先日(6月2日)NHKスペシャルで、スイスで安楽死をした人に関するドキュメンタリーが放送された。多系統萎縮症(MSA)という難病に罹患した方である。何時かはこの安楽死の問題を考えて、ブログに書きたいと思っていた。

 

人は動物であり、出来るだけ生き続けるという強烈な欲望を本能としては持っている。それはあらゆる生物に共通の性質だろう。その一方、人は高度に精神的な生物であり、自殺による死亡率が高いことが他の生物にない特徴である。現代の社会生活は、人間生活のオリジナルな生活形態から大きく離れることになった。生物としての人間は、その生活形態との矛盾を今後多く抱えるだろう。安楽死の問題はその一つだと思う。

 

スイスと日本で行われている表題の行為は、かなり違うがともに自殺幇助に近い。両者の本質とその間の違いと、安楽死が医療の現場で認められた時に、どのような影響がでるかなどを回を分けて考えて見たい。今回は、上記の「スイスの安楽死と日本の持続的深い鎮静」について、現状とその問題点や疑問点をやや羅列的に書いてみる。最後の部分で簡単に、日本の「持続的深い鎮静」を行う条件などについて書く。

 

1)安楽死は、今やかなり多くの国で行われているが、外国からの希望者も受け入れているのはスイスのみである。何故、彼らは文化の異なる国からも、安楽死希望者を受け入れているのか?彼らはヒューマニズムという観点から行っていると言うだろう。しかし、それを行う団体には大きな収入を得る手段となっていることも事実である。

 

何事でも、その解釈には、ふた通りの道がる。一つは:プロセスを論理的に追いかける方法であり、もう一つは:結果において誰が得をするかを見ることである。前者には論理の誘導が入り込む可能性があるので、後者の方が確かなことが多い。勿論、得とは「最終的な得」のことである。現時点の判断ではあるが、私はそれを許可するスイスと言う国は、ヒューマニズムに欠けた国だと思う。(補足1)

 

NHKで放送された限りでは、患者の安楽死を望む動機とその意思の確かさ、更に家族の了解を、慎重に確認したのちに安楽死という自殺幇助行為が行われたようだ。しかし、スイスのその団体は、他国からの取材を認め放送されることを許可したのである。それは、国際的非難を避けるために、しっかりとした手順を踏んでいるとの印象を与えるための宣伝行為に見えなくもない。

 

つまり、この自殺幇助、その報道や出版も、ビジネスとして行われた面があることに注目したい。勿論、スイスの自殺幇助にはヒューマニズムと個人の人権という後ろ盾がある。また、報道や出版には「言論の自由」や人々の「知る権利」という後ろ盾がある。

 

しかし、最終的には人の命が奪われるという点と彼ら当事者にかなりの収入をもたらしているという結果の重みを考慮すべきであり、間違いなく彼らの行為は悪のグレイゾーンの中に一歩踏み込んでいる。従って、これらの経費や収入等の公開をすべきである。勿論、一定の報酬は得ることに問題はない。

 

2)一年以上前に、小笠原文雄(日本在宅ホスピス協会会長、小笠原内科院長)という人が、「安楽死は安楽に死ねない死」と題して、このスイスの団体の行う自殺幇助について批判的なブログ記事を書いている。

 

小笠原氏は、スイスのデグニタスという団体の行う安楽死について、以下のように記述している。「あくまで「自殺幇助」ですから、医師は直接的な行為はせず、

死ぬことができる薬液をコップに入れ、“これを全部飲めば死ねますよ”と言って安楽死を望む人に渡すようです。」(補足2)

https://ironna.jp/article/8622?p=1

 

これはNHKで放送された現在のプロセスとは異なる。番組では、輸液装置を用い、最後の意思を確認したのち、薬液導入の栓を自殺する人が自分で開ける場面が放送されていた。その後30秒で意識を失うことが、事前に本人に知らされている。(補足3)

 

