人類は、高度に発展した文明に適合する社会を作れるだろうか?(1)

ーーー 社会と言葉及び文化の同時進化モデル ーーー

 

人類は、その文明の石器文明、鉄器文明、機械文明、電子文明という発展に伴って、その社会を部族、民族、国家、国際社会と拡大且つ複雑化させてきた。人の文化とその表現のための知性や言葉の発展が、この文明の発展と平行して進んだとするモデルを考えてみる。そして、その文明の発展、社会構造の発展複雑化に、文化の発展が追随できなくなったところで、文明の崩壊が起こるのではないかと考えた。ここで、文明の発展を物質的豊かさ及び生活の利便性向上と定義し、文化の発展を、文明の発展により高度且つ複雑化した社会で生きる上での精神世界の複雑高度化と定義する。

 

先ず、社会と個人の接点にある二つの自分、本音と建前(それらの定義)、の議論から始め、今回は民族社会の発生と進化について書いてみる。この分野に属する啓蒙書で読んだのは、ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」くらいだが、ここで書くような議論は無かった。また、言語の発達と社会の発展とを関連付けたような議論は、岩波の科学の特別号「言語の起源(2004年7月号)」には無い。(批判など歓迎します。)

 

1)本音と建前について:

 

人は普通、本音と建前を持つ。本音は個人の私的な空間の中心に存在してその意思と直結した自分(の考え)であり、建前は社会に向けた“表向きの自分(の考え)”である。例えば、「マイノリティーの権利尊重」という考えは、建前として主張して(或いは受け入れて)いるが、それは本音と必ずしも一致しないだろう。しかし、自分もマイノリティーになる可能性があり、そうなった時(そうだと気づいたとき)、その建前の重要性に気付くだろう。

 

両者を比較した場合、建前の方が、普通、論理的整合性が維持されている。それは、建前が主に先人の賢者たちにより形成され、幼少期から受けた教育により植え付けられているからである。従って、建前は社会の構成員(の多く)により共有される。一方本音は、自分の個別の事情や欲望から離れない“リアルタイムの自分”なので、その正当性をその文化の中で主張することが困難な場合が多い。

 

人は自己の生物としての本来の行動に抑制を掛けて、社会を作って生きている。生物としての欲望には予定表はない。しかし、自分も受け入れている社会の要請或いはルールは、予定表に従って行動するように規制する。後者を肯定する建前と、リアルタイムの自分に支配された本音との間に、乖離があるのは当然である。

 

その社会の要請とは、社会を構成する多くの人の本音を、秩序を保って達成するためのものである。多くの人がリアルタイムの本音の自分に支配されて行動すれば、社会は崩壊し、結局自分の基本的要求さえ永遠に満たされなくなるだろう。(補足1)

 

最近、「建前と本音の二重らせん」という表題の原稿を再録し、建前は嘘の羅列ではなく「社会の基礎としての地位」であることを再確認すべきだと書いた。勿論、本音は自分の個人としての権利の主張と不可分であり、社会の中でも自分が行動する上での動機やエネルギーの源泉である。建前と本音は生きている個人において「二つの自分」(補足2)として保持されるべきであり、融合して単眼的になってはならない。

https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/07/dna.html

 

今回は、社会の成長を進化論的に考えて、それと本音や建前の変遷について考察してみる。

 

2)民族社会の発生と成長

 

人間は社会を形成して豊かに生きている。人々は、その社会の文化と文明に学び、専門的な能力を身につける。自分が専門的に身に付けた能力を用いて多数の他者に恩恵を与え、それと引き換えに、異なる多くの分野において、他のメンバーの専門的能力から恩恵を受ける。

 

社会が、どれだけの専門分野に細分され、夫々がどれだけ深い知識と高いレベルの技術を要するかは、社会の発展の程度による。社会の発展過程と要求される文明と文化の関連について以下少し考えてみる。

 

