新型コロナは変異を繰り返し、猛威を奮っている。変異は英国発や南アフリカ発だけではない。日本の第三波も、英国等のものとは異なるが、変異株だと思う。それについては、十二月3日の記事に書いた。

 

 

今回の流行が大きい原因として、季節要因の他に国民が新型コロナに慣れてきたことがある。その一つとしてマスク信仰というべき現象を指摘したい。つまり、マスクをすることが絶対で、アクリルを用いたマスクの真似事でも効果が大きいと、“何かに付けていかがわしいテレビ局”の担当者達によるプロパガンダに惑わされてはいけない。(補足1)

 

マスクは感染した自分が他の人に迷惑をかけないようにするもので、自分の感染を防ぐものとしては効果はそれほど大きくはない。ましてや、アクリル板には両面からもほとんど効果はないだろう。(クシャミの場合には一定の効果はあるだろうが。)

 

多くの人のナイーブな感覚では、マスクをする理由は自分が感染しないことが目的だと思う。(補足2)その観点から考えると、上述のようにマスクの効果は限定的である。そして、「手頃な努力」としてマスクをすることがあり、それでかなりの感染防止に役立つと勘違いするとしたら、マスクは有害ですらあると思う。

 

つまり、新型コロナウイルスが蔓延するところに買いものなどに行く場合、もっと緻密な作戦で臨むべきである。それには、インフルエンザ等の予防法の原点に戻るべきである。

 

何が言いたいかというと、接触感染にもっと注意を払うべきで、そのためには何をするかは、129日のブログ記事に書いた米国のローリーギャレットさんが提唱する予防法に学ぶべきだということである。以下、私の意見も加えて紹介する。

 

この提案では、マスクはあまり効果がないと言っているが、それは感染しないための方法としてであり、感染させないための効果についてはしっかり書かれている。ギャレットさんは、マスクをする場合の有害性を重視している。結論として、①マスクに触らないこと、帰宅後には捨てることが重要だろう。

 

大事なポイントは、②外出時に手袋をすることである。手袋(水をはじく毛糸の手袋が良いだろう)により接触感染の多くは防げる。そして、帰宅後は直接手に触ることは最低限にして、その後手を洗うのである。

 

帰宅後には、③顔をよく洗い、喉のうがいはもちろんだが、鼻うがいもすると良いと思う。鼻うがいにはコップ一杯の水に2グラム程度の塩を溶かして用いる。要領はネットやテレビで時々見る要領である。真水は鼻粘膜を強く刺激するが、塩水ではその濃度が生理食塩水(0.9重量%)を多少超えても、強く刺激しない。

 

外では他人とマスク無しで話をしない。話をする場合も1m程度離れて小さめの声でする。④大声、声援、歓声、歌唱、その他呼吸を荒げることを大勢が居る場所や室内でしないこと。

 

その後、顔や手を拭いたタオルは、洗濯カゴに直ぐいれる。更に、⑤外出着は、玄関で脱ぎ、それ以上中に入れない

以上、自分も努力しているが、可能不可能を問わず、以上理想論として書いた。

 

尚、ここでは家族内感染については、あまり書かなかった。それは、気がついた時には家族内で感染が広がってしまっていることが多いからである。次節ギャレットさんの提案の⑤〜⑦や、一人が感染が疑われる場合には、個室内に自己隔離すべきなのは言うまでもない。

 

2)ここで、参考のため再度ギャレットさんの防御法を列挙する。

 

1)外出の時に、手を洗ったのちに手袋をする。電車、地下鉄、バスの中でも。

2)手袋をとる時、顔や目をさわらないこと。

3)手袋は複数持って、使った後には洗うこと。

4)マスクは外出後捨てなければ(再利用可能なタイプは直ぐに洗濯する)、役立たないというより有害ですらある。人混みを避けるべきだが、人から最低1m以上離れること。職場等でクシャミや咳をしている人がいれば、マスクをするように依頼する。

5)家の中では、全てのタオルをキレイなタオルに交換する。個人別にタオルを用いる。

6)ドアノブに注意。ドアノブに触る時には、手袋をするか、触った後に手を洗う。手摺、他人のパソコンや携帯に触ったら、直ぐに手をあらう。

7)食事の皿は個別にする。同じ皿から料理を取るときは、各自のはしや用具を用いない。

8)外で話をする場合は十分注意して大きな声を出さないこと、歌わないこと、声援や歓声をあげないこと、人が大勢いる環境下で運動などで呼吸を荒くしなこと。(この項目は私が追加)

 

