1)閲覧数を水増ししてくれる優しいブログサイト

 

私のブログ・サイトは、非常に閲覧が少ない。自分の考えを纏めるために書いていると公言しているが、それでも閲覧が少ないとやる気が失せる。「人間は考える葦である」を、生きることの意味と考えているが、池の葦はほとんどすべて地下茎で繋がっている。やはりヒトは社会的動物であり、私もヒトの一員なのだろう。

 

姉妹サイトのグーグルブログの統計では、国別の閲覧件数も示される。嘗て、日露の平和条約締結が具体化しそうなときには、ロシアから大量の閲覧があった。その時は素直に、喜んでいた。今でも全体のブログ閲覧数の11%程をロシアが占め、米国の16%についで3番目の閲覧数である。

 

 

最近は中東、イラク、アラブ首長国連邦、そしてウクライナからの閲覧が多くある。今朝も5時から6時までの一時間に、イラクとウクライナからかなりの閲覧があったように示されている。これらの国々は、最近のイランと米国の衝突の現場となったので、その所為かもしれないと思ったりしているが、分からない。

 

外国の方とは言え、励みになり、ありがたく思う。ただその一方、グーグルのマシンの仕業ではないかと疑う気持ちもある。その疑いを持ち初めたのは、アメブロの責任である。実際にアメバブログがそのような閲覧数の水増しを行っているのである。 https://junichi-manga.com/ameba-uso-access/

 

このブログ・サイトでも経験した。閲覧数が3倍程度に増加したにも拘らず、閲覧数による順位が殆ど変わらなかったことがあったのである。情報を分配表示する業者が、イカサマをするのは、自殺行為に類する。そのような嘘を公にばらまく文化が日本にあるとしたら、軽蔑の対象となるだろう。

 

2)今朝のイラクとウクライナからの閲覧があったとする記事から一つ再録:

 

今朝の閲覧の一つに、2014年1月14日のNHKクローズアップ現代「あふれるポエム?!~不透明な社会を覆うやさしいコトバ」の感想文があった。それを再録する。グーグル検索では出ないだろう。

https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2014/01/blog-post_14.html

 

”ポエム”日本にあふれる優しいことばと厳しい現実:(再録)

 

 今日、NHKクローズアップ現代で放送された『あふれる“ポエム”不透明な社会を覆う優しいことば』という番組を視た。一日の労働時間が16時間になることも屢々ある厳しい職場で、客、上司、同僚の間での優しい言葉を、生きる力として毎日を送っている若者、厳しい財政情況にある地方自治体での“優しい言葉の条例”、など、今の日本に見られる不思議な情景が放送されていた。

 

論理的な言語空間で生きてきた一人として、大きな違和感を持った。そう言えば、安倍総理が「美しい国日本」という本を出版されたときにも、通読して同じ様な感覚を持った記憶がある。決して優しくない社会、美しくない日本、それとバランスをとるように用いられる優しい言葉と美しいが空しいことば。しかし、その優しい言葉、美しい言葉に論理で反論することはこの国では容易でない。


 そして、ある本を思い出した。イザヤベンザサン(山本七平)著の「日本教について」である。その中に、日本人の特殊な言語空間についての記述がある。それは、『人間』は“実体語”(現実の世界の言葉)と“空体語”(実体語とバランスをとる為の言葉)の支点の位置に存在するというものである。

 

日本人は嘘つきだという西欧社会の評価は、この特殊な言語空間の中に日本人が生きていて、しかも、世界の全ての人も同じであると信じていることによる。あの「京都の茶漬けでも召し上がって」も、おそらく空体語に類するものであり(注1)、それを発せられた情況から考えて、“実体語”と受け取らない芸当が即座に出来るのは日本教の信者、つまり、日本人だけである。

 