太古の時代の小さい群れ(原始的社会)は、力の強いボスがリーダーとなる単純な大家族的構造を持つだろう。そこでは強い力を示すことで、その群れのリーダーに相応しいとメンバーから信頼される。それは類人猿の世界のリーダーシップのあり方だろう。言葉の無かった時代、人もこのような群れ或いは社会で生活していただろう。

 

農耕などにおける技術の発展や、鉄製の武器の出現などにより、人の集団は、部族から民族となって大きく且つ複雑化する。集団が大きくなることは、二つの面から部族の生存に有利である。その一つは、多くの活動を分業することで、それぞれの専門のレベルが高くなることである。もう一つは、大きな武力を持てることである。(補足3)

 

部族・民族間には野生の戦いの原理が働き、たとえ部族内のメンバー間に殆ど付き合いの無い関係にあっても、相互扶助の原理が働く。つまり、自分の民族に属する人なのか、対立する民族の人なのかで、対応が全く異なるべきである。構成員が自分の民族の為に行動する際には、リーダーが作った民族のルールに従わなければならない。その結果、人は内なる私の空間と、外の社会的空間(公的空間)の両方を持つことになる。私的空間では本音に戻れても、外では公のルール(建前)を大事にしなければならない。

 

この段階では、部族或いは民族のリーダーは、他の部族や民族との競争を勝ち抜いて生きる方法を、戦略として言葉で示し、部族全体でそれを実行する必要がある。言葉の発生と進化は、この小さな部族から大きな民族への成長・生き残りと同時進行的に生じたと私は考える。それは、①言葉の支配者が、部族や民族のリーダーであることを意味する。このような考え方を示したのが、昨年6月中頃の記事「言葉の進化論」である

https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/06/blog-post_18.html

 

言葉に魂を感じるのは、或いは言霊が存在するのは、上記モデル①の証拠の一つである。現在の言語学は、言葉の進化に関しては五里霧中状態である。言葉は、定義を緩くすれば動物も持っている。問題は、言語の進化である。言語は、社会のリーダーが主導権を持って改良し、社会の高度化(組織化)の要請により進化したという本稿での考え方は、何処にも無いだろう。

 

3)社会による神の創造:

 

聖書の記述にあるように、神がこの世の創造を言葉に従って行ったのである。つまり、この社会との関係における自然界や人間界の全てを命名し、それらの相互のあるべき関係などについて、神が記述したのである。神とはその民族のリーダーのことである。多くの神話などでは、世界は混沌のなかから生じたという考えが多い。しかし、混沌から秩序は生じない。(補足4)

 

その部族或いは民族のメンバー間の関係や生き残り戦略などは、言語で体系化されて文化の一部となる。その文化の重要なコアの部分を言語で表現したのが道徳と倫理であり、それらは後世になって宗教と呼ばれる。従って、宗教と言葉は不可分である。(この不可分の関係が壊れ、宗教が言葉から分離したとき、宗教は堕落を始めるだろう。)

 

宗教は、上位下達の社会秩序形成の方法である。優れた文化を築き上げた民族は、分かりやすい論理的な言語と体系的で優れた宗教を作り上げた筈である。優れた宗教とは、その宗教を信じる人々の集団を大きく成長させる宗教である。

 

以上の理解は、言葉が神から授けられたと考える聖書の世界観と整合性がある。つまり、聖書の記述は、その宗教と言葉が本来一体として存在したことを示している。ただ、宗教的に統合された民族の社会から、複雑な組織とルールを持つ国家にまで社会が高度化したとき、旧来の宗教や聖典ではその運営ができなくなる。その矛盾の一定の解決は、宗教改革とかユダヤ教=>キリスト教のような宗教のバージョンアップによって為されただろう。

 

現代、国家の上に、もう一重の国際社会が出来つつ在る。所謂グローバル化は、人類がもう一重の国際社会を“重ね着”する代わりに、これまでの国家という社会を破壊して社会の拡大を図る。それはこれ迄の国家単位の文化も破壊するだろう。国際文化など、多くの人種の絶滅が無ければ出来ないだろう。世界の破壊が始まる筈である。それを期待する人たちの謀略だろう。この問題については次回考える予定である。

