新型コロナの話ばかりで“うんざり”なのだが、仕方がない。今日言いたいのは、この病気が、世界に広がる政治の貧困を焙り出す役割を果たしていることに気づくべきだということである。災害でも疫病でも、しっかり考察すれば、福へのキッカケになりえる。「災い転じて福となす」である。

 

この病気に対する政治の色分けをすれば、非常にコントラストの強い地域となるのが東アジアだろう。中国、韓国、日本は、濃く汚い色であるという共通点はあるが、全く違った色の国々だろう。“汚い”とは、国民を平等に大切に扱わないという意味である。

 

日本の政府は明治以来一貫して、全体も細部も見えない愚老人が舵を取る国である。見えないし分からないのなら、若者に渡せば良いのに、不思議な自信を持って権力を握り続ける。戦前の近衛文麿や平沼騏一郎(補足1)の類である。平沼は、日米戦争になる前に、独ソ不可侵条約を見て、世界の政治を(何と!!)「複雑怪奇」と発言して、辞職したのである。          

 

今日言いたいのは、医者がコロナ肺炎だと疑い、且つ、本人も息苦しさや発熱に苦しみながら、PCR検査の希望を保健所に持ち込んでも、そのかなりの部分が断られ、結果として適切な治療を受けられないというのが日本の現状であること。(補足2)

 

日本の政府は、保健所にPCR検査の数を絞らせてことで、医療の崩壊を防いでいるというだろう。しかしそれは、「命の選択」という神にしか出来ないことなのである。非常時なら当然の策だと考え、その異常であるとの主張を黙らせる手段として「新型コロナ肺炎は従来の風邪と同じで、PCR検査でも従来型土着の風邪と区別できない」と主張するのが、昨日紹介した自民党の若手看板議員の一人、松田学氏である。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12589838716.html

 

日本政府のこの姿勢の本質は、国民の命の一部を切り捨てる政策である。その動機は、意地悪く読めば、経済優先そして年金の削減である。恐らく、厚生労働省や財務省の官僚が方針を決めているのだろう。そう思わなければ、一連の愚かなやり方の辻褄が合わないのである。

 

下図は年代別、結果別の感染者のグラフである。70代以上の年齢層に重症者や死亡者が多い。この図の30代以降の年令構成は、日本の人口構成に非常に近い。少ないPCR検査を、本当に病気に苦しむ人に割り当てて来たのなら、もっと60代以降の感染者数が大きく出る筈である。

 

https://toyokeizai.net/sp/visual/tko/covid19/

 

このCOVID-19の特徴は、ICUから生還する確率が高いことだろう。従って、費用がかかるが、ICUを増やして、人工呼吸器やエクモと呼ばれる人工肺を用いれば、生還する命が相当ある。

 

韓国での患者数が日本を追い越すまでに、ダイヤモンド・プリンセス号での対応の悪さが国際的に批判された頃には、急いで負圧装置付きの感染者用ベッドの数とICUの数の増加に、数千億円レベルの予算を組むべきだった。

 

ただ、それはまともな国のまともな政治を考えての話である。もし、日本政府がそれらへの投資を惜しみ、年金額を削減したいという考えなら、COVID-19という中国の土か文化かしらないが、それが作り出した病気は、この国の中央に位置する人間にとって理想的な病気である。

 

「PCR検査をまともにやっていない」という国際的な非難は、なんとか元気な若者を対象に受けさせれば良い。それがクラスターを潰すという名目で、発病した者の周囲に居た元気な者を対象に行うPCR検査である。(補足3)

 

日本政府のこのやり方を、日本政府のトップである安倍晋三氏は知らない可能性が高い。官僚どもが、あのボケた爺さんの「専門家会議」とかいう不可思議な会議を作って、非民主的政策を進めているのである。

 

安倍さんには、最後には「コロナ不可解」と言って辞任する手段が残されているので、心配は無用と考えているのだろう。

 

