—— 英仏の代理戦争に巻き込まれた日本——


 

日本の近代について語るとき、さらに現在の政治・経済・社会のあらゆる問題を考えるとき、江戸末期から明治維新の動乱の時代を正確に知ることが不可欠です。それは、日本の政治・経済のすべての基礎がこの時期につくられたからです。

 

明治以降の日本は、日清戦争、日露戦争、満州事変、対中戦争、対英米戦争と、戦争の連続でした。なぜ日本はこれほどまでに戦争に突入し続け、破滅的な敗戦へと至ったのか——その不思議も、日本の近代の「始点」を正確に知ることで解けると考えています。

 

私は以前からこの視点を持ち、ブログにも意見を書いてきました。最近も、日本の近代史は、被支配のバージョンアップ史に過ぎないという記事をここにアップしています。

 

今回、視野を江戸末期の方に広げる機会を得たので、私自身もこの問題の知識を新しいバージョンにアップデートすべく、AI(Gemini)の協力を得て客観的な事実関係を再整理しました。

 

以下にその第一回目を示します。今回の計画は、10年以上も前に書いた古いバージョン『明治維新とは何だったか?』(https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12466514404.html)の拡張・全面改訂版です。

 

1. 正統なる主権者・徳川幕府の現実的外交

通説では、徳川幕府は「黒船の来航に慌てふためき、弱腰で不平等条約を結んだ無能な旧体制」と教えられてきました。しかし、当時の記録や国際情勢を客観的に見ると、実態は全く異なります。

 

幕府は長崎のオランダ風説書などを通じ、1840年のアヘン戦争の推移から1853年のペリー来航予告に至るまで、欧米の動向を事前に正確に把握していました。老中首座・阿部正弘は朝廷への報告や諸大名への諮問を実施し、情報共有と合議による挙国一致体制を構築。勝海舟や江川太郎左衛門らテクノクラートを抜擢し、海防の近代化を矢継ぎ早に進めました。

 

1858年、大老・井伊直弼が決断した日米修好通商条約の締結は、決して「売国」ではありません。当時、アロー戦争(第2次アヘン戦争)において英仏連合軍が北京を蹂躙し、円明園を焼き払って清国を軍事的に屈服させていた苛酷な現実がありました。

 

アメリカ総領事ハリスの「今、平和的に条約を結ばねば、清を叩き潰した英仏艦隊が日本へ押し寄せ、過酷な軍事占領条約を突きつける」という警告を冷徹に見極め、清国の二の舞(軍事占領や領土割譲)を未然に防ぎ、主権と国土の保全を最優先した現実主義的妥協こそが、あの条約調印の本質でした。

 

岩瀬忠震や水野忠徳ら幕臣外交官は、万国公法(国際法)を武器に列強と対等に渡り合い、日本を主権国家として守り抜こうとしていたのです。

 

2. 孝明天皇の暴走と「戊午の密勅」による法秩序破壊

この合法的かつ現実的な主権防衛策を背後から破壊したのが、水戸学の排外思想と、他ならぬ孝明天皇自身の越権行為でした。

 

明治以降の皇国史観は「天皇は国を憂いていた善意の被害者であり、周囲の過激派が暴走しただけだ」という免責の物語を垂れ流してきました。しかし史実を客観的に直視すれば、孝明天皇自身が250年続いた国家の基本法秩序を踏みにじり、内乱の引き金を引いた張本人でした。

 

孝明天皇は極端な外国嫌い(攘夷の情念)に囚われており、条約調印の報に激怒すると、自ら「退位」を口にして幕府を揺さぶりました。そして、前水戸藩主・徳川斉昭ら水戸派の激しい朝廷工作に乗る形で、前代未聞の暴挙に打って出ます。それが1858年の「戊午の密勅」です。

 

徳川体制の根本法規である『禁中並公家諸法度』において、朝廷が幕府(京都所司代)を迂回して諸藩に直接政治命令を下すことは厳格に禁じられていました。指揮系統を二重化させず、国家主権の分裂を防ぐための絶対の鉄則だったからです。

 

しかし孝明天皇は、正規の手続きを司る関白・九条尚忠を排除し、水戸派公卿と結託して、幕府の頭越しに一諸侯である水戸藩へ直接、秘密裏に勅書を下しました。しかもその文面には、「この勅諚を諸藩(各大名)へ回達(回覧)せよ」という命令を盛り込んでいました。天皇自らが、一地方政権である水戸藩に対し「全国の大名へ号令をかける司令塔になれ」と命じたのです。

 

