先日、「日本人の国家意識欠如の歴史」と題した記事において、現在の日本国民に日本国を自分たちが統治するという意気込みが全くないこと、その理由として、戦後日本政府として明治以降の近代史の総括なしに、専制政治の憲法である大日本帝国憲法(明治憲法;1889/2/11公布)から民主主義の日本国憲法に改憲したことを指摘した。

https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12622220577.html

 

明治憲法は専制政治の憲法であるというのは、伊藤博文は王様が統治するプロイセン(今のドイツ)の憲法を手本に書いたのだから当然である。ドイツでは、1919年の革命によりワイマール憲法に替わった。(補足1)しかし、日本は革命によらず敗戦と米国の占領とにより、明治憲法の手続きに則り新憲法に改憲された。この天下り的に民主主義体制を得たことが、先に指摘したように、国家意識の薄弱な理由である。

 

先日の記事の中で、国民の政治意識が高まった時期として、吉野作造の民本主義などが喧伝された大正デモクラシーの大正時代(1912-1926)に言及した。吉野作造は、東京帝大法学部で政治史を講義していた。同時期、憲法論から民本主義を支えることになったのが、美濃部達吉であった。天皇機関説である。しかし、美濃部達吉は東京帝大で憲法学を講義する教授ではなく、行政法が担当であった。

 

東京帝大法学部で憲法学を講義したのは、美濃部が学生の頃は穂積八束であり、その後を継いで、天皇主権説を主張した上杉慎吉であった。この天皇機関説の美濃部達吉と天皇主権説の上杉慎吉の論争は、美濃部の”解釈改憲”の主張と上杉の言葉通りの憲法解釈の衝突である。この”天皇機関説論争”について、少し調べたので書く。

 

これらの情報は、原田武夫著「蘇る上杉慎吉」による(以下頁数はこの本のもの)。この原田氏の本を読んだ限りでは、美濃部と上杉の論争は、行政法担当の美濃部による“世間に媚びたような憲法解釈”と憲法学担当の上杉の“厳密な憲法解釈”の衝突である。それは、原田氏の本を読んだ限りでは学問的論争という風には見えない。

 

2)民本主義&天皇機関説と大日本帝国憲法

 

吉野作造は、憲法の天皇主権には抵触しない形で民主政治を主張したので、「民本主義」と呼ばれた。中央公論に1916年に発表された論文の題は、「憲政の本義を説いて、其有終の日を済す(なす)の途(みち)を論ず」である。つまり、大日本帝国憲法の本義は、最終的に民主政治の実現にあるというのだろう。

 

これは、国家体制(国体)は天皇主権であるが、統治権の運用形式である政体は一般人民の為に機能するとう考え方である。確かに、大日本帝国憲法には、居住の自由、裁判を受ける権利、信書の秘密保持の権利、信教の自由、結社の自由など、現在の憲法と変わらない記述がある。しかし、憲法において内閣総理大臣の地位に関する記述はない。単に国務大臣の一人に過ぎない(第55条)。陸海軍は天皇直属であり(第11条)、行政権は完全に天皇の下にある。立法権も第5条と第6条により、天皇に属する。この憲法から、民本主義を読み出すことは言語学的に不可能だろう。

 

実際、この民本主義を、東京帝大法学部で憲法を講義する上杉慎吉は、明確に否定している。上杉は、「大日本帝国の国体即ち国家としての形態は、君主国体であり、絶対的な命令権である統治権を唯一人の自然人が有している」と考えた。(47頁)自然人とは、普通の意味での天皇を意味する。

 

一方美濃部は、「天皇は最高機関として、内閣をはじめとする他の機関からの輔弼(ほひつ)を得ながら統治権を行使する」と説いた。(補足2)天皇が機関なら、そして自然人としての好みや恣意的判断が殆どないのなら、輔弼という形式で民主主義が実現できると考えたのだろう。それは、民本主義を歓迎する日本の空気を読んで出されたのだろう。したがって、憲法論争になる筈はない。

 

東京帝大法学部教授二人による論争だが、この言い争いが学術論争のように扱われたのは非常に不思議である。日本という国の言語環境の悪さが、其の根底にあるような気がする。そこで、上記原田氏の本から、天皇機関説が作られた経緯を書く。

 