追捕: 日本は150万の病床を持っているが、covid-19にはその2%しか割り当てられていない。ここを改善すれば、医療崩壊をさけるのは欧米などより遥かに簡単。(2020/1/7 am6:20 追加)

 

 

 

補足:

 

1)マスコミは公共の福祉に貢献するという義務がある。(放送法一条など)それにも関わらず、米国での政変の可能性について、全くと言っていいくらい報道しない。現在、世界は民主主義と共産主義の戦いの真っ只中にある。その影響をもっとも強くうけるのは日本であるにも関わらず、隣国等外国の影響が大きい日本のマスコミは、無視を決め込んでいる。

 

2)日本人のほとんどはマスクをしている。従って、もし自分が他人に感染させないためにマスクをしているのなら、日本人の全てが既に感染している可能性を自覚していることになる。

以下の文章は昨日投稿した文章の2/3です。昨日のトランプ大統領の今後に触れた部分がこのサイトのコードに引っかかるのか、閲覧記録が削除されていました。そこで、改めて最初の2つの節のみ、投稿します。(その後、閲覧記録は正常に戻りました。しかし、一旦投稿した以上、そのまま残します。21/01/02;再び閲覧記録がでなくなり、直ぐ下の記事は多分ブロックされていると思います。21/01/02/15:00)

 

日本でも米国でも、そして恐らく世界中で、人々は真実を失いかけている。それは同時に多くの不正で、この世界が満たされつつ在ることを意味する。そこで今回は「真実」とは何か、どこにあるのかについて書いてみようと思う。

 

1)真実とは、共同体で共有する命題(の集合)である(補足1)

 

先ず、「真実とは何だろうか」を考えてみる。デカルトは「我考える故に我あり」(補足2)が唯一の真実であるとした。換言すれば、「我」が自覚する真実は、「我」という意識が存在することのみだとデカルトは言ったのである。

 

しかし、「我」という言葉のなかに、対立概念「他」が存在するので、「我」が存在すれば「他」も存在することになる。これは矛盾である。更に、「“在る”の議論」は、ウィキペディアにもあるが、言葉の限界を感じさせる人間にとって不毛な行為である。近代合理主義哲学の祖であるデカルトの上の言葉は、合理的というより宗教的である。(補足3)

 

誰であれ、言葉で語る時点で、他の存在を意識している。一人で考えるときでも、言葉を用いる時は、必ずそれを聴く人物を想定している。もちろん、自分を二つに分けて、喋る自分と聴く自分を心に想定して言葉を用いる場合もある。その場合、デカルトが言う「我」は二つに分裂している。

 

このデカルトの思想に対する否定的な考え方の基礎に、言葉は共同体の共有物であるという思想がある。私は、言葉(言語)は、共同体と宗教を含めた三つを必須要素として発生し、一体となって進化したと考えている。(補足4)デカルトが言葉を用いた段階で、共同体としての真実を探していることになる。我一人、言葉を用いて考えるという想定で、既に矛盾を内包している。

 

何が言いたいかというと、「真実とは、共同体のメンバーで共有する命題(の集合)である」ということである。 完全に一人だけなら、命題を持ち出す必要はない。真も偽もない。「これが真である」とは、我々(共同体)はこれを真として選択すべき「良き命題」つまり自分たちと周囲の世界の理解に役立ち、共同体の永続と発展のためになるという意味である。

 

それは善も同様で、「善」とは我々(共同体)がその維持と発展のために選択すべき「良き行為」に付けられるラベル或いは「物差し」である。つまり、共同体から完全に落ちこぼれた人に善は無意味である。親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」は、この善の相対性を語った名言である。(補足5)

 

従って、共同体が異なれば、何が真で何が善であるかも異なっても別におどろくべきことではない。「Xが真である」や「Yが善である」を絶対的普遍的な命題群として把握している人が多い。補足3の繰り返しになるが、それらを絶対的な命題とするのは、宗教的であり科学的ではない。
 

2)真と偽の相対化

日本人には、人類全体としての共同体意識が残存する。笹川良一の「人類皆兄弟」という言葉が日本で一定の存在感があることからも分かる。その考え方は西欧にも存在した。国連などもその意識の具現化だろう。この人類が共同で豊かな社会を維持しようと考える根底には、人類が科学や技術を用いて、豊かな近代文明を多くの地域で共有している事実がある。

 

この人類が共通して享受している文明に関する部分(部分空間での共同体)には、それに対応する「真理の集合」が存在する。一方、国家と国家或いは集団と集団で対立する場合、その対立関係の基礎に、「真理の集合」が二つの集団で異なるということになる。
 

