今日、G20首脳会議が終わった。NHKは、議長国日本の安倍総理と、米国トランプ大統領の記者会見を放送した。その様子を見て、大きな差を見出した人は多いだろう。私もその一人である。

 

安倍総理は、全体説明の後、4人ほどの内外の記者の質問に答えて、5分ほど予定時間を余らせて席を去った。日本人記者の質問は総合的なもので、答えの内容も具体性に欠け、それを視聴しても新たな情報量は極めてすくない。

 

一方、トランプ大統領の記者会見は、早い英語とわかりにくい同時通訳のためか、年寄りにはその内容は理解しにくいものだった。ただ、優に30人を超える記者の質問は、30分以上放送時間を延長しても終わる気配がなかった。答弁の途中で質問者から追加や確認の質問が入るが、それにも全て答える。

 

記者には有権者に代わって質問をする権利が、そして大統領にはそれらに答える義務があり、途中で質問を打ち切る権利など無いようだ。有権者の知る権利を、目の前のテレビが明確に見せてくれている。

 

日本では、政治家は自分の持つ政治的情報をまるで餌をやるように、記者に撒き与える。記者は、それに群がる野犬のように、それを急いで口に入れる。アラース。日本には民主主義など存在しない。

先週言葉について議論したが、日本語の出来具合について別サイトに書いてあったので、ここに再録する。2014年2月9日日曜日の記事だったので、進化論については不連続に起こると書いており、若干現在の考え方と異なる。現時点での考えは先週書いた通りである。

 

以下再録部分:

 

 日本語は、論理を含めた情報伝達の手段として出来がわるい。 論理展開に向かない言語を持つことと、感性や感情を優先する文化は同根である。為政者間及び為政者と選挙民との間の(論理に基づいた)議論は、近代民主主義の必須要件であるため、この問題は深刻である。少なくとも、そのような言語環境に居ることを自覚することが、例えば、先の戦争の時の様な政治的な混乱を防ぐためには大切であると思う。今回、日本語の出来が悪いのは何故か?について、新たにヒントを得たのですこし書く。

 日本語は世界のどの言語とも繋がりのない言語である。内外の学者が類縁語を探したが、見つからなかった。(注1)日本にもっとも地理的に近い韓国の言葉も、語順は似ているが、類縁関係にないとのことである。日本民族は、言語の骨格が出来上がる時期を含めて長期間孤立していたのだろう。(注2)日本語が完成度の低い状態にあるのは、漢字の輸入が原因であるという説がある。それは、「漢字と日本人」(文言春秋)の著者である高島俊男氏の主張である。高島氏の解説では、未発達な状態にあった日本語に、大きな体系をもつ漢語(漢民族の言葉、中国語)を部分的に(つまり漢字を)移入したために、日本語の発達が止まってしまったというのである(上記新書24頁)。

言語の発生と進化を記した文献がみつからなかった ので何とも言えないが、おそらく、言語の自然で軽微な変化或いは他言語を取り入れた形での改良はありえても、進化、つまり最終的に骨格まで換わる様な連続した変化は余程の事が無い限りおこらないと思う。おそらく言語の発生及び進化は、例えば、民族の生存を賭けた様な極限情況や、奇跡的な宗教体験と知的凝集の結果として非連続的に起こり、後世からそのプロセスを推察することは不可能なのではないだろうか。従って、漢字を輸入したことで言語の進化が停止するような大きなデメリットはなく(下に書く様な不便はあるものの)、表現の幅がひろがったメリットの方が圧倒的に大きいと思う。

 兎に角、漢語の輸入により多くの新しい概念を組み入れ、且つ、漢字の一部をとってカタカナを、草書的な表現から仮名を発明して、日本語は文字を持たない言語から三種類の文字をもつ言語に進歩した。明治以降、“国民国家”(注3)として新しく日本国を建国する際、国語として日本語も整備した。その際、多くの西欧的概念を二字熟語として加え語彙を増やしたが、その結果、多くの同音異義語が出来た。(注4)そして、日常会話において、前後の文脈から多くの同音異義語から一つを選択するという神業的な作業を行なわなければならなくなったのである。

 日本語では同音の漢字が多いので不便だが、漢語においては漢字は、一語一音節一字であり、不便はあまりないらしい。実際に漢語に用意された音節の数は、1500程度あり(注5)、日本語の100程度より遥かに多い。(同上書33頁)また、英語では3000音節程度あるとのことであり、音節数の比較だけでも言語としての完成度の差は歴然である。(注6)
<br>  漢字が日本語にとって重要になればなるほど、それを抱き込んだ日本語はキメラ的な言語に変化して来た。そこで、漢字を追放しようという運動もあったが、それは不可能なことである。もしそれを行なえば、日本語の利用価値はなくなり、命が無くなるのである。(同上書、第四章)我々日本人は、キメラ的であろうと、日本語を用いて生きて行くしか無い。今後、我々が他に取り得る道があるとすれは、日本語の根本的改良よりも、例えば英語と日本語のバイリンガルになることではないだろうか。