 

 

補足:

 

1)これは、犬と人間の関係も同様である。犬は「待った」という命令を聞いて、自分の食欲を抑制する。その秩序ある関係構築の結果、飼い主は犬との信頼関係を確認し、犬は日々の食料や自分の住処を獲保できる。犬は建前として、飼い主の「待った」を、本音よりも上位に置くことで、人と犬との“社会”を保存出来る。

 

2)建前としての自分は、外向きの自分であり、ニコラス・ハンフリーが書いた「内なる目」により創造される。この外向きの自分、つまり建前という衣を着た自分だからこそ、外つまり社会に出て活動できるのである。現在、二つの自分の融合はかなり進んでいる。それは本音重視が自然であるという主張が、マイノリティーの権利という樹一種の主張の一般形として現れた。同性結婚やLGBTが、まるでノーマルな人間のように社会に登場したのはその一例であり、それらは社会崩壊の兆しである。

 

3)日本で分業を大きく進めたリーダーとして織田信長が挙げられる。信長は、僧侶から武力を取り上げて宗教家に専念させ、農民を戦に徴兵せず農業専業とさせ、傭兵として武士を育てた。更に、楽市楽座など、社会の規制を緩和して経済発展を目指した。既得権益を持つ者に暗殺されたが、以後、その考えは豊臣秀吉や徳川家康に継承された。

 

4)世界の始まりを混沌と考える人が多い。そこに秩序が生じ、世界が出来と言うのである。https://www.kokugakuin.ac.jp/article/83479

しかし、それはあまりにもひどい簡略化である。言葉とそれによる世界の創造とは、人間社会の創造とその際に創られ成長した言葉(と文化)による世界の理解である。それには、民族を拡大し維持するという膨大な民のエネルギーと、それを指揮した天才的なリーダーの例えば数万年の努力が無ければならない。

この10日ほど、「人類は高度に発展した文明に適合する社会を作れるだろうか?」というテーマで考えています。その一環として、「社会の進化論と言葉及び文化の進化のモデル」について、2,3日中にこの欄にアップロードする予定をしています。この問題と関連が深い本に、ニコラス・ハンフリーという動物行動学者が書いた「内なる目」という本があります。過去に書いたその感想文を再録します。この内なる目は、人が「本音と建前」という”二つの自分”に分裂する原因であり、その「本音と建前」の分裂は厄介なことではなく、人が社会を作る基礎能力だからです(これについては2,3日中にアップします)。

 

以下再録部分:

 

1)人間は「自分」という意識を持つ動物である。その意識とは何なのか、何処で生じるのかなどについては、ほとんど永遠の謎である(補足1)。ニコラス・ハンフリーは、意識を“自分の心の中を観察する能力”と解釈し、それを“内なる目”と表現した。“内なる目”は出版された本のタイトルでもある(補足2)。つまり、自分の心の動きを見ることが、意識ということになる。

「意識を持つ動物にとっては、あらゆる知的動作には、それに関与する思考過程の“自覚”が伴い、あらゆる知覚にはそれに付随する感覚が、あらゆる情動には感情がともなうだろう」とハンフリーの本には書かれている(補足3)。自分という意識は、自分を外から眺め、且つ、自分の心の中をも見ることになる。内なる目は自分の全てを内部から見るため、ごまかすことは出来ない(フィルターは掛けられるが、それについては後述)。

2)人間は自殺する唯一の動物である。その根本的原因の一つは、人間は、自分とその心の動きまでも観察対象にする“内なる目”を持つことだと思う。
 人間の心には、自分とそれを取り巻く世界のイメージが投影される(補足4)。そこには重要なものは大きく、そうでないものは小さく、また、好ましいものから悍しいものまで、“色分け”されて投影されるだろう。つまり、人によって独特のフィルターがかかっているのである。通常、“内なる目”で観測された(追補参照)自分の像は中心に大きく存在する。その自分の像が耐えられないくらいに、醜悪且つ大きくなり、投影面からはみ出してしまう時、人は生き続けることが出来なくなるのだろうと思う。 