NHKで放送されたケースでは、「16時間労働は厳しい。相応の超過勤務手当を貰って当然である」とか、「優しい言葉は優しい行動をとりえる能力を前提とする」、などと言えば、場がしらけて「もやもやしたしかし幸せそうな空気」は瞬間的に霧と消えるのである。そして、そのような言葉を発した者は、理屈屋、偏屈者などと言われて、その集団から排除される。

 

また、空体語は厳しい情況になった時に大きくなり、同時に支点にある『人間』が現実を表す”実体語”から“空体語”の方向に移動してバランスをとる。つまり、上記情況は、将に厳しい日本の雇用環境を示しているのではと思う。


 この対話形式は、日常的な場面では日本人の間であれば誤解を生じないが、近代政治の様に西欧から輸入した舞台(注2)においては誤解を招くことが多い。つまり、日常の言語空間と同じ感覚で政治に参加した場合、合意された『あるべき人間』という支点の位置がひとによりまちまちであり、”空体語”と”実体語”との区別が出来なくなる場合が多くなるのである。

 

「非武装中立」「恒久平和」なども、歴史を冷徹に見れば非現実的でり、具体的に国家の理想形態ともなり得ない。しかし、他国により懲罰的に持ち込まれたにも拘らず、かなりの人に“空体語”(注3)としてではなく”実体語”として受け取られ、戦後70年経っても憲法の中に生き残ったのではないだろうか。
 

因に、日本教は日本語でのみ語られ、日本語と不可分である。

注釈:
 

1)言葉の意味は”茶漬け(本当はごちそう)を準備します”です。実際には”そろそろ帰るかどうか決めて下さい=>お帰りにならないのなら、ごちそうを準備しなければなりませんという意味です。そして、それほど歓待してもらう根拠がない場合、「そろそろお帰りになったら如何でしょう。」を意味します。従って、本当の意味は空体語からどの程度離れて、人間としての支点があるかにより変化すると思います。
 

2)政治は、正義、自由、権利、義務などの定義された言葉で、論理が展開されるべき空間である。
 

3)空体語は具体的な理想を語った言葉ではない。イマジナリー(虚)なことばというべきものである。
== 日本教について、理解が不十分(私も自覚しています。)である点など、具体的な批判を歓迎します。==
(2014/1/14/21:30; 1/15/12:00改訂)

今日偶然、トロッコ問題を考えることになった。(補足1)この問題は、マイケル・サンデル教授のハーバード白熱教室の第一回目に紹介されているので、参考にされたい。

https://www.youtube.com/watch?v=_qcaASOgHy8

 

 

1)トロッコ問題とサンデル教授の講義:

 

トロッコ問題とは、路面電車の前方に方向を変えるポイントがあり、その前方に5人が作業をしている。このまま進めば5人をはね殺すことになる。ポイントのところに居る自分は、ポイントを切り替えることができる。もう一方に路面電車を向かわせると、1人を犠牲にするが、5人の命を救える。そのような場合、ポイントを切り替えることが、道徳的に許されるだろうか?

図はウィキペディアから借用:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B3%E5%95%8F%E9%A1%8C

 

上記トロッコ問題の趣旨: 最大多数の最大幸福という観点からすれば、ポイントを切り替えることが正しいとなる。(功利主義的)しかし、ポイントを切り替えれば、自分の行為として別ルートの人を殺してしまうことになるので、道徳的に無条件的に許されないと考えられる(カントの定言命法の一例)。普通、この矛盾を超えられずに悩む。

 

この問題について、私は以下のように考える。人の生命を操作する問題を、道徳や倫理問題として設定することは不可能である。何故なら、「人(生物としての人)」は、道徳や倫理を道具として利用し、「人間(社会的人)」となるが、社会を離れた状況下にある人は、それらに支配される存在ではないからである。

 

つまり、神が人を社会的存在として創造したという思想(宗教)を受け入れれば別だが、現代では通常、道徳は社会をつくるための“道具”であり、倫理はその根拠を与えるための思想として理解される。従って、社会を形成する以前の存在、社会を剥ぎ取った“裸の状態の人”、には善悪など存在しないのである。(補足2)

