1月8日のブログ記事にchukaのブログさんからコメントをもらったので、それに対する此方の返信を文章にし、そのブログ記事の補強としたい。コメントの要点は、①伊藤貫さんの主張を意味不明と断じ、更に、外交と外交評論家を”知的レベル(年齢)”で分類することの愚を指摘していること、更に、②米国の外交評論家はバランス・オブ・パワーに依拠して他者を批判しているのを聞いたことがない、の2点である。

 

1)旧社会党系議員は政治的に5歳児か?

 

民主党伊藤貫さんが、年齢で日本の政治家を評価したのは、マッカーサーが連合軍司令長官を解任されたあと議会で証言し、日本の政治が12歳レベルだといったことのアナロジーであることを先ず指摘したい。http://www.jice.or.jp/tech/columns/detail/31

 

そして、その後、年齢での政治家などのラベル付けは、日本では普通の政治文化になったと思う。旧社会党系の政治家が、日本人の為に日本の外交体制のあるべき姿に言及していると仮定した場合、彼らの非武装中立の主張は、まさに5歳レベルである。何故なら、17—18世紀にヨーローパで主権国家体制が生み出され、その延長上に現在の日本の政治と外交があることを、彼らは無視しているからである。つまり、主権国家の中心には、国家としての権威が、そして、それを裏付ける軍事力が必須であることは常識である。

 

ただ、8日のブログで私が指摘したのは、かれらが他国の利益のために、日本国の外交を非武装中立に誘導している可能性である。例えば、日本社会党の元委員長の勝間田清一がKGBのスパイだったことなどを考えると、かれら社会党の人たちは、自由主義の日本を破滅に導くべく(成人した政治家として)活動していた可能性が高い。現在テレビで活躍している田嶋陽子氏も、全くのバカなのかも知れないが、日本にとっての敵対勢力の一員と考える方がより正確だろう。

 

その幼稚を装った“左翼”に注意すべきだという姿勢&視点が、伊藤貫氏に抜けていたのなら、それは批判されるべきだと思うが、そんな筈はないと思う。その視点が欠けているように見えるのは、気のあった仲間である西部邁氏との“おしゃべり”を基に作成した動画だからだろう。https://www.youtube.com/watch?v=w7pe3Ptw_H4(補足1)

 

次に、上記動画では、自民党主流派と彼らの政治を支持する親米保守の人たち、例えば政治評論家では岡崎久彦氏や田久保忠衛氏らを例にあげ、彼らを10歳児と評価した。彼らも、主権国家体制の必須要件を殆ど無視している点は、旧社会党系の人たちと同様である。ただそれは、戦争に疲弊した日本国民を先ず食べさせることに専心したであろう、戦後直後の政治姿勢としては、一つの現実的な選択だったと思う。

 

“マッカーサースケール”で成人の域に達した日本のために働く政治家なら、1952年のサンフランシスコ講和条約直後に、主権国家としての体制を形だけでもとる(つまり、憲法を改正した)筈である。それで自分の政治生命が絶たれるとしても、その時期を正しく把握し実行するのが、政治家という職業的専門家の必須の能力である。そして、それをしなかった吉田茂を、批判しない親米政治家や政治評論家は、そのスケールで10歳と評価されて当然である。

 

更に、伊藤貫さんが半分くらいは理解できるとした、戦前保守といういわゆる右翼の評論家の方々だが、現在で活躍されている桜井よしこさんらがその範疇にはいるのだが、その人たちは主権国家として必須の軍事力保持を主張している。

 

ただ、靖国神社から戦争責任者を排除する必要など無いとし、現職総理は参拝すべきだと主張するのは、あの日本の敗戦から何も学ばないことの反映であり、私には看過できない。彼らを“マッカーサースケール”(これも私の命名です)を用いて、15歳としたのは、当然ではないだろうか。

 

