iii.html
 
2)この文章中の「こやし」は、清吉が娘に見せた2本目の巻物の画題「肥料」である。
 
3)人間が文化的存在だとすれば、そのような人間の姿は停滞した社会の中での大いなる無駄を表している。
 
4)この小さい世界を住処とする人の性質は、又吉直樹著の芥川賞作品「火花」にも描かれている。4年前に、この作品の感想文を書き、「漫才」も一つの文化のフロンティアであり、そこを住処と決めて生きる人の姿を描いていると、高く評価したことがある。
 
5)「仮の宿」という言葉は、曽野綾子さんの本の題名からお借りしました。
 
ウクライナの人が、安倍総理の対露外交を軟弱外交と言っている。グレンコ・アンドリー氏は、新著『プーチン幻想』(PHP新書)の中でその理由等を書いているという。https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190326-00010001-voice-pol
 
プーチンの巧みな外交と安倍外交とでは比較にならないが、確かに20数回の首脳会談で何も実質的に進展しなかったことを考えれば、この方の考えを傾聴せざるを得ない。ザギトワの秋田犬を可愛がるのも、プーチン外交の一環だという説も納得できる。https://courrier.jp/news/archives/138852/
 
メドベージェワに続いてザギトワの「一途な日本愛」が、プーチンにより仕組まれたものだと考えることは、インテリジェンスの方々の間では相当初歩的な分析かもしれない。
 
ところで、あの秋田犬の名前がマサルであることが気にはなっていたのだが、ふと、佐藤優氏の名前と同じことに気づいた。ロシアでもひょっとして比較的良く知られた日本の名前なのかもしれない。
 
佐藤優氏とは、鈴木宗男事件の時に逮捕された人である。一月の両首脳会談の直前のラジオ番組で、佐藤優氏が2島は帰ってきますということを自身ありげに話していたことを思い出す。佐藤氏は、その時安倍総理が鈴木宗男氏に会ったことも、話していた。
 
日露平和条約交渉だが、2島返還で合意しようとしても、なかなかできないように見えている。もうすぐプーチンから2島返還で合意しようという提案があるのかもしれないと思うようになった。
 
つまり、もう一度上記の話を全て思い出し考察すると、この数ヶ月の消えかけた北方領土交渉は、ロシア側による日本側のための移動したゴールポスト(あるいは新たに作った仮のゴール)を定着させるプロセスなのかもしれない。
 
両方ともが、やったと思って喜ぶのだが、ロシアは日本がゴールキックに失敗した場面を見て喜び、日本はロシアが作ったダンボール製の仮のゴールに入ったと言って喜ぶのである。
 
グレンコ・アンドリー氏の記事に戻る。2島返還の基礎となる日ソ共同宣言だが、それはシベリア抑留者の早期期間のためにはやむを得ない合意だったと、アンドリー氏は書いているらしい。100万人の人質(民間人を多く含むので、この言葉を使う)をシベリアに抑留されたあの件は、現在の北朝鮮による拉致問題よりも遥かに巨大な問題である。
 
そのシベリア抑留者の問題と北方領土問題の関連について、政治家の口や、マスコミの北方領土問題の報道で聞いたことがない。私のブログ記事でも補足で議論したに過ぎない。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43856541.html
 
「約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられ、研究書によっては、死亡者は25万人以上と書かれているものもあり、実際の人数は定かではないようです。」とある記事には書かれている
 
帰還は1946年から1956年に亘ってなされたらしいが、1955年に社会党議員が収容所を訪問して、その貧しい食事に驚いたという記述もある。このような両国の関係の下、日ソ共同宣言は結ばれた。アンドリー氏の意見もそれなりの説得力がある。
 
北方領土問題は、ハーグ陸戦協定に違反したシベリア抑留問題と同時に考え、交渉し解決しなければならない類のものだった。そのことをもう一度思い出すべきである。もし、日ソ共同宣言での2島返還は無効であるというのなら、シベリア抑留問題も議題に登る筈である。https://ironna.jp/article/2743