年金財政を悪化させる老人たちの命は不要な命である。しかし、その巻き添えを食って、結構若い人も命をなくすだろう。経済優先のこの国の中枢は、一昨年10月ころから親中姿勢を取り出した日本政府の影の支配者たちは、「10万や100万死んだって、どうってことはない」と、毛沢東の国で学んだセリフ(補足4)の日本版を心の中で呟いているのか? そして、彼らも別の観点から、「災い転じて福となす」という言葉を思い出しているかもしれない。日本の大衆はおだやかでやさしい、まるで家畜のようだ。

 

補足:

 

1)男爵で最高位勲章勲一等旭日桐花大綬章の受賞者である。その方の甥の息子さんが、改憲して天皇元首を明記すべきだという主張をする「新憲法制定議員同盟」(自主憲法制定国民会議は非議員からなる同じ主張の団体)元副会長の平沼赳夫氏である。元自民党から多くの泡沫政党を渡り歩いで、自民党に戻った、元運輸、通産、経産大臣の平沼赳夫氏である。この国は末期がんである。

 

2)新型コロナウイルス感染が明らかになったテレビ朝日・富川悠太アナウンサーがメインキャスターを務める「報道ステーション」の公式ツイッターには、視聴者らからの質問や批判が相次いだ。その一つが、以下に引用の記事の表題“「PCRをスムーズに受けられた経緯を説明しろ」報ステ公式ツイッターに質問殺到”である。

https://news.yahoo.co.jp/articles/1b83eb1e80571b72af6b17b5583fe574835bbd8f

 

3)これまで日本は、クラスターを潰すという方針を取ってきた。これは、致死率の高いが感染力の弱い病気ほど有用な方法である。クラスターを潰すやり方と、有名人や有力なコネで保健所に持ち込まれたPCR検査の希望者を中心にして、検査を実施するやり方は、非常に不公平であるほか、無限の人的資源があるのなら別だが、後者の陽性率(クラスター以外の陽性率)が非常に高くなった段階で止めるべきである。感染が全体に広がったあとも依然として、クラスターを潰すという方法を採用しているのは、やはり上記の意地悪な見方が、正しい見方なのだろう。ひょっとして、同じ悩みの中国に教えられたのではないだろうか?

 

4)毛沢東は、大躍進運動と文化大革命で、数千万人の中国の一般人たちを死に追いやったと言われている。その大秀才による愚かな政治は、ワイルド・スワンという小説に描かれている。毛沢東の数字は二桁大きい。大地の面積も人物の大きさも2桁違うのだろう。

1)ヨーロッパ主要国での終焉時期:

 

新型コロナ肺炎に蹂躙された感じの欧州各国であったが、その先が見えてきたような気がする。欧州では、国境がないに等しく、例えばドイツが克服しても、イタリアやフランスから感染者が徐々にでも流入すれば、なかなかその終焉が見えないだろう。

 

そこで、スペイン、フランス、イタリア、ドイツ、スイスの主要5カ国の合計で、コロナ肺炎の致死率の図示を、今までと同じ手法で行ってみた。ここで致死率と言うのは、以下のように定義した時間の函数であり、この病気の定数としての致死率ではない。結果を下に示す。

 

致死率(1)は死亡者数/(回復者数+死亡者数)であり青い点で、致死率(2)は死亡者数/感染確認者数であり赤い点で、それぞれ示されている。

致死率(1)と致死率(2)は、最終的に一致するので、このグラフ上で2つの曲線が一致する点を予想できれば、その横軸の値が感染終結のおよその時期と考える事ができる。この図では、5月中旬あたりが、終結時期として予想される。

 

従って、経済活動などの復活が議論され始める時期かと思う。中程度の被害で何とかおさまりそうなのは、厳しい都市封鎖、多数のPCR検査で探しだした陽性者の強制或いは自己隔離の結果だろう。