例えば自然科学系では、論文は英語で書く。その際、日本語の原稿を用意して、それを翻訳するという方法では、上手く論文が書けないことが多い。下手な英語でも、最初から英語で書いて改良していく方が、最終的には短い時間で投稿できるのである。バイリンガルは部分的には進んでいるのだ。

注釈:
1)チベット系のレプチャ語、ビルマ語、インド南部のタミール語などとの類似が研究された。しかし、同根説は成立しなかった。
2)大陸から帰化した人は大和朝廷が出来たときからかなりいたと言うことである(歴史とは何か、岡田英弘著)。従って、孤立といっても文化が変化しないレベルのものである。
3)二月三日のブログ参照(岡田英弘著、歴史とは何か、文芸春秋)
4)「せいし」とワープロで打つと、正史、静止、精子、生死、制止、製紙、正視、姓氏など多くの漢字表現が表れる。同音異義語が多く出来たのは、西欧語を漢字を用いて熟語にする際、漢字の元々の意味を利用したためである。それらのうち、かなりの二字熟語は中国に逆輸入されたが、中国語では漢字は一語一音節一字なので同音異義語にはならない。また、江戸時代までに出来た熟語は漢字の意味を重視せずに作られたため、同音異義語が少ない。
5)四声と言われる調子が異なる発音を異なる音節とする。
6)この音節数の違いが、日本人が英語を習得する上で大きな障害になる。特に英語の聞き取りが困難な理由だろうと思う。つまり、日本人は通常strengthという単語を、ストレングスという5音節の発音で習得する。本当は、strengthは一音節であるという。つまり、一音節で発音する単語を5音節で習っていては、英語を話し聞くことが出来る訳が無い。日本の英語教育の間違いを、この音節に言及して議論したことは無いのでは?

1)言葉は、人と人の間のコミュニケーションや議論の道具として、使われるべきである。しかし日本では、「言葉」を道具としてではなく、神のお告げの如く受け取る傾向がある。日本で言葉を軽々しく使うと、職場を首になったり、社会で非難轟々となる危険性がある。

 

例えば、70年前占領軍は日本に極めて特殊な憲法を押し付けたが、それを独立後も70年間拝み続けた。それは、政治家が無能だったという理由だけでは説明できないだろう。明治憲法も同程度の期間、一度も改訂できなかったのだから。(補足1)

 

「持続的深い鎮静」という不思議な言い回し表現を理解するには、日本の特殊な言語空間に関する本質的解説が無くてはならない。脱線気味だが、それが以上のようなことを書いた理由である。端的に言えば、このような表現を用いるのには、何かを隠す目的が存在するのである。(最後の文だけでは理解してもらえないと思ったのである。)

 

議論をもとに戻す。先に引用した小笠原内科院長はこう語っている。「この持続的深い鎮静は、病院や緩和ケア病棟、在宅医療を行う一部の診療所においては、かなりの頻度で実施されているところもあると聞きます。」http://www.n-shingo.com/jiji/?page=1376

 

一昨日の記事に書いたように、「持続的深い鎮静」は仮に患者の了解を得ているとしても、医師が毒液注入の栓を開く限り嘱託殺人である。患者の了解を得ることができなければ、殺人である。確実に鎮静ののち死に至ると、小笠原院長が書いていることから明らかである。

 

そして、医者には「それはあくまでも鎮静という治療行為である」との抗弁が用意されているだろう。そして、それを行政から司法まで、日本という国は擁護するだろう。しかし、例えば致死量のバルビツール酸を他人に飲ませば、飲ませた人は殺人罪で逮捕される。仮に、深い眠りと死の間に相当の時間差があるので殺人ではない、と言っても通らないだろう。確実に鎮静(眠り)ののち死に至るからである。

 

そのホスピスでの殺人行為は、西欧的論理では法的根拠を得ることなく、医療の現場で行われている。論理的でない日本語と日本文化の特徴を悪用して、根拠もなく拡大解釈する例は、既に日本国憲法と自衛隊と称する世界で有数の軍隊との関係を見れば明らかである。(補足2)「持続的深い鎮静」という言葉を見た時、私はそれらのことを思った。

 

過去の食料に乏しい時代、棄老という習慣がどこの国にもあっただろう。それを見事に描いた小説が深沢七郎の「楢山節考」である。しかしそれには、食料が十分なく、若者も子供たちも十分に食べることができないという時代背景があった。楢山節考で記述された「楢山参り」は、神との合一という名誉ある死と、その後に続く世代の深い沈黙とで、家族(社会)全体で老人の死を担う習慣である。(補足3)

