ウィトゲンシュタインという哲学者について、我流ではあるのだけれど自分で色々読み込む日々が続いている。今日、たまたまネットを探っていて『哲学探究』が鬼界彰夫による新しい訳で出ることを知った。既に丘沢静也による訳を持っていたのだけれど、こうして二種類の訳文を読み比べられるというのはいいことだ。新しい訳で読む『哲学探究』はどんな姿で現れるのだろう。
そして、今日は断酒会の日でもあった。出席して、自分自身のことについて語った。職場でパワハラに遭った時のことを(今は遭っていない)。考えてみれば、今の職場で仕事を始めたのが22年前。22年前に当時通っていた精神科のドクターから「とにかく社会復帰のために、半年続けるつもりでやってみなさい」と言われたのがきっかけで始めた仕事なのだった。右も左も分からない状態で、ともあれ頑張った。その積み重ねで今の自分はこうやって鍛えられたのだと思っている。だが、仕事はそんな風にパワハラが当たり前の状態だったのでずっとしんどい思いを誰に打ち明けていいかわからず、溜め込んでしまった。だから酒に逃げたのだと思う。今は断酒会でしんどい思いを語れるので、癒やされている。
断酒会に出席して、仕事をして、合間にウィトゲンシュタインを読む……そんな日々が続いている。これといってパッと派手なことをやるわけでもなく、慎ましく日々を過ごしている。かつてはドラマティックな展開を求めてあれこれ物欲を発散したり、酒に溺れたりしたのを思い出す。なぜあんなに物を買い、酒を呑んだのだろう。今持っているもので充分ではないか。本は図書館に行って借りればいいし、服だってそんなに沢山持っていなくてもいい。そのようにして痩せっぽちの生活を続けるようになった。
ウィトゲンシュタインの哲学に惹かれるのは、彼がどう考えても世界と折り合いをつけるのが下手だったからだ。例えば、私はこうやって言葉を書いている。だが、この言葉が眼前のあなたにも理解できるということはどういうことなのだろう。私はただ単に漫然とデタラメな文字列を綴っているだけかもしれないし、そこまで行かなくてもある文字列が読者に起こさせる感情というのは人それぞれである。私が下ネタを書いたならそれだけで気分を害する人もいるだろうし、そうでない人もいるだろう。言葉を理解するということはそれだけ奥が深い。そして、ウィトゲンシュタインはその奥の深さに取り憑かれた人である、ということになる。私もまたその奥の深さに魅了されている人間のひとりである。
ウィトゲンシュタインは「語りえぬものについては、沈黙しなくてはならない」と残した。これは我流の解釈になるが、私はウィトゲンシュタインほど言葉を切り詰めて世界の本質を掴もうとした人を知らない。そんな彼だからこそ、「語りえぬもの」つまり語ろうとしてもどうしても語れないものに関しては、贅言を謹んで沈黙することを選んだのだと思う。そう解釈すれば彼の思考の凄味がわかろうというものだ。
私は無駄に言葉を並べていないだろうか。同じことを同じように繰り返し繰り返し語り続けていないだろうか……こう考えて、そもそも「語る」とはどういうことなのか、と思った。それは他者がいなければ成り立たない営みなのではないか。これについてはまたいずれ考えてみたい。