先の投稿文(言葉の進化論(1))で、言葉が人間社会の生成と進化と同時に、発生進化したというモデルを提出した。そのモデルを用いると、多くの言葉の機能とその限界に気づく。今回の話は、言葉は社会の内部でスムースに通じるが、その外側には「言葉の壁」があるという内容である。

 

1)先ずその一例として、丸山穂高議員の失言?を考える。彼は酒に酔って自分の心の内部にある「女を買う云々」という言葉を、外界にストレートに出してしまった。本来どうでも良い発言だったが、政治家として重要な発言(補足1)を攻撃する援護射撃として用いられた。


つまり、彼の本能に由来する心中をストレートに言葉に出せば、社会生活に支障を来すのである。これを、「個人の心の中と社会の間に言葉の壁が存在する」と、ここでは考える。(補足2)その原因だが、言葉の進化論(1)で述べたモデルを想起すれば、自明である。

 

言葉は、①社会の中で②社会の維持・発展のために③社会とともに発生し発展したのであり、個人の心の中を外部に発信するために出来たのではないということである。(捕捉3)

 

2)もう一つ例を挙げる。それは、哲学の授業か何かで出てきそうな疑問文「戦争で敵兵士を撃ち殺すことは悪なのか?」を考える。先ず、戦争で敵兵と遭遇したときの状況を想像してほしい。相手を撃たなければ、こちらが撃たれるという状況(或いは世界)は、言葉を用いて議論できる世界ではないことが直ぐ分かるだろう。

 

また、戦争で敵兵を殺すことは、自分たちの社会を防衛することであり、兵として当然の行為である。しかし、何の躊躇もなく「戦争で敵兵を殺すことは善です」と答えられる人は、殆ど居ないだろう。その心理的抵抗は、上記疑問文が言葉の壁(敵と味方という二つの社会の間にある)を跨いで問題設定されていることによる。

 

この場合の原因も、言葉の進化論(1)で述べた言葉の発生と進化のモデルを考えれば自明である。つまり、自分の所属社会の発展、繁栄、永続が、そもそも言葉の目的であるので、敵である異なる社会と自分の社会を跨いで文章を作ると、言葉が通常の意味を持たなくなり、スムースに理解されないのである。

 

3)結論:

自分の社会と対立する社会(あるいは他の社会)の間には、言葉の壁が存在する。自分の社会を国家とみなせるような言葉の使用では、仮に素晴らしい翻訳があったとしても、言葉の壁による障害を受けるのである。

 

この言葉の壁が取り除けるとしたら、それは国家の間の境界を取り除いたときだろう。この壁は、文化の違いに由来するのではなく、言葉に本質的なものである。

 

学校などでの言葉によるイジメも、社会の外に排除された少数派に対する、壁を超えた言葉の使用である。それは社会の内部の言葉による団結であり、外へ向けた攻撃の反作用を利用してなされることが多い。従って、それは元々言葉の本来の機能として含まれている。

 

以上から、言葉の壁は社会の壁である。社会の内部の維持・発展のために発生進化したという私の言語発生と進化のモデルにより、言葉の機能と正しい解釈が可能になると思う。

 

 

補足:

1)「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」と元島民の訪問団長に質問したのは、国後島の訪問団の意味を考えさせる取掛の為だったのだろう。従って、何の問題もない。恐らく、国後返還の為の運動の一環として行なっているとしたら、訪問団の運動は無意味であると指摘したかったのだろう。

2)丸山議員の品の悪い言葉も、そのような行動を一緒にする仲間内では問題とならない。それは、その仲間を含めた小さな社会の中の言葉の使用だからである。

3)言葉は心の中を直接他に伝える手段ではないが、心の中の考え(本音)を反映する。そして、我々は社会の中では、建前でコミュニケートする。つまり、言葉がスムースに自分の心の中から相手に向かって流れるわけではない。この本音と建前の乖離は、言葉の壁を乗り越えて対話するための本質的な乖離である。国家の外交も同様である。

 「はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、これによってできた。」(In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God. He was in the beginning with God. All things were made through Him.)
 
これは新約聖書の中の一節である。「言葉」はWord(大文字で始まる)の翻訳であり、神の言葉であり神自身でもある。また、創世記に「神の姿に似せて人を作り給うた」とあるので、人の言葉は神の言葉(Word)を原型として作られたことになるだろう。
 
そして、この世界の全てを言葉で表現できる筈だと、ほとんどの人は信じているだろう。ふさわしい通訳さえ雇えば、世界中の人は言葉で全てのコミュニケーションが可能であると。

しかしそれは、現実の世界を見ればなんとなく判るように、少し言葉を信じすぎである。翻訳さえあれば全ての人が理解できるように、この世界の全てを表現することができるのなら、世界にこれほどトラブルが存在する筈がないのではないのか?その疑問について考えている途中で思いついたのが、言葉の進化論という考え方である。詳細は: https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/06/blog-post_18.html


上記記事で言いたかったのは、言葉は上記聖書の記述のように完全なる言葉(The Word)をモデルにして作ったにしては、その基礎の部分から不完全すぎるということである。そして、言葉の生成モデルを以下のように考えたのである。

ヒトが社会を形成するプロセスの中でその管理維持のために、言葉の原型が猿の鳴声に似たホモ・サピエンス(人)の発声から生じた。その後、社会が大きく強く、そして言葉は複雑精緻化するという夫々のプロセスが、一緒に進行した。つまり、人が集合して社会をなし、その社会と不可分な形で言葉ができる。その社会が大きく複雑に成長する過程で、言葉も論理を得て現在のような言葉に進化したと考えたのである。