これら右翼的な人たちの中には、自分の私的利益と引き換えに、米国の意図を実現するために働いている人もいるだろう。その方たちは、上記の重要な歴史的ポイントを指摘されると怒り出すので分かるだろう。彼らを10歳や15歳というのは失礼かもしれないが、その代わり売国奴として評価されるべきだと思う。

 

国家という概念を、WGIP(占領政策のうちの思想改造及び文化破壊の企み)は日本人から奪った。2016年2月に「保育園落ちた、日本死ね」という言葉がネットに投稿され、それが民主党議員による国会質問となった。その時私はブログ記事で、そんな愚痴は放っておくのが筋で、それを真面目くさって取り上げる民主党議員は下劣だと、そして、その質問にオタオタする内閣の劣悪さを、情けないことだと指摘した。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2016/03/blog-post_14.html

 

日本はまだ主権国家となっていないのだから、そのような言葉が国民から軽々しく愚痴として出るのは、ある意味止むを得ない。日本政府がしっかりと主権国家としてのあり方を考えて、文部行政を行っていない証拠である。反省すべきは、保育所の不足だけではない。もっと重要なのは、日本国民における国家意識の欠如である。

 

 

2)米国政治評論家はバランス・オブ・パワーで外交を語っているか?

 

バランス・オブ・パワー外交というのは、要するにパワーポリティクスのことだと理解する。伊藤貫氏は、バランス・オブ・パワー外交と言い換えたのは、現実の安定した世界では、パワーのバランスが成立しているからだと思う。

 

あるバランス・オブ・パワーが破壊されて、次のバランス・オブ・パワーに移行する際の乱れた状態が世界大戦である。この考え方の展開において利用されるのが、地政学的見方や国家のライフサイクルを仮定した見方である。(北野幸伯著「クレムリンメソッド」)呼び方はいろいろ在るが、要するに現実主義的外交のことである。

 

日本の右翼系の人たち、上記戦前保守の人たちは、このようなパワーポリティクスの歴史を、「善悪」という色分けをして考えるという幼稚さを持っている。日本は悪くなかった。悪いのは、日本を戦争に誘ったルーズベルト(フランクリンの方)だというのである。「善悪とは何か」という基本すら理解していないのである。

 

米国が日本を敵国と想定したのは、オレンジ計画の立案された1920年代だろう。米国が日本を利用して満州権益を得ることに失敗したことと、大きく膨張しつつあった日本を危険視してのことだろう。米国は、ロシア、中国特に蒋介石政府、英国など西欧諸国、を味方に引き込んで、日本を戦争に誘い込んだのは事実である。しかし、そのような争いが数千年の人間の歴史であり、人間の生態そのものであることに、日本の右派の人たちは気が付かないのだろう。

 

軍事力均衡(バランス・オブ・パワー)を基に、国家の外交を論じるのは、唯一の現実的な外交論である。毛沢東が、中国を訪問した田中角栄に、「日本には、ソ連、米国、ヨーロッパ、中国という敵があると指摘した。」そして、その環境のままでは、日本国の繁栄はありえないので、「中国と組まないか?」と誘いの言葉を投げかけた。(青木直人著、「敵国になり得る国米国」)

 

日本の敗戦後、日本は吉田茂の米国追従路線により、当時の米国は日本の友好国だと考える人日本人が多かっただろう。天才かどうかは私には分からないが、田中角栄は数少ないまともな政治家のひとりだった。かれも毛沢東も、米国は日本の友好国のように装っているが、その時日本の敵国だったことを正確に見抜いていたのだ。(補足2)

 

米国の姿勢をそのように導いたのは、日本である。それより7−8年ほど前には、ベトナム戦争を始めた米国は、日本を米国の片腕として使おうと考えた時期があったと思う。それは、日本に核武装を進言した頃である。それを聞いた佐藤栄作首相は、世界の動向とそれに対する米国の考えを全く理解しなかったため、米国の戦略の中で日本に重要なポジションを与えないと決断したという。(片岡鉄哉著「核武装なき改憲は国を滅ぼす」)(補足3)