 

2)コロナ肺炎との各国の戦いの差について、

 

この肺炎ウイルスとの戦いでは、政府と一般国民の両方が団結して、努力しないと最小限の被害で抑え込むのは難しいだろう。その理想に近い戦いを行ったのは、この5カ国ではドイツとスイスのようである。それと比較して、イタリア、フランス、スペインは、かなり大きな被害を出した。

 

この点を少し考えるために、以前紹介したモデルでの致死率(1)&(2)の時間変化との比較を行ってみる。ここでは、患者の発生を単純に初等函数で置き換えている。従って、本当のところは、シミュレーションという程の計算ではない。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12587988007.html

モデル計算の詳細を書くと:感染して、二週間後に全て発病し、一週間後に10%の人が死亡する。生き残る人は、更にもう一週間後に検査を経て退院するというモデルである。患者の発生は誤差関数と仮定した。

    P=aEXP{-(x-b)^2/2c^2}

ここでbは感染者数が最大になる日、cは患者発生の偏差である。bとして、30(日)、cとして10(日)を用いた。EXPは指数函数を、^2は2乗を表す。

 

下にドイツとイタリアのグラフを示した。

ドイツのケースでは、致死率(1)と致死率(2)の変化は前図とよく似ている。ドイツでは、最初、死者が出るなどして病気の発生に驚き、急いで患者数の把握を開始する。その時、回復者は少ないので、非常に高い致死率(1)が出る。患者は直ぐに大勢見つかるので、致死率(2)は低い値になる。治療に実績が出始めると、元々の致死率(病気本来の定数)がそれ程高くないので、致死率(1)は急激に低下する。

 

フランスもイタリアと殆ど同じだが、もう少しガタガタした曲線になった。両国では、検出した発病者全員に西欧社会の最新の治療が施せなかったのではないだろうか。つまり、一部医療崩壊が起こっていたのではないだろうか。そのように考えざるを得ない。

 

隣同志なのにこのような大きな差がでるのか? 日本でも議論されているように、PCR検査で発病者を能率良く検出しても、病院の治療体制がしっかりしていなければ、逆に多数の死者を出してしまうのだろう。 

 

(16:05文章を全面的に修正しました。失礼しました。) 

ブログ内での検索にかからなくなったので、5年程前に投稿した原稿を再録する。社会を考える上での原点である。

 

1)次回の参議院選挙から18歳以上が選挙健を持つようになる。現在の教育を考えると何か恐ろしいことにならないか心配である。“日本の民主主義は12歳”というのは、マッカーサーが言ったことばである。そこから何年たっても、12歳のままではないのかと思う。国会議員でさえ、“平和が善、戦争は悪”というようなナイーブな意見しか持ち合わせていない人が多いことでもそれはわかる。
 
世の中には先人の“知恵”が残っていて、それが社会の知的な枠組の基礎として存在している。その“知恵”の権威も、聖典的なものから世間の常識的なものまで様々である。しかし、それらが作られたのは大昔のことであり、当時の社会と政治の状況はまったく現在とは異なる。
 
現在の社会は、主に経済発展や戦争などにより、大きく変化している。その変化は、それにふさわしい知的枠組や“知恵”を要求する。社会の変化が法律の整備を要求するのも一つの例である。また、論語にあるような知恵は、今日には相応しくないものが多いのである。
 
今日のヤフーニュースにはドイツの政治教育が紹介されている。そこでは常識を疑い、自分自身で考えをまとめる力をつける教育がなされているとある。http://news.yahoo.co.jp/feature/77


常識を疑うということは、自分自身でゼロから考えて答えを作り上げることである。その原点に戻ってから考えるプロセスは、独立した人格を作り上げることにつながり、それは民主主義の基本要件でもある。それがもっとも遅れているのが日本である。
 