美濃部の東京帝大教授への出世のキッカケとして、時の文部大臣の娘との結婚があったという。そして、広い人脈を得た美濃部は「権力に魅入られたプリンス」となった。(p86)しかし、美濃部は憲法学の講義をさせてもらえなかった。憲法学の講座は、美濃部の目には自分とは比較にならない地味な上杉慎吉が担当していたからである。

 

その美濃部は、学生たちが一年の時に上杉の講義で聞いた「天皇主権説」を、二年と三年のときに担当する行政法の講義の中で否定し、憲法学を講義させてもらえなかった苛立ちもあって、天皇機関説を熱の入った喋り方で講義した。(補足3)

 

その後の大正デモクラシーの嵐のなかで、美濃部の天皇機関説も力を得た。そして、1920年東京帝大に憲法第二講座が開設され、美濃部は担当教授となった。著者は、ここで美濃部が上杉に勝ったと書いている。また同時に、美濃部は最初から天皇機関説を完成していたのではなく、それは上杉との激しい”論争”の中で創られていったと記している。(P93)

 

3)私の考え

 

吉野作造の主張は、「主権者は一般民衆の利益を重んじことを方針とすべき」である。その空気が日本社会に醸成されたのは、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦の三度の戦争で、命を犠牲にしたのは一般大衆だからである。明治の自由民権運動もあったが、この大正デモクラシーの時期こそ、憲法改正の必要性を考える人は多かっただろう。しかし、民主主義の必要性を感じる人の数とそのエネルギーの成長よりも、天皇の権威が高まるスピードの方が早かっただろう。

 

大日本帝国憲法は、どう呼んでも天皇が君主であり、国民は臣民である。明治の改革が軌道に乗った早い時点で、天皇は国家元首であるという条文を置き、それとともに、内閣総理大臣を行政の長とし、軍隊を例えば防衛省の下に置くなどの憲法改正が行われるべきだったと思う。

 

天皇は、薩長土肥と京都の一部下級貴族が、倒幕と戊辰戦争で担ぎ上げた存在である。それ以前には、神道のトップとして存在し、現実の政治に関与する存在ではなかった。従って、天皇を国家の統治者に担ぎ上げた薩長の維新第一世代の人たちなら、立憲民主制にふさわしい憲法への改正は可能だったと思う。

 

その憲法改正の必要性を阻害したのが、美濃部の天皇機関説の主張である。上杉が天皇主権論を講義しており、それが大正デモクラシーの要求と衝突することで、生みの苦しみとして世情不安の時期が訪れるだろうが、憲法改正ができた可能性が多少ともあったかもしれない。

 

美濃部は「憲法に触らないで、民本主義をその中に読みとる」という結論を設定し、無理矢理に論理の組み立てを行った。そして、天皇や臣民の定義すら、その結論のために歪めようとしたのである。一方、上杉の天皇主権論は、自然に憲法を読んだだけであり、おそらく「美濃部は何を訳の分からないことを言っているのだ」というのが最初の正直な感想だっただろう。外部からは論争に見えただろうが、最初から議論がかみ合っていなかった筈である。

 

美濃部の言語学的にはほとんど誤魔化しのように聞こえる不思議な説は、上に述べたように、一種の解釈改憲である。解釈改憲は、言語の厳密性を毀損することになり、国民の政治全般に対する信用を失わせることになる。現在も似たような状況にある。自衛隊は、集団自衛権の行使も出来る軍隊になっているが、それでも憲法9条はそのままである。解釈改憲は、肝腎なところでボロが出る。明治の天皇機関説という解釈改憲は、1935年(昭和10年)天皇機関説事件で葬り去られた。

 

どのように読んでも、憲法9条は自衛隊という軍隊の保持を禁じている。その判決を避けた最高裁判所は、思考力や想像力の乏しいやる気のない秀才たちの城に見える。東大(昔の東京帝国大学)の憲法学の石川健治教授は憲法9条の改正に反対している。しかも、「ユートピアニズムが制度化された中での、より強靱なリアリズム。戦後の国際政治、安全保障がめざすべきはそれであって、安易な同盟政策のリアリズムではないように思う」と馬鹿なことを言っている。

https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2017/06/blog-post_21.html

 

