1)同じようなことを書く人だと思われるだろうが、今回も「言葉の謎」についてこだわって文章を書く。きっかけは、6月27日に書いたブログ記事「持続的鎮静は法的議論を経ぬままに拡大加速化されるだろう」に対してもらったコメントである。

 

米国在住のハンドル名chuka氏からもらったそのコメントを以下に記す:

 

ご紹介されたNNK安楽死の一コマでは、同病で悪化し、喉チューブで呼吸している女性に医師が「おやつとる?」と話しかけていました。静脈からの全栄養注入におやつという幼児語を使うなど、バカにしています。また患者が幼児並みなら判断力に問題がありますが、この医師は、はい、いいえを目の反応で理解することが出来る?と主張!エンドオブケアの目標は人間としての尊厳の維持です。大体において日本ではまだ自分を神様と見なして勝手な判断する医者が多過ぎる。問題です。

 

このブログ記事についてのコメントのやり取りを読むと、改めて面白い内容だと思い始めた。その結論を書いたのが、表題の「言葉が人間を作る」という文章である。つまり、我々は教育を受け、あらゆる角度から日本の言葉を学ぶ。それが、個性により屈折したり増幅されたりするが、夫々の人間性となって、“社会の中での衣”として織り込まれることになるのである。つまり、言葉により哺乳動物の一つの「人」が、社会性を帯びた「人間」となるのである。(補足1)

 

日本の医者が傲慢だとすると、その傲慢さの源流を辿れば、日本語に突き当たると思うのである。ここで日本語とは、日本社会の“空気”が書物の上に“凝縮”したものである。逆に、日本社会の空気は日本の多くの書物から“蒸発”したものである。ここで凝縮と蒸発という理系の言葉を用いたが、それは著作となること、及び、そこから人々が学ぶことを意味する。自分勝手な評価かもしれないが、面白い比喩だと思う。

 

上記のコメントのやり取りで、chuka氏は「エンドオブケアの目標は人間としての尊厳の維持です。日本ではまだ自分を神様と見なして勝手な判断する医者が多過ぎる。」と指摘しているが、その文章のキーワードは「尊厳」だと感じる。

そして結論として、医者だけでなく、日本人の多くは尊厳という言葉を理解していないのだと思うのである。

 

「尊い(とうとい)」と「厳しい(いかめしい)」が一つの単語「尊厳」を作る。そんな単語が日本人一般に理解できる訳がない。ここで理解とは、言葉が自分の頭脳の中を通り、消化吸収されて、自分の心に響く形で自分の語彙となることである。テストで漢字が書けることではない。

 

私が理解する尊厳は、英語のdignityである。つまり、英訳することで英語圏での個の自立の習慣を思い出し、なんとか理解しているのである。Chuka氏は米国在住故、私の理解とは若干異なるだろう。しかし、やり取りが成立しているとすれば、尊厳という言葉に似た理解をしているからだと思う。

 

2)病院での患者と医者の関係は、社会的関係である。患者はベッドの上に一人でいるときには、“自分に戻る”だろう。しかし、医者や看護師(補足2)が来た時には、体の自由は効かないが社会人として対面する。従って、医者も患者も、人間性という衣を着た状態での関係を保つ。

 

患者は自分の病の説明のとき、そして直接体を見せて診察を受けるときには、自分の私的部分の一部を開示する必要がある。その微妙な関係のときに、医者は自分自身の人間性が問われる。患者のdignityを侵害しないことが、医者としての義務である。その自覚は、医者としてのイロハだろう。(補足3)

 

上記chuka氏のコメントは、その医者が、医者としてのイロハすら学んでいないことを指摘しているのである。医師は、日本では学業成績の最優秀な学生が目指す職業である。それ自体も異常なのだが、それでも尚十分に社会性を持てない医者が(多分)多くいることは、日本文化の弱点なのだろう。

 