 

このように、自分の所属する陣営と、仮想敵対陣営の軍事力の比較で優位に立つことが大事だと考えるのが、バランス・オブ・パワーを考える外交である。米国は世界一の覇権国だが、その地位は、常に第2と第3の繋がりを妨害する戦略をとることで長期維持が可能となる。米国が中国に甘かったのは、ロシアと中国の接近を防止する意味があったのだと思う。キッシンジャーなどは、そのようなパワーポリティクスが中国の要人とは通じると考えたのだろう。

 

もしトランプが再選されたら、ロシアとの関係を改善する方向に動く筈である。中国は米国と敵対することになった以上、ロシアと友好関係を築き上げて、現状のパワーバランスを維持しようとする筈。中国に利権をたくさん持つ民主党系の人たちや、ロシア嫌いのユダヤ系の人たちは、ロシアとの関係改善に抵抗を感じるだろうが、結局はその方針に従うだろう。

 

この様な考え方は、ピーター・ナヴァロの「米中もし戦わば」(crouching tiger)」の第29章にかかれていると思う。その最後の部分に、以下のような文章がある。

 

この様な見地からすれば、ロシアにとってずっとましな長期戦略はアメリカ主導の「バランス連合」に加入することだろう。その方が、ロシアの技術と天然資源を、世界最大の産業基盤と兵力と人口に結びつける中露同盟よりも、ずっと世界の安定と平和的バランスに貢献するだろう。

 

また、エドワード・ルトワックの「戦争にチャンスを与えよ」の4番目の章のなかに、「対中包囲網」の作り方として、中国を中心とする勢力と米国を中心とする勢力のバランス・オブ・パワーを論じている。非常に印象的な言葉がこの本の最後の方にある。「敵は潜在的な友である。友は潜在的な敵である」(193ページ)である。この言葉は、独立国は其々の事情で動く、それによりパワーバランスも変化し、敵味方が入れ替わる可能性もあり得るということを意味するだろう。

 

何れにしても、主権国家が国際社会のプレイヤーである。その主権を持たないで、戦後75年間が過ぎた。その責任は、与党自民党にある。それは自民党を構成する政治家とそれを支援する政治評論家が、マッカーサースケールで10歳レベルであり続けた結果だろう。

 

 

補足:

 

1)対談では、その対面した人と話をしているという当たり前の事実を重視する必要がある。それは、論文などのように他の学会メンバーや一般に対する自分の発見や考え方を主張したものとは異なる。ただ、youtubeに乗せる段階で、編集などをして、一般に向けたものにする必要がある。評論を目的とした対談などでは、最初から、一般に向けたメッセージのやり取りで進める場合も多い。

 

2)1972年2月に訪中したニクソンやキッシンジャーが語った「日米安保条約は日本の軍事力復活を防止するため」という所謂「瓶の蓋論」、そして、周恩来とキッシンジャーの間の「日本には絶対に核武装させない」という密約は、当然毛沢東の頭の中にしっかりと仕舞われています。

 

3)佐藤栄作は、非核三原則とかいうパワーポリティクスの世界で、自国に手錠を掛けて悦に入っているアホである。日本国民を裏切ったなんて、夢にも思っていないだろう。沖縄返還は、米国の経費と責任で沖縄基地を運営することが負担になったから、施政権の一部を日本に返還しただけのことである。しかも米国は、「サンフランシスコ講和条約に書かれていないので、沖縄返還は無効です」と、あとで中国が言うことを知っていた筈である。

以下は三年半前の文章です。老化が進行している現在よりも、良い文章ですが、それほど閲覧がないので再録します。

https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2016/09/blog-post_24.html

 