この考え方では、異なった集団の間でも「真理は一つだ」という考えは、宗教的であり科学的ではない。この情況を別表現すると、二つの集団の間で“ある争い”があったとすると、その争点を、真偽の判定が可能な一つの命題として、それら集団の二つの言葉で表現することは不可能だということである。

 

それは言葉が、歴史的に一つの共同体内で一つの宗教とともに出来上がったのであり、他の言葉への厳密な意味での翻訳は不可能だということでもある。

 

前々回の記事に書いたことだが、今年米国を中心舞台にして明らかになった世界の変化の根底には、人間関係が相手を思う関係(共同体の感覚)から、損得の関係に変化したことがある。そして、世界の人々は地理的にどれだけ狭く限定しても、共同体的感覚を失っている。(補足6)

 

更に、共通の利益を持つ人々の集合は、経済の“発展”のなかで米国内や世界で斑に分布し、建国以来存在してきた共同体の感覚が破壊されていると思う。それは、人間関係が「人間愛の関係」から「金銭愛の関係」への変質した結果である。共同体が失われた場合、真も善も共有できなくなる。現在の米国の混乱を見て、それを強く感じる。

 

(1月19日、プロフィルに追加するため編集)
 

補足:

 

1)命題 (proposition)とは、判断を言語で表したもので、真または偽という性質(真理値)をもつものである。この「もの」という言葉に何時も引っかかる。この“もの”は物でも者でもない。英語では、多分That is what I mentioned a few seconds ago. That is it. (又はThat’s it.) のような文章のwhat itを、日本語で「もの」というのだろう。別の表現では「命題とは、数学で、真偽の判断の対象となる文章または式である」。

 

2)デカルトのこの言葉(Cogito, ergo sum)は、英語では"I think, therefore I am"と翻訳される。この「think」を「思う」と翻訳するのは間違いだろう。https://en.wikipedia.org/wiki/Cogito,_ergo_sum

 

3)ほとんどの人が科学について誤解していることは、「科学は真実を明らかにする」という命題を「真」だとすることである。科学は真実を想定しない。科学の世界に在るのは、仮説のみである。科学の大きな成功つまり進歩は、真実を決定しなかったことによる。

 

4)この言語の発生と進化に関する理解は、「宗教と言語は、共同体社会とともに発生し、外敵からの防御のために“善悪”の創造とそれによる地域共同体の団結を可能とした」と表現することができる。このモデルを前回記事で引用したが、元は昨年6月に書いた「言語の進化論」における、「言語、宗教、共同体」の発生と進化に対する私の理解(モデル)である。

この件に関して私が何時も注目するのは、聖書のヨハネによる福音書の冒頭にある有名な言葉である。「はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。全てはこの方により創造された。」は、絶対的な真や善を想定しており、私の「言葉が共同体と宗教とで三重らせんを形成して、進化した」というモデルを否定している。キリスト教が欺瞞的であることは、4年ほど前にニーチェの本の感想を書いた時に議論した。

 

 

5)この善の相対性により、ある共同体(国)が戦争で敵兵を殺すことや犯罪者を死刑にすることが、「人殺しは悪である」という命題から自由になる。その一方、犯罪者が死刑になったとき、その犯罪者に悪のラベルを貼り付けるのは、その特定の共同体の独善に過ぎなくなる。阿弥陀如来は、特定の共同体の所有でないのだから、そのような人を極楽往生させる筈である。

 

6)世界の独裁的な国々では、自国民向け洗脳政策で国家を愛する意識を植え付けている。しかし、それらの国々では、人と人の間の自然な愛情は破壊されており、本当は共同体としての国家は成立していない。以下の中国での話は、それを証明している。その話とは、ビルから飛び降り自殺をしようとベランダに立った人が、なかなか飛び降りないので、見物に集まった人たちが「飛び降りるなら、早く飛び降りろ」と声をかけたという、寒々とする話である。https://business.nikkei.com/atcl/report/15/258513/070500081/

日本でも米国でも、そして恐らく世界中で、人々は真実を失いつつ在る。それは同時に多くの不正でこの世界が満たされつつ在ることを意味する。そこで今回は「真実」とは何か、どこにあるのかについて書いてみようと思う。

 

1)真実とは、共同体で共有する命題(の集合)である(補足1)

 

先ず、「真実とは何だろうか」を考えてみる。デカルトは「我考える故に我あり」(補足2)が唯一の真実であるとした。換言すれば、「我」が自覚する真実は、「我」という意識が存在することのみだとデカルトは言ったのである。