ある人の人間性とは、その人が社会で見せるその人の制服のようなものである。社会での人と人の関係は、人間性という衣を来た形での関係である。(補足4)「自分に戻る」とは、その衣を脱いだ状態である。この両方の状態を峻別する能力が、私の云う「個の自立」である。

 

人は社会を作って生きている。社会なくしては、一片のパンも手にする能力もない。従って、人は社会的存在としての自分と、私的自分との峻別をしなければならない。人間と言う言葉は、社会に生きる人の意味である

 

日本の文化の弱点は、個の自立が十分確立していない点である。個の自立は民主主義社会を作る上で必須である。それを指摘したのが、小沢一郎のゴーストライター達が書いた「日本改造計画」である。

 

 

補足:

1)人間とはもともと「世の中」「世間」「人の世」を意味する仏教語に由来すると書いている記事がある。http://ot7.jp/archives/693

私の「人間」の定義は元々このような理解を背景にしている。つまり、「人間とは、社会性を持った人」である。人とは、哺乳動物の一つのホモ・サピエンスを指す。

 

2)看護婦が女性差別用語だというので、看護師という言葉が使われている。しかし、何故「看護士」という漢字を用いなかったのか、非常に不思議である。日本の病気を指摘するのは、看護師という言葉だけで十分である。勿論、医師も本来医士がふさわしい。士と師の区別さえ出来ないにも係わらず、漢字検定などで漢字の能力をテレビなどで競っている。これらの言葉は、無知な或いは卑怯な人間が、この言葉を決める立場に出世していたからである。日本医師会の票を当てにする自民党議員が直接関係しているか、その自民党議員を忖度した文部官僚の可能性が高い。

 

3)医者としてのイロハだというのは、非常に厳しい評価である。今後、介護などを受けることになれば、個人の尊厳という言葉を知っているので余計に、その境遇を地獄だと感じるだろう。

 

4)「社会での制服」は、人間全てが着る。警察官や裁判官、医師や看護師などの職業では、文字通り制服を着る。制服は、その人の社会での振る舞いに大きく影響する。

現在西欧文化圏にある国々が世界の中心的プレイヤーであるのは、議論の文化を持つからである。西欧はギリシャの昔から、議論を通して優れた知恵を育てる方法を知っている。その代表的成果が科学である。現代科学は、西欧の自然哲学者(科学者)が議論し、それを長期にわたり継承し積み上げた結果である。

 

日本は幕末から明治初期に掛けて、西欧政治文化を輸入して大きな成功を収めた。しかし、その方法論の底にある哲学を継承せず、明治の元勲亡き後は、議論の無い闇の坂道を転げ落ちたと思う。

 

韓国への半導体製造のための原料禁輸措置を知り、その日本の国家的決断が、広い視野の中での議論の結果として出されたのだろうかと言う疑問が心に浮かんだ。

 

1)ある問題が生じたとする。中心的な人物がその解決法を提出したとしても、大抵は最善策からは程遠い。それを優れた知恵にまで高めるには、別の視野を持つ人が議論に参加し、最初の意見の部分的否定と新しい方法の提出があるべきである。その議論に参加する人が多いほど、幅広い視野から優れた知恵が育つ可能性が高い。

 

日本には残念ながら、そのような議論の文化がない。日本における至上の価値は静寂である。慎み深い人や“有徳の人”は、意見を述べて静寂を破ることを慎む。(”世間を騒がす”は、拙い行いの形容となっている。)その為、人物の評価は極めて困難であり、人事は主に出自、学歴、家柄などの肩書でなされる。そして、ある人の意見の重要性は、その内容よりもその固定化された肩書による。その結果の検証も議論がないので成されない。

 

したがって、有力者の発した言葉は重く、その分身の如く受け取られる。それは言霊文化の背景でもある。一つの意見に対する反論は、そのままその意見の主に対する人格攻撃に近くなる。そのため、ほとんどの人は言葉で何かを主張することや、人の意見を批判することを危険な行為だと考える。