日本という国では、政治と近い所に大学などを置くべきではないのだろう。しかも、そこが政界や官界で活動する人間の供給元になる場合、尚更である。効果的な日本改革の一つの方法は、東京大学の移転かもしれない。

 

補足:

 

1)その民主主義故に、ドイツはヒットラーの全体主義を生んだことにも注意が必要。この弱点克服には、日本人全てが国家の統治者であるという意識を持ち、常識的判断ができるように努力することである。(民主主義の欠点:https://www.youtube.com/watch?v=rGLCZKSxBz0&t=915s

 

2)この辺りの言語の使い方は、訳の分からない経を読む坊主の姿に似ている。大日本帝国憲法をどう読めば、そのような意味になるのだろう? 確かに大日本帝国憲法第二章(18−32条)には、臣民の権利と義務が書かれ、兵役の義務を記した第20条以外は、現在の憲法に似ている。しかし、第一条「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」と、第20条「臣民として兵役の義務を負う」とを合わせば、民主主義を完全否定している筈である。民主主義であれ民本主義であれ、憲法改正以外に実現の方法はない。

 

3)この部分は、土方成美「学会春秋記 マルクシズムとの抗争三十余年」中央経済社を引用して記述している。

イスラエルとアラブ首長国連邦の国交樹立は、今年の大きなニュースだった。その発表が、米国のホワイトハウスで行われたのは、仲介者が米国のトランプ大統領だったからである。この件により、米国トランプ大統領がノーベル平和賞にノミネートされる可能性が高い。その推薦者の第一号は、おそらくノルウェーの国会議員Christian Tybring-Gjedde氏だろう。以下の短いメモを、アップしておきたい。

 

このニュースはBBCに取り上げられた。表題は「Trump Nobel Peace Prize nomination - what you need to know」(トランプのノーベル平和賞への推薦:あなたが知るべきこと)である。

https://www.bbc.com/news/world-us-canada-54092960

 

ノルウェーの国会議員であるChristian Tybring-Gjedde氏は、米国FOXニュースに「トランプ大統領の功績は、他の殆どのノーベル平和賞の候補者よりも、民族間の平和構築に努力したことだと思う」と語ったという。

 

更に、トランプ(の政治)を強く支持する者ではないとしながら、彼は「ノーベル委員会は、彼の時々見せる仕草ではなく、彼の実際に行った事を見て判断すべきだ」と加えた。

 

通常の選考では、受賞年の2月1日までに受け取った推薦依頼を受理するそうだが、選考プロセスは50年間秘密にされるので、2月1日までの推薦にどれだけ意味があるかわからない。ただ、現実の政治への影響を考え、今年の受賞はないだろう。(私の予測)

 

実は、Christian Tybring-Gjedde氏によるトランプ大統領の推薦は、今回するとすれば2度目である。彼は、自国への移民受け入れに反対する政治家であり、その点で右翼と見なす人が多いようだ。しかし、ウィキペディアによると本人はリベラルだと語っている。https://en.wikipedia.org/wiki/Christian_Tybring-Gjedde

 

BBCの上記表題の「あなたが知るべきこと」とわざわざ表題に付け加えた言葉は、今年の通常のノミネーションが終わっていることや、米国の政治への干渉にならないように意識したのだろう。

 

追加だが、このアラブ首長国連邦とイスラエルの和平に関して、及川さんがyoutube 動画で興味ある解説をしている。この和平の理由として、産油国のアラブ首長国連邦がイスラエルが持つ石油パイプラインを利用したいからだろうというのである。そして、オマーンがイスラエルと同様の和平を発表するだろうと予測している。https://www.youtube.com/watch?v=jbnuloqEzO8

この文章を書くに至った動機について:

 

2016年2月に“とくダネ”で放送された介護ヘルパーによる現金窃盗事件についてのブログに何度かコメントを貰った。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12466514908.html (元々ヤフーブログ掲載、従って議論は消えてしまった。)それらのコメントでは、介護ヘルパーに対する厳しい意見を頂いたのだが、私の記事の趣旨については必ずしも理解いただいていないという印象を持った。そこで、ここで再度それらのコメントに答えるという意味で、記事を書く。(今回セクション1はかなり編集しました。)

 

以下本文:

 