 

しかし、「我」という言葉のなかに、対立概念「他」が存在するので、「我」が存在すれば、「他」も存在することになる。これは矛盾である。更に、「在る」の議論は、ウィキペディアにもあるが、言葉の限界を感じさせる人間にとって不毛な行為である。近代合理主義哲学の祖であるデカルトのこの言葉は、合理的というより宗教的である。(補足3)

 

誰であれ、言葉で語る時点で、他の存在を意識している。一人で考えるときでも、言葉を用いる時は、必ずそれを聴く人物を想定している。もちろん、自分を二つに分けて、喋る自分と聴く自分を心に想定して言葉を用いる場合もある。そうすると、デカルトが言う「我」は二つに分裂している。

 

このデカルトの思想に対する私の否定的な考え方の基礎にあるのは、言葉は共同体の共有物であるという思想である。つまり、言葉(言語)は、共同体と宗教を含めた三つを必須要素として発生し、一体となって進化したと私は考えている。(補足4)つまり、デカルトが言葉を用いた段階で、共同体としての真実を探していることになる。我を一人と言葉を用いて考える段階で、既に矛盾を内包している。

 

何が言いたいかというと、「真実とは、共同体のメンバーで共有する命題(の集合)である」ということである。 完全に一人だけなら、命題を持ち出す必要はない。真も偽もない。「これが真である」とは、我々(共同体)はこれを真として選択すべき「良き命題」つまり自分たちと周囲の世界の理解に役立ち、共同体の永続と発展のためになるという意味である。

 

それは善も同様で、「善」とは我々(共同体)がその維持と発展のために選択すべき「良き行為」に付けられるラベル或いは「物差し」である。つまり、共同体から完全に落ちこぼれた人に善は無意味である。親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」は

この善の相対性を語った名言である。(補足5)

 

従って、共同体が異なれば、何が真で何が善であるかも異なっても別におどろくべきことではない。「Xが真である」や「Yが善である」を絶対的普遍的な命題群として把握している人が多い。補足3の繰り返しになるが、それらを絶対的な命題とするのは、宗教的であり科学的ではない。
 

2)真と偽の相対化

日本人には、人類全体としての共同体意識が残存する。笹川良一の「人類皆兄弟」という言葉が日本で一定の存在感があることからも分かる。その考え方は西欧にも存在した。国連などもその意識の具体化だろう。この人類が共同で豊かな社会を維持しようと考える根底には、人類が科学や技術を用いて、豊かな近代文明を多くの地域で共有している事実がある。

 

この人類が共通して享受している文明に関する部分(部分空間での共同体)には、それに対応する「真理の集合」が存在する。一方、国家と国家或いは集団と集団で対立する場合、その対立関係の基礎に、「真理の集合」が二つの集団で異なるということになる。
 

この考え方では、異なった集団の間でも「真理は一つだ」という考えは、宗教的であり科学的ではない。この情況を別表現すると、二つの集団の間で“ある争い”があったとすると、その争いに関して、真偽の判定が可能な一つの命題として、それら集団の二つの言葉で表現することは非常に困難だということである。

 

それは言葉が、歴史的に一つの共同体内で一つの宗教とともに出来上がったのであり、他の言葉への厳密な意味での翻訳は不可能だということでもある。

 

前々回の記事に書いたことだが、今年米国を中心舞台にして明らかになった世界の変化の根底には、人間関係が相手を思う関係(共同体の感覚)から、損得の関係に変化したことがある。そして、世界の人々は地理的にどれだけ狭く限定しても、共同体的感覚を失っていることになる。(補足6)

 

更に、共通の利益を持つ人々の集合は、経済の“発展”のなかで米国内や世界で斑に分布し、建国以来存在してきた共同体の感覚が破壊されているということである。それが人間関係の、「人類愛の人間関係」から「金銭愛の人間関係」への変質の結果である。共同体が失われた場合、真も善も共有できなくなる。現在の米国の混乱を見て、それを強く感じる。

 

3)トランプ政権について

 

トランプは、大統領選挙が多くの不正により間違った人物を選んだと主張している。しかし、何に照らして不正かといえば、昔の建国の精神が生きている米国の憲法とその精神に照らして不正だと言っている筈である。

 

しかし、その憲法の精神が、米国全土で崩壊しているのなら、トランプの主張は古い物差しで新しい米国を測っていることになる。BLM運動が、シアトルで治外法権の地区をつくっても、市長は「別に!」と言って放置し、連邦軍を派遣しようとしても、エスパー国防長官が「断る!」と言ったのも、民主主義精神が希薄になっている現在の米国なら自然である。