1)科学技術という言葉は誤解を招きやすい。元々科学と技術は一体の関係にはない。科学は、自然や自分自身を含めてこの世界の成り立ちや本質を考える哲学の一部であり、従って、役に立つとか役に立たないとかという価値観には馴染まない。一方、技術は人間や社会に役立つ新しい物やシステムを作ることや、その効率を高めることを目指す。勿論、人間は自然の中に生きるのだから、科学的知識は技術開発の基礎になる。(補足1)

自然科学は、ギリシャ文明においては哲学の中に含まれており、自然哲学という呼び方がなされていた。(補足2)当時の哲学はあまり分化が進んでいなかった為、プラトンの弟子であるアリストテレスは、所謂哲学(存在、認識、倫理など)の他に広範な自然科学的考察を行っている。

知識が高度になるに従って哲学の分化が進み、各分野の専門家が生まれた。それら専門での発展とそれらの統合により、人類は高度な文化を築いてきた。そのプロセスの中で自然哲学は、自然科学と呼ばれるようになった。そして体系的な自然科学の知識を基礎に、技術開発を目指す専門家も分化のプロセスで生まれたのだろう。(補足3)ここで大事なことは、「専門的知識の恩恵を社会が受ける場合、その専門の社会に於ける位置づけを正しく行う能力をその社会のリーダーが持たなければならない」ということである。

2)科学が現在の姿まで高度に発展したのは、技術開発を念頭においたのではなく、哲学の一環として行われたからである。「真実と論理に絶対の価値を置く人の集まり」を作ることで、緻密に科学的成果を積み上げるシステムを、利益とか愛憎の渦巻く人間の世界の中に作った。この科学の遺伝子が混沌とした人間界に生まれたのは奇跡だと思う。もし、利益や人間関係が科学的議論の過程で入り込むようなことになれば、科学の萌芽は生まれなかっただろう。「学問の自由」という概念も、政治や経済などの現実の人間界の侵略を、聖域としての学問(科学などの哲学)を守るためにできたのだろう。

一方技術の基本的発明は、中国で始まった。火薬や紙などの発明である。しかし、中国で高度な技術の発展がなかったのは、科学がなかったからだと思う。それは、役に立つことを直接考える姿勢では、大きな技術開発の流れ(遺伝子)を作れなかったことの証明である。

科学と技術が分化し発展の軌道に乗ったのち、産業革命後の“近代科学技術文明”の発展プロセスにおいて、両者は蜜月関係とでも言えるほど近くなった。その結果、一般には科学技術として一括りに理解されてきた。科学者に向かって「あなたの専門はいったい何の役にたつのですか?」と聞く場面をテレビでよくみる。科学と技術の本質的違いが一般に理解されていないのは、マスコミや政治の分野の人たちが理解していないことが原因だろう。(補足4)

3)純粋に哲学として発展した科学だったが、科学技術と一括りにされて経済や政治という利益や権力の世界と密に接触し、自然哲学としての科学の遺伝子も働かなくなり、進むべき方向も歪められた。科学の進むべき方向は、政府の支出する予算や企業が出す寄付金により決められることになったのである。

そして、科学の発展は人類の知の拡大であるから、それを国家が援助するのは当然であり、できるだけの予算をつけるべきであると考えられてきた。また、新規技術の開発は国家経済に必須であるから、その援助も国家の方針としてなされてきた。そして、科学のことがよく分からない一般大衆を代表する政治家たちにより、技術開発の一貫として科学の支援が行われた。

哲学が古代ギリシャにおいて、貴族社会により支援されたことと対照的である。貴族には知を愛する(哲学:phil= 愛する、sophy=知)感覚があっても、一般大衆には何時の時代でも利を愛する気持ちしかない。科学と民主主義は相性が悪いのである。

つまり、科学と技術という本来人間が別の姿勢で向かうべ領域を、政治と経済が乗っ取り融合した結果、両分野は政治と経済の意図する方向に大きく発展したのだと思う。ノーベル賞はその流れに棹さすのではなく、加速する役割を果たしたと思う。(補足5)