小笠原氏は続いて、日本の緩和医療では、安楽死と似ている「持続的深い鎮静」を、もっと慎重に行っていると主張している。つまり、その「持続的深い鎮静」は、①耐え難い痛みがあり、且つ、②死期が近づいた患者を対象に行う医療行為で、本人及び家族の同意を得て行われる。「持続的深い鎮静」を行うと、患者本人は死ぬまで昏睡(こんすい)状態に陥る。

 

今生の別れの時期と肉体の死に時間差があるため、家族は「自分たちが殺してしまった」と後悔する場合もあり、尋常な看取りではない。小笠原氏は、「“持続的深い鎮静”も、多くの人に迷惑をかけながら死んでいくことに違いないので、これを最後の手段であるとは認識ながらも、“抜かずの宝刀”と呼び、抜かないことに意義があると考えています」と言う。

 

3)しかし、テレビで放送された範囲では、小笠原氏が解説する「持続的深い鎮静」と患者の死へのプロセスそのものはほぼ同じに見えた。「持続的深い鎮静」では医者が患者に麻薬などの液体を血管に導入するが、スイスでの安楽死では最後の栓を開くのは本人である。

 

この生物学的な死へのプロセスに差はないが、スイスの安楽死の場合は行為の主体が本人であり、日本では医師或いは看護師などである。どちらが殺人により近いかと言えば、それは日本の「持続的深い鎮静」の方だろう。更に、思慮深いひとなら、この「持続的深い鎮静」という呼称には、多くのインチキがかくされ得ると直感的に感じるだろう。

 

もう一つの違いは、スイスでは肉体的所見として、死期が迫っているという条件がなくても、行われることである。しかし、その場合でも、希望者は精神的死期が来ていると証言するだろう。一方、日本の「持続的深い鎮静」の方では医師団は、死期が迫っていると言うだろうが、その判断もそこまでの治療も、ほとんどの場合同一の医師団による。

 

以上の比較でわかるように、この「持続的深い鎮静」こそ、闇の中にあると思う。少なくとも、「持続的深い鎮静」には、第三の目が注がれる必要がある。例えば、その一週間程度前に、所属学会も医局もすべて異なる医院への転院し、そこでそれを行うべきだと思う。

 

その前に、日本の行政はやるべきことがある。この種の「医療行為」が一般的になる前に、全ての医療データの一元管理(独立機関によるクラウド管理)を行い、ある患者がどこの病院で受診しようとも、その医療データ全てが共有できるシステムを構築するべきであったと思う。

 

次回は、保険制度や年金制度など行政との関連を書きたいと思う。

 

補足:

1)そのように感じるのは、一つにはスイスの銀行は犯罪者が預金を自由にできる国であるからだろう。兎に角、金銭的利益を追求する文化がこの国にあるようだ。なお、以下の全文において言えることだが、とりあえず結論を出して、前に進むことは現実問題として考える場合必要なことである。全て「らしい」で何が言えるのかという意見はあり得る。しかし、本を仮に読んだとしても、その本の評価が100%できる訳ではない。(例:吉田清治の慰安婦に関する本や、本田勝一の記事は、結局嘘が活字になっていた。)つまり、我々は差し当たりの知識で前に進まなければ、凡ゆる場面で一歩も進めないことになる。この弱点を埋めるのは、異なる大勢と議論することである。オープンな議論が真実に近づく唯一の方法であるのは、科学の世界でも、政治の世界でも同じである。しかし、政治の世界にはこの考えがない。それは、密室で誰かがこの政治を牛耳っているからかもしれない。(馬渕睦夫氏のThe Deep Stateを思い出す。)

 

2)小笠原氏のブログでは、スイスのデグニタスでの安楽死の場面を以下の様に記して居る。「死ぬことができる薬液をコップに入れ、“これを全部飲めば死ねますよ”と言って安楽死を望む人に渡すようです。飲み切らないと死ねません。一瞬では死ぬことができないので、途中で飲めなくなる人もいると思います。中途半端に毒を飲んでしまったら、死ねない上に悲劇が待っていることでしょう」と書いている。