 

 

日本が、20世紀の前半に国家が一度ほとんど滅んだのは、その議論を避ける文化の所為であると私は考えている。この場合、その議論の舞台は御前会議である。

 

2)日本は当時、重要な国策を天皇が臨席する御前会議で決定していた。そこで、天皇はほとんど自らの意見を出すことはなかった。御前会議で天皇に何らかの役割があるとすれば、議論(口論から闘争に発展する可能性が高いので)を抑制することにあったと私は理解している。そして、御前会議が終われば、原案に修正がほとんど成されずとも、重さを大きく増す。

 

「和を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ」が、御前会議における天皇の視線による指示であっただろう。決して、「万機公論に決すべし」では無かった筈である。それが外交の場面でどれだけ不利か、知的な人なら直ぐに分かるだろう。もし後者なら、天皇は自らも発言した筈である。発言しない有力者の出席は、他の出席者の議論には有害無益である。

 

今回の対韓国経済制裁は、G20の会合で議長国としての総理発言に矛盾するだろう。(補足3)自由貿易の重要性とか開かれた国際関係とかを強調しながら、数日後に自分の言葉を否定するような外交は、日本に対する信頼感を減じる可能性が高い。その経済制裁という手法は、トランプ流に似ている。日本は、世界一の経済大国、世界一の軍事大国、そして国際決済通貨を発行する世界のリーダー米国の大統領の真似はすべきでないと思う。

 

しかも、現在の米国大統領は明らかに多極化の世界を目指している。トランプは、日本に米国の核の傘も、安保条約も、対米輸出の利益も、これまで通りには許さない方向に日米関係を導くだろう。その近い将来を念頭に、今回のようなドラスティックな外交政策は疑問である。

 

今回の対韓国のフッ化水素などの禁輸措置の準備は、政府の一部で綿密に成されただろうが、所詮狭い視野の下での議論しか経ていないのではないかと危惧する。勿論、条約の意味も理解しない隣国による日本資産の差し押さえは暴挙である。しかし、それに対抗して、全世界のサプライチェーンを不安定化する類の経済制裁は、世界から非難を浴びるかもしれない。そして、自国の国際的信用を毀損するという大きな損害が伴う可能性が高いと思う。

 

3)このような唐突な決定は、過去にもあった。小泉内閣のときの強引な皇室典範改訂の動きもその一つである。あの議論ではなく権威付けのためだけの有識者会議を思い出せば、日本の病根を見るような気になる。元東大総長が座長を務めたが、彼は工学を専門とする日本文化に全く無知な人間であった。

 

最近、IWCから撤退して商業捕鯨が開始された。食の文化に干渉する諸外国の姿勢は、不合理である。そして、捕鯨禁止運動の活動家らは、恐らく豪州などの食肉関係者の支援で動いている可能性がある。しかし、そのプロパガンダは、今や世界世論のなかで相当な地位を得ている。正論を翳しても、多勢に無勢である。

 

それを無視しての、IWCからの脱退は、一人の広い視野で外交を考える能力を持たない地方出身の有力議員の仕業だろう。ほとんど日本人全体にとって価値のないローカルな利益のために、日本全体が大きな損をすることになる。

https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2018/12/blog-post_21.html

 

善悪を争い、感情にうったえるのではなく、利益を考えて戦略的に外交を行うべきだと、ある本に書いてある。一人の有力者の個人的感覚や利害が、それが如何に善悪と論理に叶っていても、損得を広範な議論で評価した後でなければ日本外交に採用してはならないと思う。

 

補足:

 

1)明治の革命のとき、五箇条の御誓文が明治天皇により出された。その第一条「万機公論に決すべし」は、この議論の文化を継承すべしという戒めである。残念ながら、それは元勲の死後空文化した。

2)議論の文化に乏しい民族の中では、歴史上の有徳の人も、その後の研究で評価がひっくり返ることが多い。徳川綱吉や水戸光圀などがその例である。

3)WTOに提訴された場合、安全保障の観点からの措置であるとWTOで説明するだろうが、その理屈が通るだろうか?