資本主義経済の発達により、株式会社という名の法人(つまり資本)が自然人を支配するようになった。株式会社は資本の論理で動き、決して自動的に自然人の幸せを目指すものではない。それは昨今の急激なグローバリズムの”副作用”が示している。グローバリズムは本来巨大資本の意思で始まったことであり、国家の壁で囲まれた各国民のために始まったのではない。資本による科学の乗っ取りも同様である。昨今の“科学的”成果が将来人類にもたらすものが、発展なのか破壊なのか良くわからなくなったと思う。

例えば、遺伝子工学や一旦分化した細胞を初期化する技術の発展は、生と死の関係を変えつつある。あたかも、死の克服が人類の究極の課題かのような錯覚を人々に与えてしまったと思う。また、宇宙空間での現象の科学的解明とか、宇宙の謎の解明とかいう科学の名でなされる膨大な事業は、科学というより国家が進める軍事技術開発である。科学技術の発展と人間の未来について、もう一度真剣に考える時期である。

補足:

1)大学では、技術は工学部において、そして、科学は理学部において研究される。
2)理学博士の称号を持つものは、ph. D. (Doctor of Philosophy;つまり哲学博士)を名乗る場合がある。
3)古代ギリシャのアルキメデスは、科学者であると同時に技術者であった。アルキメデスの原理で有名である。
4)9月11日のそこまで言って委員会で、ゲストのロボート・ゲラー氏が、「先生の研究は何に役立つのですか」と聞かれて、説得力のある答えができなかった。「基礎科学なので」というところだけで十分なのだが、それでは納得してもらうのは困難であった。その場面では“特別に”ギクシャクした会話が交わされていた。質問の主は素人であったが、その他の出演者は政治評論家など一応の知識人レベルにあると見做される人たちであったが、このやり取りに口を挟める者はいなかった。
5)イグノーベル賞というのがある。昨日のNHKでその候補として紹介されていたのが、総合大学院大学の助教の「カラスに方言があるか」という研究である。予算が集められずに苦労している研究者の姿は、この興味ある科学的課題が政治や経済の意思から遠いことを示している。ノーベル賞のパロディーといわれるが、本来の科学的興味に近いのはイグノーベル賞の方かもしれない。ノーベル賞の受賞基準である「人類の役に立つ研究」は、決して自然哲学の視点ではない。

伊藤貫と西部邁の討論を軸にしたある動画で、国際政治に対するまともな感覚を持たない日本の幼稚な政治家及び政治評論家を批判している。そして、世界の政治はバランス・オブ・パワーで動いており、そのような思考を持つ政治家が必要だということを主張している。今回、その動画の内容を元にして日本国の現状と将来を議論してみる。https://www.youtube.com/watch?v=w7pe3Ptw_H4

 

1)日本外交の貧困:

 

動画では、日本の総じて愚かな政治家や政治評論家の分類がなされている。それらは、1.護憲左翼グループ、2.親米保守、3.戦前保守、である。それらに対して、動画配信主(おそらく伊藤貫氏)や欧米や中国の政治家が採っている立場を、4.古典的なバランス・オブ・パワー派としている。

 

護憲左翼グループとは、言うまでもなく、憲法前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」を信奉する(例えば旧日本社会党系の)人たちである。この人達を伊藤貫は、「5歳児」だと形容している。

 

親米保守とは、米国を父親のごとく慕う「10歳児」のように振る舞っていれば、日本は安泰であると信じる人達である。自民党右派のほぼ全員がその範疇にはいるだろう。正直者のトランプが、アメリカ・ファーストと言っても、各国が自国ファーストで外交すべきだと言っても、目が覚めないレベルの知性しかない。

 

戦前保守とは、この動画の配信主が適当に名付けたグループで、戦前の日本を擁護する立場の人たちである。この立場の人達の根本的な知的欠陥は、日本が戦争に負けたことを軽視して、国際政治を善悪論で論じていることである。ここでは「15歳児グループ」と呼ぶことにする。(補足1)

 

