ハイデガーに倣って
今日は図書館に行き、古東哲明による『ハイデガー=存在神秘の哲学』を借りた。あと、熊野純彦によるハイデガー『存在と時間』第一巻も借りた。その他には古井由吉を二冊借りた。『野川』と『この道』だ。今年の読書の秋は死について考え、存在について考えることになりそうだ。しかし、どうしてそんなことを考えてしまうのか。私は別に哲学研究で飯を食っている人間ではない。本当に、ごくありふれた肉体労働者だ。だからこの世界の神秘を見つけたからと言って騒いだとしても、所詮私は死んでしまう……死んでしまえばせっかく世界の神秘とやらを見つけられたとしても終わりではないか、と思わなくもない。どんな風に生きても人生。中島義道ではないが「しょせん気晴らし」と高を括ることだってできる。だが、私は習い性なのか、ついつい哲学的と称される考え方に耽ってしまう。なぜ私の言葉は通じるのか。なぜ言葉を私は理解するのか。私はなぜ生まれてきたのか。なぜ存在し続けているのか。未来はどこに向かって流れるのか、云々といったことを考え込んでしまうのだった。今日もニーモシネのメモパッドに色々なことを書いた。私は自分で言うのもなんだが賢い人間だと思っているので(もちろん言うまでもないが、賢いことと人間として優れていることは同じではない)、考えすぎて墓穴を掘るところがあるのだった。仕事でも、もししくじったらどうしようと考え込んで、そして身体がうまく動かなくなって自滅してしまう。そんな私は、身体の動きに自分を委ねることを学んだように思う。身体を動かして、黙って作業をする。仕事をする。そうすると、身体の動きに合わせて心も上向いてくる……。今日も、そんな感じで仕事をこなした。そして休憩時間にハイデガーを読む。こんなふうだ。 「存在」は自明な概念である。すべての認識作用、言明作用において、存在者に対するあらゆるふるまいにあって、じぶん自身へのいっさいのかかわりのなかで、「存在」は使用され、その表現はそのさい「ただちに」理解される。だれもが「空は青くある」「私は喜んでいる」等々を理解している。しかし、こうした平均的な理解しやすさが現に証明するのは、理解しがたさであるにすぎない。(ハイデガー『存在と時間1』p.81)私たちはここにいる。そして空は青くある。あらゆる存在とは、そんな身も蓋もない生々しさを備えている。ただ「ある」ということを、かくも言葉を連ねてこねくり回すのは言葉に毒された哲学者とその追従の病理かもしれない。私もまた、考えてもどうしようもないことを考え込んでしまう。でも、考えなければ「考えすぎる」という罠から抜けることもできないのだ。なので、私は考えに考える。毒を以て毒を制す、という方法論を採って自分自身に言葉の弾丸を打ち込む。そして、そこからなにか「悟り」を得られないものかと苦悶するのだった。今日もそんな感じで、時間を過ごした。ハイデガー、なかなか奥が深い。これからどこに自分の思考が向かうか探ってみようと思う。