 

小笠原氏がスイスでの安楽死批判を、この記述に頼って居るところがある。

 

3)コップに薬液を入れて飲む方式は、過去行われた可能性がたかい。何故なら、そのような記述が宮下洋一氏による前著「安楽死を遂げるまで」に書かれているようだからである。この肝心の場面での方法改善により、デグニタスはNHKという主要メディアに公開しても、団体の主張に理解が得られると思ったのかもしれない。

日本の将来を北朝鮮問題を出発点にして考えてみた。結論は、米国が東アジアに覇権を維持している間に、安定した日中関係と日露関係を築かなければならないということである。つまり、最初は日露平和条約締結だろう。

1)朝鮮は、有史以来の中国の支配下の構図に嫌気がさしているだろう。更に、ロシアに対する脅威も常にあった。実際、李氏朝鮮時代にロシアの支配されたこともある。北朝鮮の核開発はそれら周辺からの完全独立を目指しておこなわれたのだろう。

しかし、中国とロシアという大国に挟まれた小国は、どちらかの支配下に入るしかない。歴史から考えても、現在の国力から考えても、北朝鮮を支配下におく筆頭の候補は中国である。プーチンがウラジオストクで金正恩を冷たくあしらったのは、北朝鮮との関係に野心を持つと思われては迷惑だという気持ちがあったからだろう。

つまり、中露関係の悪化を招いてまで、北朝鮮と親密に関係を結ぶメリットなど、ロシアにない。同じ理屈は日本にも当てはまる。(補足1)更に、核兵器をもった北朝鮮が経済的に豊かになれば、強烈な反日国が増えるだけである。もともと、韓国に反日行動を取らせたのは北朝鮮であることを忘れてはならない。佐藤優の"安倍総理は早期に訪朝すべき”というのは全く愚論である。https://www.youtube.com/watch?v=zQwyzRb8LE8

米国にとっても、北朝鮮と仲良くするメリットなどない。また、北朝鮮の核など米国の脅威ではない。あたかも米国の脅威だというのは、一つには米国にとっても北朝鮮の核廃絶は大問題だということで、日本に安心感を与えるためである。そして、米国が北朝鮮の完全な非核化が出来ると思っている筈はない。

北朝鮮の核の脅威を大げさに米国が言う二つ目の理由は、北朝鮮に経済制裁をするための口実作りである。それは、中国の方向に北朝鮮を押し付けるためだろう。もちろん、金正恩が完全に米国の配下になるのなら、統一朝鮮は対中国の盾になるが、そこまで育て上げる力も、それを維持するエネルギーも米国にはない。

元々、核兵器開発は対中国防衛、韓国併合、対日本攻撃を念頭においたものだっただろう。核保持を部分的にでも認めてもらって、アメリカとうまくやれるならやりたいだろうが、結局そんなことは許さないというのが、アメリカの一貫した態度である。その後、ウラジオストクでのロシアとの会談で、結局北朝鮮は中国の配下になるしかないと覚悟を新たにしただろう。


そのように考えると、「安倍さんが急いで北朝鮮を訪問すべきだ」なんて、バカみたいな考えだ。北の経済発展に協力すれば、トランプは東アジアの政治的安定を達成したと自分の成果にするだろう。そして、結局米国はアジアから去る。アジアに残らざるを得ない日本は、第二の強烈反日国を育て、それはその後に生来の反日国韓国と統一するだろう。その後、隣の反日大国とも協調して、日本を崩壊させる可能性が高い。


トランプは金正恩とうまくやりたいと思っている筈がない。トランプは一貫して、半島全てを中国に面倒見させるつもりだったと思う。日本は最悪の方向に向かうが、それは米国の知ったことではないと最後は言うだろう。


2)日本にとって、国家存亡の鍵となるのは、おそらくロシアである。中国と長い国境線をもち、最後まで中国と仲良くなれないロシアと日本は組むしか他に妙案はないだろう。最後に残された無策の結末は、中国の属国という立場である。それが最も可能性が高い日本の将来だろう。なぜなら、日本にはまともな政治がないからである。