 

西欧において、カントが定言命法(kategorischer Imperativ)なる概念を提出したのは、神が存在するという前提に気が付かなかったのか、そのような前提など不要だと考えたからだろう。(補足3)つまり、神がカントが考えたように“裸の状態の人”を作ったのなら、人の全ての行為は無条件に(社会の形成などとは無関係に)、神が定めた善悪の基準で評価される。

 

従って、上記トロッコ問題は、世界を支配する人格神が存在し、その神のみが出せる問題である。社会の中にどっぷり浸かっている人が、社会の境界から溢れるような場面の人、つまり、自分或いは他人の生死を自分が決める可能性のある状況に置かれている人に出せる問題ではない。(補足3&補足4)

 

ただ、その線路に横たわっている人物の何人かが、自分の親族なら、それは道徳や倫理と無関係に問うことは可能である。そして、その場合の判断は当然“法”も超える。法を超えた行為でも、法による処罰はある。それは、社会を守るためである。(補足5)

 

これと関連して、刑法の意味を書いておきたい。「人を殺したるものは、死刑又は3年以上の懲役に処す」という刑法の文章は、「人は人を殺してはならない」という神の領域の規則(道徳)ではない。つまり、“裸の状態の人”には人を殺す自由が存在するのである。(補足6)

 

勿論、それを実行した場合は、“社会を作る人”とその機関により逮捕され処刑される可能性がたかい。法律の理論では、「刑法に拘束されるのは裁判官であり、犯罪者ではない」ということになる。法は社会の規則であり、道徳は宗教つまり神の人に対する要請であり、社会と宗教は同一ではない。日本という単一文化の国では、この関係を知る(実践的知識として)のはマイノリティーだけだろう。

 

トロッコ問題に近いケースは、歴史上何回かあっただろう。そのひとつがミニョネット号事件である。つぎにそれについて簡単にレビューする。

 

英国の船ミニョネット号が、喜望峰からインドに向かう途中難破してしまった。4人が救命ボートの中で飢餓に苦しむが、そのうちに弱った1人を殺して飢えを凌ぐという極限情況を経験する。難破19日目にドイツ船に救助され、本国に戻され、殺人罪の被告となる。この救命ボードでの殺人事件(ミニョネット号事件)は、ウィキペディアに紹介されている。

 

裁判では緊急避難を適用した違法性の阻却(そきゃく:しりぞける事)が考えられたが、イギリス当局は起訴。最初の裁判の陪審員は違法性があるか否かを判断できないと評決したため、イギリス高等法院が緊急避難か否かを自ら判断することになった。(補足7)

 イギリス高等法院はこれを緊急避難と認めることは法律と道徳から完全に乖離していて肯定できないとし、謀殺罪として死刑が宣告された。しかし、世論は無罪が妥当との意見が多数であったため、ヴィクトリア女王から特赦され禁固6ヶ月に減刑された。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%83%A7%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 https://ddnavi.com/news/321617/a/

 

 

2)勉強をすると思考力をなくす? ミニョネット号事件を裁いた英国の裁判官

 

上記ミニョネット号事件とその判決及び女王による特赦のケースは、一般人の方が裁判官よりも賢かった(正しい感覚を持っていた)という実例である。この情況はイギリスだけではなく、日本でも同様だろう。つまり、猛勉強した人は思考力を失うのである。

 

最近書いたブログで、伊藤貫氏が西部邁氏との討論で言った言葉「私の同級生(東大経済学部)たちの殆は、18−9歳になったとき既に思考力を失っていたのです」を引用した。これは、当時東大経済学部に入学したひとの殆どは、他学部も同様だろうが、厳しい勉強の何年間を過ごして入試に合格したこと、そしてその勉強の効果として思考力を喪失していたことを示している。

 