従って、その社会の進化のプロセスや形態が大きく違う民族の間では、翻訳者を介しても話題によっては言葉は完全には通じないだろう。(実際は、この世界の現状から遡って、上記モデルを考えたのである。)

このモデルを更に進めれば、人の進化論にまで至る。つまり、社会が大きく複雑になっていく段階で、人もその社会に順応していくだろう。その結果、人はルールに従う従順な生き物になったのである。そのプロセスについて書いたのが、以下の記事である。「文明により改造、家畜化される人間」:
https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/03/blog-post_36.html

この二つの記事を正しいとするのなら、人の性質も民族により大きく異なることになる。例えば、文明による家畜化の度合いが浅い民族は、戦闘的で簡単に残酷な扱いを他民族に対して行うこともできるだろう。 そして、その行為を非難し、その根拠を指摘しても、言葉の深いところで通じないのである。(2019/6/18/19:00;ed:6/20/5:00)

 

 

1)最初人は、大家族的な群れを形成していただろう。そして、その群れが地縁の人たちをも含めて拡大する中で、ヒトの発声内容は家族間の単なる掛け声から、文章の形に変化しただろう。文章を発声して初めて、言葉の誕生と言える。構成員間の協力をよりトラブルの少ない、現在だけでなく将来も想定した、役柄を個体間に割り振った形でするには、文章無くしては不可能である。

文章は、主語と述語という成分を持つ。そこに副詞句などがあって初めて、上記時空に広がりを持つ集団としての機能発現が可能となる。この社会形成と言える人間の集団化に伴い、個体の識別(主語や目的語)や時空等を表す副詞句的な部分を持つ文章を使うようになる段階で、言葉の誕生とみなしうると思う。

その後社会は、血縁・地縁で結ばれていない人たちも含め、構成員の数を増やすことになる。社会維持と管理は細分化精緻化され、徐々に複雑になる。そのような社会では、構成員間のトラブルの解決や、今後の集団の方向を正しく議論するために、より進んだ言葉が必要になる。


公平な利害調整は、一般に難しい。しかし、その利害調整に失敗すれば社会は崩壊する。社会の拡大に伴って、ただ同じ社会に所属するという意識だけを共有する(あかの他人的な)関係が構成員間に多くなるので、言葉は論理的で客観的な会話、対話、記録、公示などに用いる道具に発展する筈である。 

その段階で、言葉はおおやけ(公)、権利義務、善悪などかなり高級な概念と厳密な論理が導入され、用いられるように進化するだろう。 

このように社会の変化に伴って、言葉が進化する。逆に、言葉の進化により社会を大きく多機能に、且つ、強くできるだろう。このモデルは、社会(民族)と言葉の双生モデルとか、社会進化論的言語学とでも名付けることができるだろう。この段階の言葉と社会の進化は、ラマルク説的進化と呼べるかもしれない。 


2)上記段階で、社会の形態が群れと言うレベルから小さな民族と呼ばれるレベルの集団に成長したと考える。それら民族が生き残りをかけて、他の民族と戦うことの連続が古代であった。生き残る民族は、緻密な言語体系を持ち、それを用いた戦略と機能的な軍事組織を作り得た民族だろう。その民族間の生存競争が、言葉の進化に重要な役割を果たしたと思う。これは生物におけるダーウイン的な適者生存による進化に相当する。

ただ、言葉と社会(あるいは民族)の進化は、生物の個体進化と違って、民族の征服・融合でも起こる。更に穏やかな、民族間の交流による進化もあっただろう。これら全てを引っ括めて、ダーウイン的進化と以下呼ぶ。(補足1)

英語などの西欧語が、日本語などに比較して優れた情報伝達機能を持っているのは、その民族間の交流と生存競争による言葉のダーウイン的進化を多く、地理的人口的に広い範囲で経ているからだと思う。

一方、日本語の場合は感覚的な言葉が多く、論理を取り込む言葉の発展が不十分である。それは、ダーウイン的な進化があまり起こらなかったからであると思う。

3)手元に2004年の雑誌「科学(岩波書店)」の7月号がある。「言語の起源」の特集号である。そこに、言語の起源がいろいろ議論されているが、ほとんどが未だ雲をつかむような話である。今後、少し勉強していきたいが、この雑誌のなかには大したヒントはないと思う。(補足2)


人間の進化も、言語と文化および社会の進化と、不可分だと思う。その人間と文化(文明)の相互進化は、人間の文明(文明化社会)に対する家畜化という形で理解できる。(2015年3月12日のブログ記事:「文明により改造、家畜化される人間」)https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/03/blog-post_36.html

文明進化が社会の進化をもたらしたのだから、人間の生物としての進化、言語の進化、社会の進化の3つは、不可分だと考えられる。

今日はこのあたりで記事を閉めようと思う。次回にはボロアミ的な上記議論の修繕をして、もうすこし考え方を精緻なものにしたい。以上は、言語学の素人が自分の考えを整理するためにかいたものです。批判等歓迎します。(6/18/6:00am;編集16:00)

補足:

1)言葉と社会の進化を2段階(用不用説と適者生存説)に分けたのは、話をわかりやすくするためである。両方のタイプの進化は最初から共存するが、その寄与の比率が発展段階で異なると考えられる。

2)この科学の特集号では、文章中に寄稿者の「自分の専門ではないが」と言うセリフが多く現れる。それだけ、この分野が未発達なのだろう。ちょっと読んだところでは、それらは社会(文化)と言葉の進化を、其々別に考えているので、根本的なところで筆者の上記考えと異なる。