そこまで考えれば、今ロシアからの北方領土返還が日露間の主要課題だなんて、言っておれない状況だろう。つまり、プーチンの一本勝ちのシナリオ以外に、日露平和条約はないように思う。(補足2)ひょっとして、国後で口を滑らせた人は、それを言いたかったのかもしれない。https://www.jiji.com/jc/v4?id=foresight_00243_201810300001&utm_source=yahoo&utm_medium=referral&utm_campaign=link_back_edit_vb

プーチンも中国とロシアは世界一長い国境線をもち、最後は緊張した関係に戻る可能性を恐れているだろう。そこで、経済力をつけてシベリアに経済力と人口を増やしたい。中国と組めば、それは可能かもしれないが、中国もそれで豊かになり、益々尊大な態度で隣国に圧力を加えることになるだろう。


プーチンは自分の地位保全のためにロシア国民の世論に気を配っている。しかし最近ロシア政府は、北方4島がロシア領だという法的根拠はないと、サンフランシスコ条約の持つ問題点に言及・公表している。それが、日本とロシアが硬い袋を開ける結び目であることを、日本に示した信号だっただろう。


外交は、長い寿命を持つ民族(国家)と民族の関係だが、それを動かすのは国家首脳と官僚という有限な能力と寿命を持った人間である。プーチンも宇宙人ではないので、有限の地位を気にしつつ外交しなければならない。もっと、その現実的側面に気をつけるべきだろうと思う。


また、外交は今後の利益を最優先し、感情を抑えて行うべきだろう。それは知恵と知識を高めることによってのみ可能となると思う。日露平和条約交渉を北方領土問題に等しく考える今の日本人の貧弱な知恵では、日本にはロシアと平和条約のない形で、中国に飲み込まれることになる可能性が高い。(補足3)

この件で詳しいのは、プーチンと非常に親しいかもしれない北野幸伯さんである。彼のメルマガで、2012年11月に、中国が、ロシア、韓国に「反日統一共同戦線戦略」を提案したことを何度も日本の読者に注意喚起している。

時間はない。安倍総理が”身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ”と、自分の名声を犠牲にする気があるのなら別だが、そうでなければ早々に引退して、次のリーダーにこの件は任すべきだろう。
 

上記は差し当たり日米同盟が最も大事であることを否定したものではありません。念のため。(23日夜追加)

(これは政治に関心があるものの、所詮素人のメモです。)


補足:

1)日本の場合、米国の走狗となって北朝鮮を米国側に軟着陸させるということだろう。トランプも日本が金を出すと言っている。そのような損な役回りを真面目に考えるのは、偏に拉致被害者をお返し願いたいからなのだろう。この件、5月28日のブログ記事を参照してほしい。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/05/blog-post_28.html

2)ロシアは56年宣言に基づいて、歯舞と色丹は日本に返還すべきである。しかし、それに拘っていては、日本の将来に大きなマイナスとなると気付けば、今最低2島返還の希望を優先するのは本末転倒である。

3)この一連のことを総合的に考えて、対北朝鮮、対ロシア、対中国、対米国、そして対韓国の外交全てを考えなければならない。日本人は、その中で対北朝鮮外交=拉致問題、対ロシア外交=北方領土問題、対韓国問題=徴用工&慰安婦問題と、それぞれ独立に考えている。とんでもない間違いである。拉致問題など小さい問題である。拉致問題に拉致されては、日本人一億3千万人の将来はない。(拉致問題は日本の国内問題であるとの指摘はすでに何度もしている。)

言葉の進化論(3):善悪に見る言葉の壁

 

今回の記事の初めに、「言葉の定義域」という考えを導入する。「言葉が本来支障なく通じるのは社会の内部である」という今までの話を、「言葉の定義域は社会内部である」と言い換えるのである。つまり、言葉の壁で囲まれた範囲が「言葉の定義域」である。