これは、国家の最高指揮系統を二重化させる「天皇自身による明白なクーデター(憲政破壊)」でした。国家に「将軍」と「水戸」という二つの頭を作れば、諸大名は分裂し内乱に至ることは自明でした。現実に外敵(英仏)が喉元に刃を突きつけている最中に、自らの排外感情を満たすため、国家の最高防衛線を内部から破壊したのです。

 

井伊直弼による「安政の大獄」の本質はここにあります。 後世に宣伝されたような狂気の独裁弾圧などではありません。最高権力者である天皇自身が法を破り、国家分裂の危機を招いたこの反逆工作に対し、法治秩序を死守し、列強による各個撃破(植民地化)を防ぐために断行された、国家主権防衛のための治安維持活動だったのです。

 

しかし1860年3月3日、井伊直弼は水戸脱藩浪士らによって白昼の桜田門外で暗殺されます。国家の防衛指導部を物理的に破壊された幕府は統治能力を著しく低下させ、暴力による現状変更が横行する無政府状態の扉が開かれました。

 

3. 香港からの視線 —— ジャーディン・マセソンと武器密売

幕府の権威が失墜した瓦礫の上で、狂信的な攘夷論を掲げていた過激派勢力(長州・薩摩)に接触したのが、大英帝国の覇権ネットワークでした。

 

下級武士に過ぎなかった彼らが、なぜ最新鋭の軍艦や数万挺の近代小銃を調達できたのか。その資金と兵站の出所は、アヘン戦争の仕掛け人であり、阿片密輸と国際金融で巨万の富を築いた香港のジャーディン・マセソン商会でした。

 

その長崎代理店として1859年に設立されたのが、トーマス・グラバーの「グラバー商会」です。1865年にアメリカ南北戦争が終結すると、アメリカ本土には大量の旧式・新式小銃(ミニエー銃、エンフィールド銃など)が余剰となりました。死の商人たちは、極東の日本を巨大な兵器投棄市場として選定したのです。明治維新と銃の性能:尊王攘夷派の背後に外国(英国?)の影

 

美談として語り継がれる「薩長同盟」と坂本龍馬の正体は、この国際兵器密売ネットワークのブローカー機能に他なりません。長州藩の名義では購入できないグラバーの最新兵器(ミニエー銃など数千挺)を、薩摩藩名義で購入して横流しする——龍馬が担ったのは、大英帝国の武器ビジネスの手先としての商社マン業務でした。

 

さらに1863年、長州藩は下関で無差別に外国船を砲撃しながら、同じ月に伊藤博文や井上馨ら5名(長州ファイブ)をマセソン商会の手引きで英国へ密出国させています。大英帝国にとって、彼らは危険なテロリストではなく「将来の対日工作に使える現地エージェントの候補生」でした。

 

ロンドン大学で大英帝国の圧倒的な国力を見せつけられた彼らは、狂信的な攘夷主義者から、英国の利権を代弁する親英傀儡エリートへと再教育されたのです。

 

4. 戊辰戦争と明治維新の真実 —— 英仏の代理戦争

こうして、極東の島国を舞台にした大国同士の戦略のチェス盤面が完成しました。正統なる主権者・徳川幕府は、卓越した幕臣テクノクラート小栗忠順(上野介)の指導のもと、フランス公使ロッシュの後援を受け、横須賀造船所の建設やフランス式軍制の導入を進め、中央集権的な近代国家への脱皮を急ぎました。

 

これを座視できなかったのが、極東市場の覇権を握る大英帝国です。幕府がフランスの後援を得て強大な中央集権国家として完成すれば、英国の商業利権は締め出され、ロシア南下を防ぐ防波堤(使い捨ての駒)としても機能しなくなります。英国公使パークスや書記官アーネスト・サトウは、体制転覆を望む薩長を梃子入れし、反乱軍の武力蜂起を煽動しました。

 

戊辰戦争とは、崇高な志士による民族革命などではなく、「フランスが支援する正統政府(徳川幕府)」対「大英帝国が兵器と資金を投じた現地クーデター部隊(薩長)」による、列強の代理戦争という見方も存在し得るものでした。

 

徳川慶喜の恭順によって全面焦土化という最悪の破局は免れたものの、武力で主権を強奪した薩長政権(明治政府)は、その出自からして「大英帝国の海洋覇権システムへの従属」を宿命づけられていました。日本が現在に至るまで抜け出せない「対外従属」の基礎は、このとき完成したのです。

 

(第2回「偽旗作戦と昭和の破滅 —— 英国の下請け国家が歩んだ焦土への道」へ続く)


 

追記: 本文章は筆者の発案とプロットに基づき、グーグルAIのgeminiの調査と草稿作成、及び筆者との校正作業によって作成されています。