もう15年ほど前になるが、研究所(産業技術総合研究所)の所属部門での飲み会のときに、「刑法の規定は、一般の人を縛るのではなく、裁判官を縛るのです」という話をしたら、向かいに座っていた10歳ほど年下の所属部門の長が、何度説明しても「私にはどうしても信じられない」と拒絶したことを、今では懐かしく思い出す。

 

社会学や人文学において大成するには、自然科学的知識は有用である。しかし、自然科学の勉強は社会や人間に対して目をむける時間を奪う。更に、もしその自然科学での努力が、上記猛勉強の類であれば、全ての知的分野で思考力を喪失する。それは、知的外堀となり、そこから這い出る事のできる人は少ない。

 

勉強やそのための読書が過度になり、時々の脳のリフレッシュを怠ると、思考力や人間としての正常の喪失する可能性がある。そのようになってはもはや、救いようがない。

 

類似の問題の議論として、以前に名大の「人を殺して見たかった」という女性(名大生)の殺人事件について書いたので、リファーしておく。

https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2017/02/blog-post_24.html

 

(19日早朝編集)

 

補足:

 

1)この問題を考える切掛になったのは、QUORAというサイトで偶然以下のようなページを発見したからである。「例えば誰か一人の命と引き換えに世界を救えるとして、あなたは誰かが名乗り出るのを待っているだけの男ですか?」

https://jp.quora.com/tatoeba-dareka-hitori-no-inochi-to-hikikae-ni-sekai-wo-sukue-ru-toshite-anata-ha-dareka-ga-nanori-deru-no-wo-tai-tte-iru-dake-no-otoko-desu-ka

これは都内のある大学の経済学部教授で松本貴典というハンドルネームの方による、トロッコ問題の変形である。その人は、鉄道技術に詳しいかたの「ポイントは通常中立に出来るので、そうすれば6人は助かる」という答えをツイッターか何かで見つけて称賛しているのだが、本文で述べたように、この方は問題を誤解しているのである。

 

2)浄土真宗の開祖と言われる親鸞のことば、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」は、社会の恩恵を受けなかった人たちが、自分の生命を維持するために緊急避難的に悪を為したとしても、それは罪ではない。ましてや、豊かに暮らしている役人たちに裁かれる理由などないと言う意味である。

尚、全ての生きる物に憐れみを持つべきであるというのが仏教の教えである。一方、キリスト教やユダヤ教の聖典では、異教徒を殺す行為は称賛される。人格神を持つ宗教は、種族の生き残りの戦争のために創られ、本来(古来)の神道や仏教とは異なる。アマテラスの伊勢神道は、元の神道を人格神的に変形したものである。

なお、社会から離れて人を殺す場面として、戦争での殺戮行為や正当防衛による殺人がある。(親鸞以外の記述は18日に追加)

 

3)仮言命法というのは「〜ならば」という仮定が入る命令である。つまり、定言命法というが、それは「人格神(ヤハウエ)が存在するならば」という前提を置いた、仮言命法である。日本人なら、カントよりも親鸞の思想の深さを再確認すべきである。

 

4)この問題と一定の関係にあるのが、以下の問題である。自分の車が、交通が頻繁ではない野原の交差点の赤信号で停止した。遠く見渡しても車がいない時、信号が青になるのを待つべきか? その時、小さいヤブの中に身を隠す警察官がいて、信号無視した自分を追いかけてきたとする。その時、あなたはどう考えるか? 