この種の事件は、全国で数多く生じているものと考えられる。昨日貰ったコメントでも、「カメラがなければ年寄りの被害妄想と思われ信頼されない。認知症になったら身ぐるみ剥がされるリスクもありそうで、自分自身の将来も心配になった。逆に稼ぎたい人間は老人を食い物にも出来る時代かもしれないです。」という文章があった。

 

私も、既に老人と言われる年齢となり、近い将来介護を受ける可能性もあり他人事ではない。そこで、3年近く前(現在ではもう5年近く前)に書いたブログ記事の真意を説明したい。

 

社会において、故意或いは偶発的なルール違反が一定の割合で発生するのは、社会の本質的性質である。そこで、ルール違反をどの様に罰するのが良いのか?ルール違反を厳罰に処罰すればするほど、住みやすい社会となるだろうか?一定以上の処罰は社会をむしろ不安定にしないか?そもそも、刑法やその罰則は何の為に存在するのか?ルール違反を処罰する基準を考える場合、その様な疑問に先ず答えることが重要である。

 

1)社会の基本的構造:

社会と個人の問題を原点に戻って、そこから考える。我々は動物であり、動物はその生存と繁栄(繁殖)を利己的に追求することで、種の維持を実現してきた。(補足1)人はその利己的性質を一部返上して、他人同士で協力することにより、個人で利己的に生きるよりも良質の生活環境を実現し、種としての繁栄を獲得した。その協力システムが社会であり、その高度化(の物差し)を文明と呼び、その様式を文化と呼ぶ。

 

現在の社会では、その機能を無数とも言える役割(つまり仕事)に分業し、業務を高度化することで、高度な利便性と良質な環境を実現している。社会は、それら仕事に要求される知識や能力などを考慮して、給与などの待遇を設定し、適材適所に(個人の意思と社会の要求に従って)人を分配する。もし、犯罪がある一定の仕事に集中しているとすれば、その社会が設定する仕事の内容と、そこにつける個人の待遇などに問題がある可能性が高い。

 

犯罪多発を理由に、その分野に生きる個人を攻撃排除するのは、その個人の資質に本質的欠陥がある場合に限るべきである。その社会の暗黙の基本的メカニズムを理解し、運営しなければ、犯罪に会う人と犯罪を犯す人の両方を大量に生み出すことになるだけで、一向に社会の改善は実現しないことになる。そのような不幸な人を生み出すだけの社会は、政治の責任で改善しなければならない。

 

そこで常に問題になるのが、それぞれの分野における個人の貢献と評価に関する客観的及び主観的不平等である。主観的不平等により個人との間で摩擦を生じるのは本質的なことである。その摩擦が社会のある部分で蓄積拡大すれば、それは客観的不平等の存在を示し、社会にとって病的な症状ということになる。

 

別の表現をすれば、社会は常に個人の動物としての生存欲求を否定する方向の圧力を、法或いはルールで個人に加えることで、機能している。ある範囲で、それを容認することが、幼少時からの基礎的教育項目である。時として、その社会からの力(圧力)を容認できない場合、個人は自分の動物としての要求を、犯罪という形で通してしまう。それが上に述べた客観的不平等によるなら、犯罪は罰するとしても、社会もそのルールを変更しなければならない

  

そのような場面に遭遇しない人は幸せである。その幸せが、たまたま自分が高待遇で社会に受け入れられているだけかもしれないのである。その個と社会の摩擦を想像する力がなければ、社会を維持し発展する知恵など生まれない。繰り返しになるが、社会は常に個人との摩擦の発生により不安定性を持つ存在である。それが、社会と個人の基本的関係である。

 

2)想像力の欠如は自分で自分の首を締めることに繋がる:

経済的に豊かな人は、老人の介護などには就かないだろう。何故なら、あまりにも待遇が低く、仕事がきついからである。自分と家族の生活を維持するために、本意ではないがその仕事に就き、収入を得て生計を立てているのである。その立場に立つ想像力があれば、監視カメラを着けるのは当然の防御措置だとしても、数千円の窃盗事件で賠償の約束をして土下座する介護人を、警察に引き渡して当然だとは思わない筈である。

 

多くの犯罪を隠して存在するのが社会、特に日本型社会、である。それは、犯罪と処罰が不均衡であるという面を、そして敢えて犯罪者を生み出さなくても良いケースも多くあることを、昔の人は直感的に知っていたからである。人間には想像力があり、その程度のことは事を荒げる必要などないだろうという知恵も働いていたと思う。(補足2)