動画配信の主は、自分の思考法はこれら幼稚な思考法と異なり、世界の主流の思考様式の一つ「古典的なバランス・オブ・パワー派」であるとしている。これは、17−19世紀に国際政治の基盤となった体制を前提にして、各国のバランス・オブ・パワーを外交の方針とする考え方だという。(補足2)

 

日本が生き残るには、その思考法を採用し、主権国家としてふさわしい核武装を含めた自衛力を持つべきだといっている。その核武装に関する考え方は、米国の国際政治学者のケネス・ウォルツ(Kenneth Waltz)から採っている。(補足3)

 

以上は、一部を除いて、よくわかる議論である。そこから次の話、日本が主権を回復する具体的方法を論じてほしかった。その中で出てくると予想されるのは、抵抗勢力だろう。(補足4)

 

2)国際関係を考える二つの思考パターン

 

伊藤氏は、国際関係を考える二つの思考パターンを紹介している。その内の一つは、国際関係を国際法と国際組織で社会化するという、素朴な理想論的思考パターンである。国際連盟の創設を提唱したアメリカのウイルソン大統領に因んで、「ウイルソニアン・パラダイム」、或いは、リベラル派のパラダイムと呼んでいる。

 

もう一つの考え方は、国際法や国際組織という権威が、世界警察軍などに裏打ちされた権力を持たない現状から、主権国家である各国が、バランス・オブ・パワーを維持して国際関係を協力的に運営する必要があるという考え方である。これを「リアリスト・パラダイム」と呼んでいる。(補足5)

 

ここで注意が必要なのは、共和党政権下の米国も、対外的には理想論を強要し、「民主主義、人権重視、法治主義、国際協調」が全てを解決するとして、民主革命の方向に多くの国に強要した。この場合は、権力行使の論理(道具)として、理想論的思考パターンを用いたのである。

 

また、国際政治の中では、現実主義を重視する本音を持ちながら、理想主義的建前論で交渉をする場面が多いのではないだろうか。ウイルソンが理想主義者かどうかさえ、全くわからない。ウイルソン的思考は、当時の時代背景から米国の利益を考えて打ち出された現実主義かもわからない。(補足6)

 

現在、軸足をどちらに置くかは別にして、これらは本来同時に持つべき思考モデルであり、何かを主張するための道具だろう。ウイルソン的思考パターンは、遠い未来の世界の理想像を考察するときや、外国(敵国や利用国)に提示するときに有用であり、リアリスト的思考は、現在の自国の足元を見る時に必須である。

 

日本の、「5歳児」、「10歳児」、「15歳児」と形容した政治家は、そのどちらにも属さない。単に幼稚な政治屋である。

 

伊藤氏は、「バランス・オブ・パワーを重視するリアリスト」の立場であるという。政治家ではないので、国際政治の分析の結果、バランス・オブ・パワーでそれが動いていると言う説を主張するという意味だろう。(8分あたり)

 

米国の著名な政治家(キッシンジャーやブレジンスキーなど)も同じ立場をとってきたと言うが、その場合は、戦争にならないように力のバランスに注視しながら、国益を追求する外交を行ってきたという意味だろう。ウィルソンの理想論など一顧だにしなかったのではなく、その際は用いなかっただけだろう。未来までを視野に置いた場合、リベラル的思考の無視は国益を害することになると思っていただろうと思う。

 

動画10分のところで、人類は、世界政府とか「世界警察軍」をつくる事が出来る体質を持たないと指摘している。しかし人類は、ウイルソン的理想論は持ち続けて、世界政府の実現に向けた努力を継続すべきだと思う。(ただし、それはグローバリズムという意味ではない。)それが、長期スパンで思考できる人の現実主義的対応だと思う。

 