「膨張するドイツの衝撃」(川口マーン恵美、西尾幹二著)には、西欧諸国のエリートの実力は、日本のそれをはるかにしのぐと書かれている。そして、その理由はゼロつまり原点に戻って考える力の養成を、教育に取り入れているからだという。
 
2)現在、テレビではクイズ番組が大流行りである。クイズ番組に出演することを主な仕事にしている、元漫才師、元女優、元漫画家などをほぼ毎日テレビでみることができる。このくだらなさに国民は気づくべきだが、それらが放送されていることは即ち気づいていない証拠である。
 
知識は、ある段階までこの“オーム返し”の能力とほとんど等しい。またそのレベルで、大学入試も行われる。数学や物理学でも基本的には暗記科目である。「傾向と対策」という入試用の出版物が利用されているのも、その証拠の一つである。


判断力、直感力、その他感覚は、現在の大学入試にはほとんど関係ない。しかし、研究(開発)であれ会社経営であれ、実社会での成果はこれらに大きく依存する。従って、新しい問題の解決をゼロから考える時、先人の考えが参考にならない時、問題解決能力と大学入試の成績とは、相関はあるだろうが直接的には無関係なのである。
 
一方、その記憶力において高い能力を持つ人たちが、秀才としてT大学などの有名大学に入学し、国家の上級公務員となっている。そして、そのような人たちの集まりである霞ヶ関が政治を実質的に動かしている現状では、国家の将来が危うい。西欧に追いつき追い越せの時代も、それらの点は同様であり、昭和の失敗もそのあたりに根本原因があるのではないだろうか。<br><br>
 
例えば、「テロリズム」ということをゼロから考えさせるのである。「人類の敵」だとか「卑怯な手段だ」という様な答えが、その発言の主やそれを報じたメディアを引用する形でしか出てこない様では、日本の学校では模範解答とされても、思考の幅が狭いとしか言いようがない。
 
もう一例を挙げると、「人を殺すことは悪いことか」という問題を、ゼロから考えさせるのも良いだろう。「あなたが殺される時のことを想像すれば、悪であることがわかるだろう」という答えを出させるのも、「人殺しは悪いことだ。悪いことは悪いのだと教えるべき」という誰かがマスコミで喋っていた教育よりも一歩進んでいるが、原点に戻ってゼロから考えた人の結論だとは言えない。
 
これら多くの基本問題をゼロから考えることは、善悪とは何か、言葉とは何か、社会とは何か、生命とは何か、などという哲学の問題にまでさかのぼることの重要性に気づかせることになるだろう。そして、問題について唯一解が出ず、AとBのどちらの道をとるかという決断の問題に帰結される場合が多いだろう。しかしそのような教育の成果は、そのAとBが明確になるということである。
 
3)具体的に政治的な問題を考える。歴史には「日本国は何を選択したのか」がわからないようなことがおおいと思う。先日SakuraSo TVにおいて、小堀圭一郎、西部進、馬渕睦夫、各氏らの出席で、「戦争を始めるということ-大東亜戦争論」という題の放送があった。https://www.youtube.com/watch?v=wNey3EQlUio
 
そこで、先の戦争の終わり方として、「ポツダム宣言受諾という形での終戦は正しかったか?本土決戦をすべきでなかったか?」という疑問が西部氏により提出された。西部氏は「仮にあと数100万人殺されたとしても、本土決戦すべきであった。そうしなかったために現在のような惨めな日本の姿があるのだ」と発言した。
 
このような議論においても、原点と思考の枠を明確にしてから始めるべきである。つまり、国家とは何か、国家の主人公は何か、戦争の目的は何か、などのもっとも大切な思考の枠が、この番組(議論)が始まったときから参加者全てが共有できていないように思う。また、西部氏は、話をするうちにその思考の枠が流動的になってしまったのではないかと思うのである。


つまり、国家の主人公はその時点の国民であるという前提があれば、西部氏のような論は成立しないのである。