 

この定義域という言葉を用いる利点は、言葉を社会内部以外に使用する場合などの考察に便利だからである。定義域が単語ごとに議論できるなどのメリットがある。例えば、善悪という言葉と違って、真理という言葉は社会を跨いで定義される。そのような違いが生じるのは、「真理」は「社会における団結」とは無関係だからである。

 

テキスト ボックス: 言葉の進化論(1):
言葉の誕生は個体の都合で生じたのではなく、人間が集団を為し、社会を形成し、敵と戦って生き残る過程で、誕生し進化したというモデルである。

因みに、動物としての人間も言語と社会と伴に変化(進化)したと考えられる。この付け足した部分は、4年前にブログ記事としてアップした「文明により改造、家畜化される人間」というモデルである。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/03/blog-post_36.html

 

 

1)前回の文章で、「戦争で人を殺すことは悪か?」という疑問文を例に上げて、「善悪という概念は、社会の内部でしか明確な意味を持ちえない」と書いた。つまり、善悪の定義域は社会の内部である。

 

その理由として考えたのが、言葉の進化論(1)に述べた言葉の発生と進化のモデルである。つまり、言葉は元々我々個人が思考するために発生・進化したのではなく、思考のために最適化されていないと云うことである。

 

この考え方は、オリジナルなものかもしれない。例えば、近代哲学の偉人であるエマヌエル・カントが倫理を考えたとき、言葉は社会や善悪とは無関係に、思考の道具として与えられたと思った筈である。何故なら、カントは善悪を普遍的なものと考えているからである。

 

つまり、カントの人間が持つべき基本倫理である“定言命法(捕捉1)”は、絶対的であり、変遷や進化などを考えて居ないからである。

 

誰かが、カントの理想主義的倫理が、国際連盟や国際連合などの設立の基礎として機能したと言っていた。もしそうなら、それら国際機関が、時代の変遷に伴って機能不全に陥るのは当然の結果だろう。

 

この言葉に定義域があること、特に善悪が所属社会内の、しかも、その中で利益を多く得ている人間に便利な言葉であることに気づいていたと思われる偉人がいる。親鸞である。

 

言葉は「社会の繁栄と維持発展に最大限に寄与する個体間のコミュニケーション法」として発展してきた。一方、人間社会とは無関係に進化した言葉がある。数学である。従って数学の定義域は人間社会に限られていない。その優れた論理性により科学に用いられ、科学は全世界の研究者の参加を得て、大きく発展した。

 

世界の政治の混乱は、言葉が通じないことによる。利害相反や文化的反発がそのまま言葉の壁となり、互いの意思疎通ができないからである。深刻な危機にあるといえる世界政治の原因のかなりの部分は、言語が民族(社会)の境界を超えて通じないことによると考えられる。(捕捉2)

 

兎に角、この微妙な遷移状態にある世界で悲劇的結末を避けて生き残るためには、世界の政治家連中は、言葉に固有の定義域が存在することを十分意識すべきであると私は思う。

 

2)ここで、親鸞の有名なことば、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」を考えてみる。「善人が極楽往生できるのなら、悪人はより極楽往生にふさわしい」という意味である。

 

この親鸞の言葉は、一つの社会内部という言葉の定義域に留まっていては、理解不能である。親鸞が言う悪人とは、例えば、社会から死罪や流罪などの判決を言い渡された者である。そして善人とは、その社会から最も多くの利益を得ている余裕ある人達である。

 

悪人は善悪という言葉の定義域(社会)の外にいるが、善人は社会の中心にいる。従って、親鸞は敢えて言葉の定義域を超えて善悪を用い、衆生の心理的救出を考えたのだと思う。或いは、上記言葉の善悪は、すべての人間を視野にいれた阿彌陀佛の立場での善悪なのだろう。(捕捉2)

 