 

5)この場合、ポイントの切り替えは、明らかに法や道徳という社会的基準の外の行為であることが、感覚的に分かる。つまり親族は、社会形成以前の存在である。

 

6)同様な関係が、現代世界の主権国家体制である。国家間には、十分な権威のもとに社会は形成されていない。従って、ある国には他の国を滅ぼす自由が存在するのである。条約を破棄することも基本的に自由である。つまり、単に損得の問題である。トロッコ問題の迷路から出ることの出来ない人は、その主権国家体制の原則も分からないだろう。他国の善意にある程度期待ができるのは、その国の文化に社会的善意が濃く存在する場合のみである。

 

7)緊急避難とは、個人が社会から離れている状況にあることを意味する。何処に避難するのかと言われて答えられない人は多いだろう。前節における用語では、社会という衣を脱ぎ捨てた裸の状態への避難である。

 

 

カルロス・ゴーンが特別背任罪で逮捕されたのは、日産とルノーの合併の話を日本の経済産業省が阻止するためだという話は、以前から聞いていた。そのモデルを、及川幸久氏が動画Breaking Newsで一つの可能性として慎重に提示している。https://www.youtube.com/watch?v=CIxHszWdo4shttps://www.youtube.com/watch?v=FDPVwPUFV9s

 

それを私流に解釈し考察したのが以下の文章ある。以下の前半は、あくまでもクーデター説の紹介であり、ゴーン事件そのものの客観的な解説ではない。クーデターモデルを100%支持する訳ではないが、そのように考えると事件が解りやすいこともあり、また文章が作りやすいという事情もあって、そのようにした。読んでくださる方は、その前提で書かれていることに注意してください。

 

1)問題提起:

 

経済産業省の天下り役員が一枚絡んでいたとすると、このゴーン事件は当初考えたよりも遥かに重大な問題を孕んでいる可能性が高い。官僚たちがコーポレート・ガバナンスとか、何とか言いながら、天下りの対象を私企業にまで拡大し、見方によれば、それは日本の中国化だからである。つまり、大企業と政府の一体化が、官僚の企みとして進んでいるのだ。

 

最近、「安倍総理が変だ」という話をよく聞く。安倍晋三首相は昨年3月の参院予算委員会で、日中関係について「完全に正常な軌道へと戻った日中関係を新たな段階へと押し上げていく」と強調した。一昨年の10月の訪中以来、21世紀のナチスと呼ばれるほどの人権侵害を行う習近平支配下の中国に、安倍総理は完全に融和的な態度を採る方向に急変した。日本の経済界の中心である経団連は、それを高く評価した。https://www.keidanren.or.jp/speech/comment/2018/1026.html

 

この国家の方針転換の背景に、私企業への天下り官僚が存在するとしたら、それは国家の一大事である。ゴーン事件で働いたと思われる豊田正和社外取締役は、腐敗を始めた経済界と国家の境界周辺で大繁殖している鼠の尻尾なのかもしれない。 

 

2)ゴーン事件は日産幹部によるクーデターだとするモデル:

 

先ず、ゴーン事件は、日産のクーデターであると解釈するモデルを説明する。これは元社長の西川(さいかわ)氏や経産省から天下りした豊田正和社外取締役など日産の経営陣が、自分達の解雇を怖れて行なった工作であるとするモデルである。

 

その背景にあるのは、西川氏が社長に就任以来、日産の業績が急降下した事実である。下に過去5年間の日産とトヨタの株価を示した。これらを素直にみれば、それは明らかである。ニッサンの経常利益は、及川氏の動画で紹介されているが、西川氏が社長になって以来急激に減少している。

ルノーと日産のアライアンスだが、その基本的部分に株の持ち合いがある。日産はルノーの株の15%を持ち、ルノーは日産の株の43%を持っている。また、ルノーの筆頭株主はフランス政府(現在約20%の株を保持)なので、フランス政府の意向が強く働けば、ルノーのCEOだったカルロス・ゴーン氏が西川氏らの解任を決めるメカニズムは、その動機とともに準備されている。

 

西川氏らが自分たちの解雇を怖れたのには、もう一つの理由がある。それは、フランスのマクロン大統領が、国が保持する株の議決権を倍にできるフロランジュ法を適用して、フランス政府のルノーの経営権拡大を行ったことである。https://www.sankei.com/economy/news/181121/ecn1811210002-n1.html

