昨日のブログの記述を読み返して、自己嫌悪を感じてしまった。もっと平たく書けるのではないか。あるいは、もっと率直に書くべきではないだろうか。私が普段考えていることはそんな高尚(?)なことではないはずだ。「真理」がどうとか「倫理」がどうとか、そんなことではない。もっと率直に、私の日常に根差した言葉を使って書けないだろうか、と思う。私はひとりの肉体労働者であり、職人である……そう思って生きている。
そこまで考えて、戯れにウィトゲンシュタインを繙く……。
人間はおのれの日常の暮らしを、それが消えるまでは気がつかないある光の輝きとともに送っている。それが消えると、生から突然あらゆる価値、意味、あるいはそれをどのように呼ぶにせよ、が奪われる。単なる生存――と人の呼びたくなるもの――がそれだけではまったく空疎で荒涼としたものであることを人は突然悟る。まるですべての事物から輝きが拭い去られてしまったかのようになる。すべてが死んでしまう。(『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』p.135)
この箇所と出くわして、思い出すことがある――私は今の仕事でにっちもさっちも行かなくなって苦しんでいた頃、通っていたクリニックの先生に「まあ、いざとなれば生活保護があるから野垂れ死にということはないよ」と言われたのを思い出したのである。その言葉で、私は目の前が真っ暗になったような気がしたのだ。それはどういうことかというと、つまり「単なる生存」、ただ飯を食って寝るだけのシンプルな暮らし(単に夢を持たず、希望を諦めて生きること)を提示されたからではないかと思う。それは先生にとっては救いの手のつもりだったのだろうが、私にとってみれば「空疎で荒涼としたもの」を見せつけられた、と受け取るしかなかったのではないかと思う。
自殺未遂をした時のことも思い出す。私は、当時水産というところで魚を切る仕事をしていた。向いていない仕事をいやいやさせられて苦しんでいたのだけれど、ある時ふと思ったのである。私は、もうこのままどこへも行けない。今の仕事を十年経ってもやらされ続けて、同僚からはおろか後輩からもボロクソに言われて、上司になんどお願いしても聞いてもらえないまま、今の仕事を十年続けなければならない……十年後がわかってみれば、その十年を生きるのはもう徒労でしかありえない。そんな気分になって、暗澹として自殺未遂をしたのだった。
甘え? そうかもしれない。だが、だというのであればウィトゲンシュタインでさえ「すべてが死んでしまう」と見做した境地から人はどのようにしてサヴァイブしていくのか、それを教えて欲しい。私は私なりに頑張ったつもりである。仕事はサボらないで真面目に勤めたし、車を運転できない精神疾患患者の発達障害者としてできるだけのことはした。それでも、収入は乏しく周囲からは理解されずに(当時は、である。今は理解者に恵まれている)暮らすしかなかった。そんな私はどうであったらよかったのか。教えて欲しい――。
私は、自殺未遂をして三ヶ月自宅待機の状態で日々を過ごした。呑んだくれただけで終わってしまった。車谷長吉を読み、そしてタフに「待つ」ことの大事さを学んだようにも思ったのだが、これについてはまたいずれ書くこともあるかもしれない。私は何度絶望したことだろう。その絶望からこそ私は自分なりの哲学を鍛えることを学んだ。どうにもならない時は本を読んで、「待つ」……。