以上から、

政治家や政治評論家には、単に優秀な人と無能な人に分類されると思う。思考パターンとして二つあるとしても、それによって政治家のラベル貼りをやることは無意味或いは間違いだろうと思う。時が来れば、突然に壮大な理想論を掲げる優秀な政治家が現れるかもしれない。その時に、現実主義と称して、一年前のバランス・オブ・パワーの図式に固執する政治家は、単に無能な政治家だということになる。

 

現在、現実主義政治家に見える人たちは、現実の荒波の中を自ら積極的に動く動力を持っていないというだけの可能性もあるので、注意が必要だろう。

 

追補:西部邁さんがチャネル桜の討論番組で、オルテガの名著「大衆の反逆」のなかの次の言葉を紹介した。「人が左翼であるのは、人が右翼であるのと同じように、人が馬鹿になる早道である。」 https://www.youtube.com/watch?v=FHEalfD_4wcの冒頭 

 

 

3)日本の国際政治学と日本の未来予測:

 

動画では、日本の国際政治学のレベルが極めて低いことが、日本の国際政治が幼稚な原因の一つであると主張する。(11分半)日本の大学で教えられているのは、殆どがウイルソニアン的思考パターンである。その理由の一つとして、リアリストの考えは、真正面から憲法前文と吉田外交を否定することになるからであるとしている。

 

しかし、大学には学問の自由が在り、日本の政治とは無関係な筈である。従って上記吉田外交云々は、教授たちは全員政治家志望ではないので、その理由説明にはなっていない。大学の中での国際政治学のレベルが低いのは、単にコネ採用をする大学の人事に主原因があると思う。

 

動画では、高坂正堯、佐藤誠三郎、衛藤瀋吉などの学者を、バランス・オブ・パワー外交を論じなかったとして批判している。ただ、バランス・オブ・パワー外交ができない政治家や官僚に諮問会議などの有識者として使われ有名になった学者は、そのような思考法を取らないのはある意味当然である。

 

この日本の保守(「10歳児」の考えを持つ)のあり方では、今後米国が東アジアから撤退したあと、米国に見捨てられた南ベトナムのようになるだろうと予言している。そして、最後の部分で、日本の言論人が「核の傘の欺瞞性」を追求することはないと指摘し、間接的に日本の核武装のみが日本の独立を維持できると主張して、終わっている。

 

4)日本の現状と未来へ向けて取るべき草の根運動:

 

以上の議論は、「主権国家ではない日本」について、その結論に念を押す作業を並べ立てているように思える。その命題は、その作業の前提にされているものの、そこからの克服がこの動画の中で主題になっていない。「画竜点睛を欠く」議論のように思える。最初のセクションで述べたように、如何にして主権国家を回復するかの技術論に入るべきであり、それが日本救済への道である。いきなり核武装に行くのは、”電気のショート”的な結果になるだろう。

 

主権のない日本国には、国際政治のフロントは、手の届かない部分の筈である。それにも拘らず、イランを訪問して、そのような真似をする安倍総理の頭脳を疑う。そして、強力な軍事力を持つ中国に、「黙れ」と言われれば、日本で行う国際的な議論など吹き飛んでしまう。

 

昨年訪日した中国の王毅外相の態度がデカかったという話があったが、それは日本側の政治家が卑屈な姿勢をとったからだろう。それは、日本が主権国家でないことが顕になって、自分達が政治家を首にならないように、国民をごまかす努力の結果の一つだろう。つまり、中国の王毅にこっぴどく叱られないように、低姿勢をつらぬいたのだろう。政治屋は本能的に、自分の地位を守る卑屈な方法を知っている。

 

つまり、独自に国際的政治を論じる環境には日本はない。国家主権の無い国の政治家が、絵に描いた国際政治を想像しての議論しても、保守やリベラルという単語がただ虚しく響くだけである。

 

それにマスコミ各社は、上記の王毅のデカイ態度など日本の現実をあまり報道しない。それは、地上波テレビ各社は、元々日本の崩壊と中国の属領化を待ち望んでいるのだから、当然だろう。https://www.youtube.com/watch?v=bfhD9CKxC3s&t=3040s 【38分のところで言及】(補足7)