 

ニッサンの業績不振には、当然会長役のゴーン氏にも責任の一端はある筈。従って、ゴーン支配下のルノーという条件だけなら、一定の反論も可能だ。しかし、そこにフランス政府の圧力が働いた場合、その背後の上記業績不振を考えれば、西川氏の首は風前の灯火のように見える。その他の日産経営陣も同様に、フランス政府の意向が強く働くルノーを怖れたと考えられる。ゴーンが居なくなれば、日産とルノーの連携経路が一時不通になり、マクロン政権の圧力も日本の日産には届かないと考えても不思議はない。

 

また、天下りの取締役を含めて経産省関係者は、ルノーにフランス政府が顔を出すのなら、ニッサンに日本の経産省が顔を出すのは、当然だろうと考えた。或いは、そのような考え方を政府・経済産業省に入れ知恵したのは、同省元審議官で2008年には内閣官房参与も務めた(多くのサイトで同じ記述がある)豊田正和氏だろう。

https://global.nissannews.com/ja-JP/releases/masakazu_toyoda_ja

 

ただ、ゴーン氏が失脚したとしても、ルノーの持ち株比率が変わるわけではない。マクロン政権の意向が、日産にまで強く働くことには、長時間スケールでみればかわらない。そんな中、日産が日本国に必須の企業であり、日本政府の介入・助力があれば、それに対抗することが可能になる。日仏間の外交問題に格上げし、日産に対する日本政府の権限を増加させるのである。具体的には、送り込んだ社外取締役を抱える銀行などと協力して日産を増資すること、場合によっては日本政府がその一部を受け持つところまで行けば、完璧である。

 

ただ、そのような法整備などを迅速に行う実力は日本政府にはない。そこで、西川氏も行なっていた有価証券報告書に、将来受け取ると約束した給与を記載しなかったことを、特別背任容疑とする方法だったのだろう。これが、今回のゴーン事件の日本政府(表面的には検察)も巻き込んだクーデターモデルである。

 

このモデルが正しい可能性が大きい。その理由は、ゴーン逮捕の容疑として特別背任が挙げられているが、それは西川氏も同罪であったことである。西川氏は辞任したが、逮捕されていないという事実が、その理由である。

 

裁判が行われたとした場合に、重要な論点が一つある。それは、未来に約束された給与を有価証券報告書に記載する義務があるかどうかという問題である。未来に約束された給与と類似したお金として、退職金がある。この退職金の経費としての計上は義務ではないと、及川氏は言っている。(ネット検索をして、退職給付引当金などの項目を見てください。)もしそうなら、今回のゴーン逮捕は、検察が何か他の悪事を探すために、証拠隠滅を防止する目的で行った可能性がたかい。

 

 

3)日本の中国化:

 

ゴーン事件を契機に私は、私企業への天下りの深刻な実態を知った。そして、現在、自民党長期政権の中で、日本政治の脚本を書く官僚たちは、自分たちの権益を拡大し、国内の私企業の経営にまで干渉する時代になってきたことを示している。背景の一つとして、①経済のグローバル化があるが、本質的な日本政府の特徴として、②天下りと大きな政府を企む官僚独裁という実態がある。これらを、及川氏は日本の中国化と呼んでいる。

 

最初のグローバル経済の影響を考える。先進国政府は、大企業を国内に保持し、そこから税金を収めさせる形をどのように維持するかという問題がある。アマゾンが日本で大きな商売をしながら、つい最近まで殆ど法人税を支払って来なかった。それが可能なのは、多国籍企業体は会計処理により利益をかなり自由に移動させることが出来る点にある。(補足1)

 

そのような多国籍且つ変幻自在の企業を監視するには、ある程度政府が介入せざるを得ないだろう。それがコーポレート・ガバナンス(企業統治)の一つであり、その一環として社外取締役制度を作り、会社の不正を外部の目により監視させる機能をもたせるのである。日本では2015年に上場企業では2名の社外取締役を置くことが実質義務化された。その結果、社外取締役が日本の官僚の天下り先となった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E5%A4%96%E5%8F%96%E7%B7%A0%E5%BD%B9