例えば犬や猫のような動物の場合、脳の中に投影した世界の図には自分は存在せず、自分は単に世界を覗く窓である。これが人間と、明確に自分という意識のないこれら動物との大きな差である。それは決して知能における差ではない。動物にも人並みの知能を持つものもいるかもしれない。因みに、コンピュータが記憶&計算能力では世界一の人間の頭脳よりも上であることを、最近の囲碁ソフトの世界チャンピオンに対する勝利が証明した。

この“内なる目”と自分の頭脳で再構成した自分と自分を取り巻く世界の投影図の中には、当然多くの人も存在する。“内なる目”は、他人の像とその動きを把握することが、社会生活をする人間にとって生存上有利であるため、進化の過程で生じたとハンフリーは考えたのである。つまり、”内なる目”は他人の心のシミュレーションのために生じたのである(補足5)。或いは、“内なる目”が生じた為にある種の猿が人間に進化した(補足6)とも言える。 

3)社会が成立する原理は個人が“利他”の精神を持つことであり、生物が生存する本能は“利己”の追求である。利他の精神を持ち、且つ、利己の本能と共存させることを可能にするのが、高度な知能と“内なる目”である。つまり、社会の構成員の全てが、内なる目で他人の考えと行動をシミュレーションすることにより、社会の中での利他を自分の利益、つまり“利己”、に転化するのである。  たとえば、自分が他を利する行動をとったとして、他の社会構成員が利己的にその恵みを受け取るだけなら、社会は壊れてしまう。従って、利他的行動は他人の考えと動きをシミュレーションしながら、行う必要がある。それが“内なる目”というシミュレーション装置が、高度な社会生活をする上で必須である理由である。

その複雑なシミュレーションを互いに繰り返して社会で生きる中で、発生した概念が“善”であり、それを元に多くのルールが積み重ねられ“人間文化”となったと思う。“善”の定義と行動の物差しとしての応用は、複雑なシミュレーションなしに社会を安定に維持できるので便利である。しかし、その一方で人間のシミュレーション能力を衰えさせる危険性がある。 

従って、“善”は人工的な概念(約束)であり、生命にとって本質的な“悪”(利己を追求すること)とは、本来真正面から対立する概念ではない。また、社会における善の体系を中心に置く政治姿勢を“理想主義”というが、それは従って“現実主義”とは真正面から対立する概念ではない。つまり、政治家にとっての原点は本来、現実主義であるべきである。 

4)“内なる目”は、醜悪なる他人だけでなく醜悪なる自分にも向けられることが多いかもしれない。醜悪な、つまり、利己的な行動は生命に本質的だからである。それを善良なる姿に変えるには、つまり社会を維持すべく紳士的(人工的(artificial))に生きる(補足7)には、エネルギーを要する。 

そのエネルギーを減少させるために、ある人はその“内なる目”に後天的な(学習の結果としての)フィルターをかけるだろう。また、ある人はそのフィルターを真っ黒にすることすらできるかもしれない(補足8)。地理的なある範囲での宗教や文化の存在は、その地域の人が独特のフィルターを”内なる目”に持つと言い換えられる。

また学校などは、教育とか暗示という言葉で形容されるフィルターを構成員に与える為の機関という面もある。例えば、軍隊における訓練などでは、”内なる目”には、極めて偏ったフィルターが掛けられるだろう。この“内なる目”という心理学的な考え方は、人間と社会を考える上で非常に便利な人間の意識のモデルである。

追補:(2016年5月15日の翌日の編集)


内なる目と意識では、意識の方が概念として広い領域を持つだろう。しかし、ここでは同一視して総合的に「内なる目」を用いる。二番目のセクションからは、ハンフリーの本を参考にして、独自の考えを書いた。

補足:

1)意識は魂の作用と考え、物質界の存在である人体と霊界の存在である魂を考える人も多い。もしそうなら、人間の意識を使って霊界が物質界に作用を及ぼすことが可能となる。現代その考えは否定されていると思う。ニーチェの言葉として、「ツアラトストラ」の第一部に「自分はどこまでも肉体であって、それ以外のなにものでもない。そして魂とは、肉体に属するあるものを言いあらわす言葉にすぎないのだ。」という文章がある。
2)内なる目、ニコラス・ハンフリー著、垂水雄二訳、紀伊国屋書店(1993); 原著はNicholas Humphrey著、“The Inner Eye”, 1986.
3)ここで、知覚と感覚を分けている。信号が脳におくられて、なんらかの感情を伴って感覚となり、思考のプロセスとともに、内なる目の対象となるのだろう。例えば、人間は何かが手に触ったという知覚を持つ。その信号は脳に送られて、手を引っ込めるとか、触ったものに攻撃を加えるとかの動作となる。しかし、刺激を受けて、それを知能で解析して行動するだけなら、その解析のプロセスを内なる目で見る必要はない。脳の視覚野に損傷を受けた人や猿は、“見たという感覚”なしに見て、その知覚情報を利用する。(pp68-72)
4)「内なる目により、心の面に自分をふくめ世界の像が投影される」という考えは、ハンフリーの本にはありません。本稿のオリジナルです。
5)チンパンジーやイルカの一種は、鏡に映る自分の像をみて、他の個体ではなく自分であると理解できる人間以外では例外的動物である。しかし、自分のこころの動きまで観察対象にはできないだろう。
6)“内なる目”は、進化論的心理学と呼ばれる分野の一つの成果である。
7)人工的とは紳士的と言い換えても良い。紳士(淑女)とは社会生活を営む人間が、生物としての本性を抑えて“内なる目”に美しく映る姿の人間である。社会とは本来無力な人間が地球上に君臨すべくつくられた人工的な構造である。そこでの人の振る舞いはアート的(artificial)でなくてはならない。ナイーブ(naïve)に振る舞えば、社会は破壊されるからである。
8)典型例を挙げる。https://www.youtube.com/watch?v=Gc9rsvBIh9U この動画は、内なる目に真っ黒なフィルターを掛けた、米国の知性の姿である。

1)池上彰スペシャルに出演の李英薫元ソウル大教授

 

昨夜(2月2日、午後8時)の「池上彰スペシャル:日曜THEリアル」という番組は、冷静に日韓関係をみてみましょう」“歴史のウソ”指摘の韓国人編集者を直撃というサブタイトルで放送され、その一部を見た。番組では、「反日種族主義」という本の著者で編者でもある、元ソウル大学教授で現在李承晩学堂校長の李英薫氏にインタビューを行っていた。

 

その本は、李教授ら元研究者達が韓国が、まともな国に脱皮するために命の危険を感じながら書いた。李教授は、その延長上の活動として、youtube動画「李承晩TV」で、韓国近代史について放送している。その紹介を昨年10月4日の記事に書いた。日本語字幕を付けてアップロードしたのは、チャンネル桜である。

第一回:https://www.youtube.com/watch?v=WCxIQCBdj34

第二回:https://www.youtube.com/watch?v=wkDmu22L-NU

 

民族の歴史は、事実の集積ではなく、民族にとって大事な事実を、つなぎ合わせた物語である。(補足1)その中に、多くの辻褄合わせ的な嘘を含むことが多い。しかし、嘘が主題になっては、その民族自身の将来を危うくするのである。李教授達の視点は、日本人の知識人たちにも要求される視点である。最近の二つのブログ記事にも書いたように、日本人も嘘で歴史を塗り替えてきたことに変わりはないからである。

 

国家崩壊の危機が、日本の場合は静かに、韓国の場合は急激に進行していると思う。韓国は反日を基礎にして国家を作ってしまったこと、一方の日本は、基礎のない“国家とは呼べないレベルの国家”を作ってしまったことが、それぞれの原因である。

 