 

一方、私が生を得て一定の判断力をもったころには、棄老などという忌まわしいことなど、仮にあったとしても、学者の議論の中にその痕跡が残るのみだった。その頃の習慣では、老人はほとんど在宅看護で最後を迎えた。それは主婦を初め、家族には大きな負担になったことは想像に固くない。しかし、それを人間の務めとして、受け入れる文化があった。

 

20世紀の最後の30年ほどで、資本主義社会の方向に豊かになった日本では、「老人の死」を病気治療という形で病院に移し、日常から排除した。その結果、外見を見る限り、専門の工場での流れ作業のように老人の死が扱われるようになった。その最後のプロセスがホスピス入院である。形を変えた棄老である。

 

その現象に慣れた新しい世代の個人は、結局、少子化で報いることになった。都合が良い部分だけでは「個人」となった人達は、自分の人生を第一に考えて「子供を多く育てることは、高学歴社会の現代、経済的負担が大きくなり、自分の人生の幅を狭くするだけである」と、考えるようになった。それは、或いは勘違いだと良いのだが、人類絶滅の一里塚だと私は思う。

 

2)現在大病院では、患者がベッドに寝たきりになると10日程で追い出され、終末医療専門の病院に運ばれる。ホスピスで働く医師の言葉によれば、患者自身が望んで(ホスピスに)来ることはめったにない。患者は、緊張し、またしょんぼりした様子でホスピスに入院してくるとのことである。そして、家に帰ることなく、ほとんどの人が一ヶ月程で亡くなる。(補足4)

https://www.buzzfeed.com/jp/takuyashinjo/dr-burnout

 

しかし現在の光景でも、比較的のどかに見える日がくるかもしれない。団塊の世代が死に向かうとき、大病院やホスピス専門の病院は、“治療の回転率”をあげることになるだろう。法治国家とは言い難い我が国では、局所的な強い要請はそのまま”闇”(認められた闇だから、薄明かりというのが正しいだろう)での作業を加速する筈だからである。

 

そして、「持続的深い鎮静」は、医療ビジネスの商品と見なされるようになれば、回転数を上げるのは当然だろう。大資本が医療法人として名乗りを上げるだろう。現在医療はGDPの約12%を占めるが、それが大きく増加するだろう。

 

更に気になるのが、年金制度及び健康保険制度との関連である。その破綻が囁かれる現在、健康保険と年金制度の負担にならない様に大医療資本も協力して、一連の緩和ケアのプロセスが見直され、効率化がなされるだろう。政府は「緩和」「鎮静」「治療」という言葉の上にあぐらをかいて、何もしないのが日本の伝統である。

 

一部で批判が出て、裁判になったとしても、東アジア全体がそうであるように、日本の最高裁も行政の下部組織に過ぎないので、結果は明らかである。(大崎事件の最新要求に対する最高裁の判断を参照)

 

 

補足:

1)明治憲法の天皇に関する条項は、天皇を利用した革命戦争の時には、薩長軍の道具として有効に働いた。しかし、その後は憲法と現実の政治のあるべき姿との乖離を正す事ができず、日本国は軍部が暴走する国家となってしまった。未だに、明治憲法は生きているというアホが政治家の中にいる位、言葉に縛られる民族である。http://www.n-shingo.com/jiji/?page=1376

 

2)自衛隊という言葉の「自衛」は良い言葉である。従って、「軍隊」という悪い言葉にくっつく筈がないから、自衛隊は軍隊ではない。それが日本の言語空間における感覚である。それに反して、「戦争」という忌むべき言葉は、疑問文であっても否定文であっても、決して口にしてはならない。それが、丸山穂高議員を国会全体で非難した理由である。「持続的深い鎮静」では、「鎮静」という言葉が良い言葉であり、それが語句全体を支配する。言葉が社会を支配するのであり、その言葉が表す「実体」がどうあっても無関係である。慰安婦が売春婦でないのは、「慰安」がつくからである。海外から受け入れる「技能実習生」は、低賃金労働者ではない。何故なら、実習生だからである。これらすべて、言葉が実態に優先する言霊の国の現象である。

 

3)それを受け入れない老人は、闇の中で深い谷に遺棄される。それを待っているカラスの群れが、その瞬間に大きな羽音をたてて舞い上がる。小説のその場面を思い出すと、未だに肌寒さが伴う。

 

4)その医師の次の言葉を真剣に聞くべきである。

「一人の患者を最期まで支えるというのは、とてもパワーの必要な仕事です。あらゆる苦痛を薬で治療し、果てない悩みを聞き、家族の不安とやるせない思いを聞き続けます。自分に元々備わっている誠実さと優しさだけでは、この仕事を続けることはできない」