 

企業のグローバル展開が進み、その結果優良企業は巨大化した。その結果、国家にとって個別企業との関係が大事になってきた。逆に、グローバル企業も、会社経営に外交など国家の行政が大きく関わるようになった。それは見方によれば、私企業の公益性が増加したということになるのだろう。

 

例えば日本の豊田自動車の売上は30兆円ほどであり、日本のGDPの5%以上である。それら大企業の世界競争力を維持することは、政府にとっても国民にとっても重大事である。国家のトップは、その国の企業体の営業マンのように振る舞うニュースを見聞きするが、それはこのような背景があってのことである。

 

今回のゴーン氏の件、西川前日産社長は、自分もやっていた“有価証券報告書の虚偽記載”を用い、元経済産業省審議官の天下り社外取締役の豊田正和氏とゴーン追い出しを画策したようである。その必要性として彼らが日本政府に漏らしたと想像するのは、「ルノーに日産が吸収合併されるので、その防止が日本国にとって非常に大事である」というリークだろう。

 

そこに、自分たちの首が危ないという私的な動機とともにゴーンの本当の目論見が隠された可能性がある。日本国の為というよりも、自分たちの地位の確保が本当の理由だったと考えられる。それがゴーン氏の主張である。

 

ゴーン氏の主張によれば、彼が計画したのは、持株会社を作ってその支配下に日産もルノーも入るという形式への移行である。ゴーン氏は更に、フィアット・クライスラーグループと連携し、世界最大の自動車会社として成長させることを目論でいたという。

 

電気自動車のテスラ社やソニーなど新規参入の会社が成長して、従来の自動車産業界が斜陽化する厳しい時代にさしかかっている。この困難な時代をニッサンが生き残るためのゴーン戦略の邪魔を、西川と豊田の日産幹部がした可能性がたかくなる。

 

4)エピローグ:

 

一年以上も前から、日本政府の「日産を日本企業として確保するための活動」が始まっていたようである。カルロス・ゴーンが中心となって、ルノー、日産、三菱自動車を合併させれば、日産や三菱自動車は、ルノーの日本支社となる。そのように日本国民は教え込まれ、それに反対する右派の人たちは、ゴーン逮捕をむしろ評価していただろう。

 

日本は永く官僚独裁と考えられていた。内閣を構成する与党議員らは、単に俳優であり、しっかりと霞が関が脚本を書いているというのである。一時民主党が政府を担ったことがあったが、それは官僚独裁国家の危機であり、霞が関が脚本執筆をサボることで、簡単に排除された。この件で、野党議員にバカが揃っており、やっぱり自民党議員でないとダメだと思わせるのも、官僚たちの計画通りだろう。

 

日本政府と私企業との関係は中国と似た形になってきた。この中国化のプロセスの第一歩は、私企業の社外取締役というポストが官僚の天下り先になったことである。それを明確に示したのが、上記動画で紹介された日産の社外取締役となっていた豊田正明氏である。

 

あるサイトに天下り官僚の日常がかかれている。「何もしなくていい、というのが実情です。企業にしてみれば、所管官庁の元幹部が天下りしていることで官庁とのやり取りがスムーズになるし、それが一番のメリットなのです。」「更に、それよりも問題なのは、財団法人などに理事として天下った官僚です。いつ会っても『暇だ、暇だ』と言っています」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50932?page=2

 

補足:

 

1)法人税は本社の所在地で支払う。子会社を、商売をする国に作り、そこに生じた利益を、様々な手法、例えば(ライセンス料や技術指導料など)経費として計上することなどで、本社が吸い上げることが可能だろう。同様の手法で、法人税率の低いところに利益をある程度集中させることが出来る。