李元ソウル大教授達は、事実から目を背けた歴史教育は、その国を滅ぼすという危機意識により「反日種族主義」なる本を、韓国人の為に書いたのである。昨日放送の番組では、その李教授に対して知的でない対応をしていた。日本の戦争責任についての発言を期待して、インタビュアーがマイクを向けたのである。そのとき、李元教授は毅然と「日本の戦争責任については、日本人が考えるべきである」と返答した。

 

2)嘘は国を滅ぼす

 

嘘の歴史は国を滅ぼす。つまり、嘘が国家の基礎となっていては、世界の歴史が大きな地殻変動的時代を迎えた時、その国は滅びる可能性が大きい。国が滅びるということは、民は国家の保護を受けられず、命の危険にさらされるということである。それは、先の戦争末期の満州や樺太南部、朝鮮北部などでの日本人入植者の辛苦でも証明されている。(補足2)

 

日本は1945年に完全に滅んだ。それは、明治の時代の歴史を嘘で塗り込めたからである。(補足3)ただ、民は戦後命の危険にさらされなかった。それは、米国という先進国に支配されたこと、更に、「国が滅んだ後の民の命の危険」を、既に米国に”前払い”していたからである。大都市空襲と二発の原爆投下である。

 

民の犠牲としては十分だと見た米国は、残りの民には融和政策を、国家機構は換骨奪胎を行い属国化した。そして、1952年のサンフランシスコ講和条約後、日本は独立を許された。しかし、日本は独自に属国から普通の国になれなかった。

 

このことは、明治の国造りが独自のものでなかったことを証明している。いわゆる明治維新が、司馬遼太郎の「坂の上の雲」にかかれたような、独自の国造りであったのなら、そのプロセスを記憶した日本民族の遺伝子が、普通の国造りの為に直ぐに働いた筈である。

 

日本国民に危機が迫っていることは、右派も左派も理解している。しかし、左派は右派の攻撃に終始し、右派は「先の戦争はルーズベルトが戦争したかったからである」というところで歴史を遡ることを止め、鬼の首をとったかのように自慢している。愚かである。(誰が対米戦争を始めさせたのか?:https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2017/08/blog-post_14.html

 

日本に嘘の歴史を植え付けたのは言うまでもなく、薩長の倒幕勢力である。その末裔が、いま尚政権の中枢にある。韓国には、歴史捏造を自省する李教授たちが現れた。しかし、日本には同程度にインパクトのある知識人はあらわれていない。

 

補足:

 

1)岡田英弘著「歴史とは何か」(文春新書)参照。故岡田英弘先生の歴史観は、奥さんの宮脇淳子氏により受け継がれている。偉大な岡田博士は、宮脇淳子の夫ということで知られていたというから、日本という国は救いがたい。https://togetter.com/li/1115877

 

2)ウズベキスタンにあるナヴォイ劇場が、日本人捕虜により作られたという放送を最近のテレビ(2月1日そこまで言って委員会)で見た。そこでは、日本人の名誉にかけて、立派に仕上げるのだという捕虜の中心人物の言葉や、地震で周囲の建造物が殆ど瓦礫になったときにも全く破壊されなかったことなどから、「流石に日本人の技術は素晴らしい」と賛美する方向で番組が進行していた。ネット記事でもその類の記事が多い。(例:http://everfree01.com/archives/2097https://www.youtube.com/watch?v=g9IuY4h0kdQ

しかし、日本人捕虜が参加したときには建物本体はほとんど出来ていて、主な仕事は大理石による床貼り、外壁工事、電気工事など「仕上げ」であり、基礎や本体工事を行ったわけでな無いとウィキペディアにかかれている。民族の辛苦を学ぶべき事例も、日本人賛美の材料になっている。最近のテレビ番組には、日本に技術を学びに来る外国人などを題材にしたものが多い。それらは、行き詰まった国に棲む民の見る幻影なのだろう。記憶の塗替えは、韓国の元慰安婦の人たちだけでなく、日本人の問題でもある。

 

3)これについては、2015年の記事に書いた。
https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12466514404.html

明治の倒幕劇の背後に英国があることについても若干触れた。
https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/08/blog-post.html