もちろん韓国の徴用工問題に関する姿勢は、日韓基本条約と付属する協定に違反する。しかも、徴用工が奴隷的な扱いを受けたと嘘を前面にだした非常に悪質なものであるから、日本側の「安全保障的観点からの措置である」と言う考えは支持する。しかし、その実施には反対である。多勢に無勢の現状では、正論は通らない。折角韓国の学者が、国連で「軍艦島での徴用工は厚遇されていた」と事実を話してくれたのだから、もっとその線でのプロパガンダを積極的に行うべきであった。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190701-00000587-san-pol

馬渕睦夫氏が林原チャンネルで女性宮家創設問題を議論している。女性宮家の創設を主張している人は、女性天皇を次に皇位として実現し、その次に女系天皇を誕生させ、最終的に天皇という日本に特別の文化を消そうと企んでいると指摘している。(表現は関節的だが)https://www.youtube.com/watch?v=2ZCOq7amniY&t=318s

 

私自身も、その大筋には同意するのだが、講演最初の方で馬渕さん(補足1)の「日本の文化とはひとえに天皇なんですね」という言葉に強く反応して、コメントを書いた。それに対する反論があり、その中の中心的なものに答える形で、今回一つの記事にした。

 

1)私が最初に書いたコメントは:

 

馬渕さんが危惧されているのは、日本政府に女性天皇、或いは、女系天皇を容認する動きがあるということだと思う。女性天皇又は女系天皇になれば、日本国民にとって大事な天皇の役割が果たせないのなら、その理由を明確に言ってほしい。 現在、日本は国民主権の立憲国家である。天皇の「本来の役割」が日本国家の基本に関係するのなら、上記議論の結果を憲法に反映すべきである。女系天皇がその地位にふさわしくないのなら、それを憲法に書くべきである。皇室典範のレベルではない問題なのだから、堂々と改憲論議として、話をしてもらいたい。陰謀と対決するのなら、真正面から行ってもらいたい。

 

このコメントに対する反論として、注目すべき意見があった。その内容は、以下の通りである。

 

「皇室典範のレベルではない問題」とおっしゃるが、「日本国憲法」と「皇室典範」は、今の時代は、言わば「並列」のもので日本国憲法の「下」に有るものでは有りません。「並列」なのも日本国憲法下の話で、「大日本帝国憲法」下では何物にも犯されない「孤高の典範」だったことを知らないようですね。考えてもごらんなさいよ。天皇の地位をどなたがお継ぎになるかという話に皇族以外が口を挟む不敬など存在しなかったのです。日本はこの時代を取り戻さなければなりません。

 

この方は、皇室典範は日本国憲法と並列であり、下に有るものではないと書いている。これは時代錯誤である。日本国憲法は昭和21年に制定され、その第二条に皇位継承については皇室典範に定めると書かれており、その後昭和22年に皇室典範が制定されている。大日本帝国憲法の時代には、確かに皇室典範は憲法から独立していた。それは、憲法よりも天皇が上位の存在だったからである。

 

しかし、現在の憲法の下では、「天皇の地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」(第一条)のだから、憲法第二条に引用の皇室典範は憲法の下位にある法令の一つにすぎない。この議論のスタート地点で、上記コメントを書かれた方は間違いを犯しておられる。現行憲法に不満があるのは理解できるが、そして、別の角度(憲法9条)から私も現行憲法には不満があるのだが、その解決は憲法の改正によるしか無い。それ以外には、暴力革命、テロ、或いはクーデターの類の議論を無視した方法しか無いので、それを考える方々とは文字通り議論しても仕方がない。

 