 

テキサス州が、激戦4州を「選挙制度を州議会による法改正を経ないで変更し、大統領選挙を行ったのは合衆国違憲に違反する」と言って提訴したが、最高裁が門前払いをした。50州が憲法の下に団結して連合国を作るという精神が風化していれば、最高裁判事らが敢えて火中の栗を拾うのは止めようという態度は、自然なことだろう。

 

つまり、古い衣は着ているものの、その中は今や全く別のアメリカなら、トランプが逆転するのは、古いアメリカに戻るという革命に相当する。それを行うなら、戒厳令を出して、軍政を布くしか無い。自分が先頭に立って戦わなければ、革命は成功しないだろう。

 

1月6日の両院合同会議において、ペンス副大統領が激戦州から出された選挙人名簿を拒否する権限があるのだから、トランプ逆転勝利のためにそうすべきだという考えには、無理がある。副大統領に、米国群衆を背景にして先頭に立って戦って呉れと大統領が言うのでは、敗戦は必至だろう。https://www.youtube.com/watch?v=PPigZYtQhkg&t

 

トランプの現在の姿勢では、最終的にはマイケルフリンも、シドニーパウエルも、リンウッドも、そしてトランプの多くの支援者も、正常な行政プロセスを妨害したとして逮捕される可能性が高い。(https://www.youtube.com/watch?v=kpxEKMcWeRc&t

 

反トランプ陣営も、自分たちの真と善に基づいて、統一する時期である。古い衣を脱ぎ捨てた中に、しっかりと共同体としての新しい社会主義国アメリカが存在するのなら、トランプの応援団として活躍してきた人たちを訴えるのは自然である。しかし、反トランプは呉越同舟、国共合作状態のような氣がする。トランプが勝っても負けても、米国は混乱するように思う。


 

補足:

 

1)命題 (proposition)とは、判断を言語で表したもので、真または偽という性質(真理値)をもつものである。この「もの」という言葉に何時も引っかかる。この“もの”は物でも者でもない。英語では、多分That is what I mentioned a few seconds ago. That is it. (又はThat’s it.) のような文章のwhat itを、日本語で「もの」というのだろう。別の表現では「命題とは、数学で、真偽の判断の対象となる文章または式である」。

 

2)デカルトのこの言葉(Cogito, ergo sum)は、英語では"I think, therefore I am"と翻訳される。この「think」を「思う」と翻訳するのは間違いだろう。https://en.wikipedia.org/wiki/Cogito,_ergo_sum

 

3)ほとんどの人が科学について誤解していることは、「科学は真実を明らかにする」という命題を「真」だとすることである。科学は真実を想定しない。科学の世界に在るのは、仮説のみである。科学の大きな成功つまり進歩は、真実を決定しなかったことによる。

 

4)この言語の発生と進化に関する理解は、「宗教と言語は、共同体社会とともに発生し、外敵からの防御のために“善悪”の創造とそれによる地域共同体の団結を可能とした」と表現することができる。このモデルを前回記事で引用したが、元は昨年6月に書いた「言語の進化論」における、「言語、宗教、共同体」の発生と進化に対する私の理解(モデル)である。

この件に関して私が何時も注目するのは、聖書のヨハネによる福音書の冒頭にある有名な言葉である。「はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。全てはこの方により創造された。」は、「言葉が共同体と宗教とで三重らせんを形成して、進化した」というモデルを否定している。

 

5)この善の相対性により、ある共同体(国)が戦争で敵兵を殺すことや犯罪者を死刑にすることが、「人殺しは悪である」という命題から自由になる。その一方、犯罪者が死刑になったとき、その犯罪者に悪のラベルを貼り付けるのは、その特定の共同体の独善に過ぎなくなる。阿弥陀如来は、特定の共同体の所有でないのだから、そのような人を極楽往生させる筈である。

 

6)世界の独裁的な国々では、自国民向け洗脳政策で国家を愛する意識を植え付けている。しかし、それらの国々では、人と人の間の自然な愛情は破壊されており、本当は共同体としての国家は成立していない。以下の中国での話は、それを証明している。その話とは、ビルから飛び降り自殺をしようとベランダに立った人が、なかなか飛び降りないので、見物に集まった人たちが「飛び降りるなら、早く飛び降りろ」と声をかけたという、寒々とする話である。https://business.nikkei.com/atcl/report/15/258513/070500081/