同じ善悪という言葉の概念も、定義域を大きく拡大すれば、意味が大きくことなるのである。社会内の論理でもって、親鸞の言葉がおかしいと言う前に、社会の内外を俯瞰する阿弥陀如来の視野で、善悪という言葉を用いていることに注意すべきである。

 

社会の外に跳ね除けた者(悪人)を、善悪という言葉で裁くのは、単にその反作用による社会の結束強化に期待するイジメに似た社会の現象である。それは中学校の生徒から存在する衆生の持つ悪しき習性だろう。

 

善悪という物差しは、悪人を評価する物差しではなく、攻撃する武器である。裁かれる側の者が極楽往生できないと考えるのは、社会を構成する側の傲慢である。救済を考えるのは阿弥陀さんなのだから。

 

世界全体を見る”阿弥陀如来の目”には、多くの善人や悪人の間に差はない。(捕捉2)むしろ悪人の方が、その生涯において十分不条理な苦労を強いられて来たのであり、阿弥陀仏の憐れみの対象としてふさわしい。“悪人”が唱える「南無阿弥陀仏」は、元居た社会での“悪行”の阿彌陀佛による評価をすべて受け入れるという合意の言葉だろう。

 

ここで余計な事かもしれないが一言。親鸞は極楽の存在を信じていなかった可能性がある。ある宗教があったとして、その教団の中で(不真面目なニセ信者は別にして)その宗教を信じているかどうか不明、或いは疑わしいのは、ただ一人教祖である。教祖の位置は、数学で言うところの特異点である。(捕捉3)

 

半野生の現代政治において、善悪を論じるのは、半ば愚かなことである。更に野生の世界(あるいは生物の世界)全体を見れば、悪とは敵の別名にすぎない。戦場での敵と味方の間を考えると、殺人さえ悪の烙印を押せなくなるのと同様である。

 

3)余分な追加事項:北朝鮮問題と善悪の問題

 

北朝鮮による日本国民の拉致は、善悪や犯罪の問題として論じるべきではない。日本と北朝鮮という二つの国家は国交のない野生の関係にある。従って、他国民の拉致は戦争行為と見るべきである。その解決には、この行為が本来戦争を意識して対応すべきことであると、両者が気づくことが大事である。

 

その第一ステップにも至っていないのだから、解決する筈がない。日本側の取るべきなのは、戦争を意識して北朝鮮に無条件で「返せ!」ということである。それを北朝鮮が拒否したときには開戦しかない。その緊張感を、日本も北朝鮮も持っていないのが現実ではないのか。

 

もし、日本は憲法上戦争できないとして、その第一ステップを取れないのなら、そしてそれが憲法改正を拒否する国民側の責任なら、その一部国民は被害者を見捨るという宣言をしたことになる。その認識を、全国民の前に明らかにすべきである。

 

従って、拉致被害者の会が交渉の相手にすべきは、日本国民とその代表である日本政府である。経済協力などの条件を持ち出しての北朝鮮との返還交渉などを、政府にせまるのは間違いである。

 

 

捕捉:

1)定言命法(Categorical Imperative: 断言的な強制)は、カントの倫理の中心的概念。ただ、こんな面倒な言葉を用いる哲学は、大学時代には拒否反応の対象であった。ここに書いたにわか仕込みの知識について、間違っている箇所があれば是非ご教授いただきたい。

2)この阿弥陀仏の役割と、カントを批判したヘーゲルの「絶対精神」は似た概念であるのが面白い。この絶対精神を考えることでヘーゲルは弁証法的変化(進化)を考えた。阿弥陀仏の目には、善悪も固定的でなくなるのと同様である。

3)この捕捉も本題からずれるのだが、どんな機会でも利用して言っておきたいことがある。それは世界政治でも、特異点に注意が必要だということである。特異点とは、例えばその国家のトップである。国家のトップは、常に国家のために自己犠牲的に思考し行動していると仮定できれば、世界政治の分析はもっと簡単だろう。

習近平は、トランプは、プーチンは、そして、日本の安倍晋三は、本当に夫々の国のことを第一に考えているのだろうか?