重ねて云うが、私は現行憲法を完全に支持しているのではない。しかし、同時に私は、現在の日本国家は日本国憲法を最高法規として持ち、日本の国家形態を変更するには、この憲法を改正するしかないと考えている。政治は連続的に変更すべきであり、革命やテロ、クーデターの類によるべきではないというのが、私の基本的考えである。ただ、このままでは日本国民大半の生命が危機に陥るという場合、クーデターによる政変が起こるだろう。しかし、それには多大の犠牲を伴うので、平時の国民の議論と努力が大切である。(補足2)

 

2)二番目に書いたのが、表題に書いた馬渕さんの日本文化論に関するものである。

 

馬渕さんの「日本の文化とはひとえに天皇なんですね」という決めつけには同意しかねる。日本の文化とは日本国民の生活様式全般に関する総称である。あくまで現在日本の主人公は日本国民であり、天皇ではない。勿論、日本国民の多くの精神的中心に天皇がおられるのかもしれない。それは現在でもそうなのかどうか、議論を要することであり、決めつけることではない。もし、馬渕さんの仰るようなら、日本国憲法は日本の文化と矛盾する。先にコメントしたように、改憲の話として天皇を論じてもらいたい。

 

これに対しても、1)に引用したコメント氏は、以下のようなコメントをくれた。長いので少し短縮して以下に示す。詳細は最初に引用のyoutubeでご覧ください。https://www.youtube.com/watch?v=2ZCOq7amniY&t=318s

 

日本国民の生活様式全般を古代から導いてきたのが歴代の天皇だ。天皇の命でいろんなことが行われてきたが、それが現代の日本文化に与えた影響は計り知れない。そして天皇は国民を「大御宝(オオミタカラ)」と呼んで保護した。これが日本の「国体」です。天皇を離れて日本文化を語る事は出来ません。「現在日本の主人公は日本国民であり、天皇ではない」というお話ですが、これはGHQに押し付けられた日本国憲法での話です。

 

「民主主義」が、有史以来最高の統治形態だと信じているのかも知れないが、これは西洋の考え方です。私達日本人は縄文からの天皇を中心とした国家形態(国体)を何千年と引き継いできました。それが出来たのは、簡単に言えば国民にとって「いごこちがいい」形だったのだと思います。この七十数年外国からの強い干渉を受けて必ずしも日本の本当の姿を国民が認識してない事が有るでしょうが、馬渕先生がおっしゃるように、本来は「日本文化はひとえに天皇なんです」。

 

この考えのエッセンスの大部分は理解できるが、同意できない部分もある。それは、「これが日本の国体です」という部分が、現在形であることである。現在日本の国体(国家形態)は、日本民族にふさわしいかどうかは別にして、日本国憲法に記述のある通りであり、天皇を日本の統治者とする明治以降昭和20年までの国家形態ではない。

 

この方の様に、現在の日本の政体を仮の姿と見ている人が多い。それは、日本の一部は未だ戦時から脱却していないことを意味している。それが、諸外国により「日本は未だに戦争の結果を受け入れていない」と言われる所以だろう。その責任が、戦後の吉田茂以来の自民党政権の嘘と建前で塗りつぶした政治になくて、何なのか。(これは言ってみてもしょうが無いのかも知れないが、その根本に議論のない日本文化、言語がまともに使えない日本語の言語空間という、日本の病根がある。後ろで引用の補足2参照)

 

日本文化の継承というが、70年以上継承してきた果が、この体たらくではないのか。

 

本題の国家形態に話を戻す。コメントされた方の支持される古来の天皇を中心とした国家形態が、”現在の日本民族”にふさわしいとは、必ずしも思わない。国民主権の日本とどちらが、グローバリズムの将来に向けて日本国民にふさわしいかどうかについての国民全体の意見は、一票の格差全廃をすること、地方政治と中央政治を完全に分離することなどを実施しないとわからない。先ず、その政治改革が第一だと思う。