 

勿論、その一方で安易に私的に犯罪的行為をもみ消してしまうのは、社会の改善の機会を無くする危険性がある。現在でも、社会と個人の関わりにおいて本質的に境界線上を歩くことを要請された仕事も存在する。(補足3)その一つが訪問介護の仕事だろう。

 

前回記事を書いたときに、社会がイェローカードを示し損害賠償で済ませておけば、その人は社会により人生を破壊されないで済んだだろう。また社会もその他の仕事に移すだけで、その人を善良な市民として受け入れることが出来ただろうと感じたのである。

 

社会のルールは、個人の人生を破壊するために存在するのではない。むしろ、その逆である。多くの境界上(塀の上)を歩むことを要求されている個人を、社会が全て敵にまわせば、社会そのものも破壊されるだろう。レッドカードしか審判が持たないのでは、サッカーの試合が成立しないのと同様、社会も非常に住みにくいだろう。

 

3)二つの社会:

犯罪の原因を、個人の所為だけにするのも、社会の所為にするも両方とも問題である。それは、本当の犯人を逃してはいけないという意味である。日本のルールは、個人処罰のためだけにあるのではなく、社会構成員が互いに協力する体制を維持するためにある。つまり、ルール或いは法が、個人の行動規範としての役割だけを果たす様に、社会を構成する個人全てが努力をする必要がある。

 

日本文化の下、人々は善意を前提とする社会をつくり、それを維持する努力をしてきた。それは、道徳文化により事前に犯罪を防止する社会である。一方、世界の多くは、特に異文化が共存する社会では、悪意を前提とする社会であり、法により処罰することで犯罪を防止する。

 

前者、つまり日本の伝統的社会では、一旦犯罪者の烙印を押されると、それが軽微な犯罪によっても、その個人は社会で生きることが非常に困難になる。後者では、社会が正常な機能を保つために犯罪者という犠牲者を必要とするが、この場合は、しかしながら、犯罪者には更生のチャンスがより広く作られているのが普通である。

 

日本は、西欧型多文化共存型社会での社会と個人のあり方を徐々に採用しつつあるように思う。急激な変更には犠牲者が付き物となる。前回の投稿文では、そのような犠牲者の数を出来るだけ減らすべきだと言ったのである。

 

有効な手段として、一つ明白なのは、待遇改善である。給与面での改善は、必然的にその仕事に対する社会の目に変更を加える。その両方が、その仕事の待遇改善に役立ち、結果として犯罪率を減少させるだろう。更に、介護ロボットの導入が有効な手段である。しかし、決して外国人の受け入れではない。(補足4)異なった文化の下で育った人を大勢いれることは、社会と個人の軋轢が社会のあらゆるところに顕在化し、治安悪化に繋がるだろう。

 

GDPは増加するが、その多くは監視システム等の治安維持システム(セコムの株は上がるだろう)、訴訟に関する後ろ向き経費などとして計上されるだろう。そして、個人は一層貧しく不安な生活を強いられるだろう。入管法の改訂は、現在の政治家の殆どが無能だということを証明している。

 

補足:

1)それは、例えば戦場という極限状況に人を置けば、その本性が現れることを歴史で学ぶだろう。5年以上前になるが、次に引用の記事を読んで頂きたい。

https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/07/blog-post.html

2)昔は2-3世代が同居することが、日本の家庭の基本的形態だった。現在では、1-2世代の同居が基本である。その場合、60代以上の高齢者の知恵が次の世代に円滑に渡されない。所謂世間知らずが世間、つまり社会、を形成することになる。知恵は、社会の建前のみを表面的に教える学校教育では、伝達されない。

3)認知症になった老人と多額の現金が施錠なしの棚に置かれた部屋で、一人で介護する仕事は、恐ろしい仕事である。その他に非常にわかりやすい例は、ピンクトラップが仕掛けられた国の外交官の仕事なども、非常に恐ろしい。そのような“塀の上”を歩まなくても一定以上の報酬を得る人は幸せである。

4)外国人の受け入れは、この善意を伝統とした社会という日本の伝統文化を破壊するだろう。社会は、必然的に西欧型の契約社会と法による処罰で機能を維持する形に変えなくてはならない。