以上から、既存の政治やマスコミなど現在の日本のレジームには期待できないだろう。

そこで、日本人がミクロな活動として為すべきことは、自分たちの命運は、自分たちが乗船している船(国際航路)である日本国と伴にあることを、周囲の国民全員に教えて自覚させることである。そして、その定着を待って、米国の植民地から主権国家へ戻ること、憲法改正と自国軍の保持を行うのである。国家の細胞(つまり個人)のレベルからの生命力回復が不可欠である。

 

外国の傀儡政権である日本政府を動かすのは、その努力はすべきだが、至難である。ネット空間などを利用して個人や私的な集団(知的民兵組織)が、或いは、地方行政が主役になって動くべきである。学校での課外活動、更に、町内会レベルでの勉強会などを通して、出来るところから、国家と国民の命運は一蓮托生の関係にあることをゲリラ的に教育すべきである。ちょっと過激な表現だが、そのように私は思う。

 

(1月9日、早朝編集;追補を置く、同日午後6時)

 

補足:

 

1)第一次大戦後、日本の周辺にはソ連、中国(中華民国)、アメリカの3つが覇権国であったが、大日本帝国は、それらすべてを敵に廻して戦争をする愚を犯した。戦前保守と言われる人たちが戦中の日本を全肯定する論理は、「悪いのは周りの国であり、日本は悪くない」、そして、対米戦争の原因は、日本を戦争に追い込んだルーズベルト政権の陰謀だというのである。陰謀だったとしても、それに巻き込まれて、敗戦が確実な米国に戦争を挑んだ愚が、許される訳ではない。

 

2)その基礎にあるのが、ウエストファリア体制或いは主権国家体制のことだと理解する。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E4%BD%93%E5%88%B6

 

3)ウォルツは、論文“The Spread of Nuclear Weapons: More May Better,”では、核保有国が十数カ国になった方が世界はより安定するという主張を展開し、激しい議論となった。この議論をまとめたThe Spread of Nuclear Weapons: A Debateは、欧米では核問題を論ずる際の必読文献となっているという。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%84

 

4)上記1−3の分類に入る幼稚な政治家のグループに、それを装った外国の指示で動く人たちが大勢紛れ込んでいる筈である。氷山の一角として、日本共産党は1922年以降コミンテルン日本支部となったこと、社会党の党首が、KGBの司令で動いていたこと、などが疑われている。更に、それ以上の米国人脈が日本の与党にある筈。例えば、吉田茂の側近白洲次郎を、その種の重要人物にあげる人がいる。外交官のアメリカンスクールやチャイナスクールなども、外国からの影響の重要な窓口と考えられる。

 

5)パラダイムという単語は、主導的思考パターン或いは思考モデルという位の意味だろう。専門図式という解釈もウイキペディアには書かれている。例えば、地動説と天動説は二つのパラダイムである。単に地球が動いているだけでなく、宇宙の運動などに関する記述も地動説パラダイムにより為される。政治における現実主義と理想主義(ウイルソニアン的思考パターン)を、そのようなパラダイムという言葉を用いる是非はわからない。

 

6)「現実の国際政治では、理想主義は役立たない」という動画中の表題(8:53)は、私には、いまひとつ理解できない。遠くを諸外国と眺めるときには理想論も役立つだろう。日本国独自の生存と繁栄を考える場合には、現実主義の考え方は足元を見る意味で大事だろう。二つの考え方を巧みに使い分けてこそ、高度な政治が可能になると思う。

 

7)この動画の中で、馬渕元大使の40分以降の安倍擁護論は非常に苦しい。安倍総理は、トランプに見捨てられた自分を明らかにすれば、自分の政治生命が終わることを考え、安易に日中友好の中に日本の道を探すという致命的な間違いを犯している。それに異議を申し立てず、中国から金をもらった下地議員など自民党議員達は、売国奴的政治屋である。