 

3)日本の政治形態の歴史と将来について少し:

 

明治から昭和初期までの国家の形態は、国家権力の在処がわかりにくく、それが昭和の敗戦と300万人という犠牲者を生む原因となった。https://www.hns.gr.jp/sacred_place/material/reference/03.pdf

 

つまり、明治憲法の第一条に「天皇が統治する」とあるものの、実際は天皇を輔弼する内閣に実権が有るように見える。しかしその一方で、権力の大元の軍隊は天皇直属であり、従って訳のわからない国家形態であった。(補足2)私は、権力の在処が明確な方が、政治形態として良いと思う。それは訳のわからない連中に乗っ取られないためである。上記コメントの主は、天皇制が良いとお考えのようだが、権力の在処が曖昧なままで良いと考えておられるのだろうか?

 

更に遡って、江戸時代の日本では、最高権力を江戸幕府が持っていた。その上の権威として天皇が存在するものの、封建制という地方分権的な政治形態であり、日本国全体が暴走するような国家形態ではなかった。封建制はまっぴらだが、その地方分権には学ぶべきではないのか。300年以上の安定は、国家権力の在処が明確だったからだろう。

 

私も、現在日本の民主主義政治が最高の政治形態とは思わない。民主政治が衆愚政治に堕する可能性が大きいことは、多くの本にも書かれている。その点に関して考えたところを、既にブログ記事として投稿した。概略は補足(3)に書いた。詳細は、以下のブログ記事に書いた。

https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2016/07/populism-and-democracy.html

https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/01/ii_31.html

 

ネット社会を迎えた現在、民主政治の真価が問われている。大勢の人間が公開で議論ができるこのネット空間を有効に利用して、知恵の集積を可能にし、それが政治に反映するシステム作りが出来れば、「無知なる者にも一人一票の衆愚政治」から脱却できる可能性がある。権力の在処が国民であり、その叡智が支配する国家の建設が必ずしも不可能ではない。地方分権と形で、国家を一般民の近くに移動させる。国民の間の議論が可能なように、そして、その中の優れた知恵が抽出されるようなシステムを、ネット社会を利用して作り出すのである。

 

ここで、民主政治に大きな進展がなければ、我々に未来は無いだろうと思う。天皇の皇位継承は天皇家に任せて、そちらの議論の方にエネルギーを使ったらどうかと思う。

 

補足:

 

1)馬渕睦夫氏は、元外交官。元ウクライナ及びモルドバ大使。「国難の正体」は、米国支配の日本の難しい状況について書いている。孫崎亨著の「アメリカに潰された政治家たち」の2冊を読んだのが、理系人間の私が政治経済関連でブログ記事を書く切っ掛けになった。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/02/blog-post_73.html 参照

 

2)因みに、この文章で「私は」を何度も用いた。何故なら、日本には主格をわざと省いて、発言をボカしてしまう文化がある。それでは議論が可能な言論空間は得られない。個人の自立なき日本文化の原点の具体例が、この「主格の欠如」である。日本文化を議論ができる文化にしないと、日本の復活はありえないと思う。youtubeのコメント欄では「言い合い」も結構あるが、それらは喧嘩の類であり、議論には程遠い。

 

3)だいたい、何故「輔弼」などという難解語を、もっとも大事な記述に用いるのか? これが、言語が通じない日本文化の典型的症例である。尚、余談だがイランの現在の国家形態は、この昭和初期の日本のものににている。大統領の上に最高指導者があり、イランの軍隊である革命防衛隊は最高指導者直属である。

 

4)民主政治が人間の作る国家の政治形態として良いかどうかは、国民が高い知識を持つように不断の努力をし、且つ、平等で独立した有権者としての地位を保てるかどうかにかかっている。個々の有権者にその能力が望めないのなら、民主主義は理想の政治形態ではないことになる。