BOOTS STRAP 外国語と ゆかいな哲学の館 -14ページ目

BOOTS STRAP 外国語と ゆかいな哲学の館

ありふれた日常を考察する
<芦屋・三宮>

夜桜の季節になってきた。
梅の花はその香りを放っているが、桜は、それほどではない。
夜に咲く梅の花を詠んだ歌「春の夜の闇はあやなし梅の花 色こそ見えね香やは隠るる」
これは、『古今集』に収められている凡河内躬恒(おほしかふちのみつね)の歌で、
この意味は「春の夜の闇は何とも不思議だ。梅の花は闇に隠れているけれど、
その香りは隠れることなく漂っている」となる。

近代を迎えるまで「闇」は恐怖の対象だった。
『源氏物語』には、闇がどれほど深いものかが物語に投影されている。
たとえば、「夕顔」「葵」「明石」などには、深い闇が描かれ
闇の中に「物の怪(もののけ)」が登場する。
つかみどころのない「物の怪」によって死にまで至らしめる恐ろしさをもっている。

この「闇」という言葉は、病に罹るなどの意味を持つ「病(や)み」からきているという。
「病み」は「物の怪」が支配する暗黒の世界だが、
「病み」に打ち勝った存在は、それ以上の力を持った存在となる。
「闇」を通過すると強い生命力を持つと考えている。
たとえば、植物のタネなどが土に落ち、土中という「闇」を通過することによって、
生命力を漲らせて、大輪の花を咲かせる。
「闇」は恐怖であると共に生命を産み出すもの。

イギリスの小説家・コンラッドの小説に『闇の奥』というのがある。
『闇の奥』

この話は、貿易会社につとめていたクルツ(Kurtz)が、アフリカの奥地で、
クルツを神として崇拝するという帝国を築き上げようとしている
というウワサを聞くところからストーリーが展開する。
誰も知らない闇の奥で何かが行なわれているが、こち側の人間は何もわからない。
いわば「闇」世界。
そこで調査に行ったのが主人公・マーロウ。
誰も知らない「闇の奥」で出会い、クルツの心の「病み」を見いだしていくというもの。
闇の中には病みがあり、そこを抜けて出てきた者は、恐ろしいほどの生命力を宿すものらしい。

思えば、当方は昨年、生死を彷徨うような肺炎にかかった。
まさに深い闇(病み)だったが 、それを乗り越えて今がある。

そうすると、ど〜うも、長生きしてしまいそうだ。

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<了>

平安時代末期の歌人・西行が詠んだ歌に、
「願わくは花の下にて春 死なん その如月(きさらぎ)の望月のころ」というのがある。
桜を愛する強い思いがこの歌に表れている。
望月とあるが、昨日のピンクムーンと呼ばれる月こそ、旧暦で表される「如月の望月」。
そんな満月の光を浴びながら咲く桜の下で、自らの命を終えたいと詠ったもの。
この西行は生年没年が明らかで、没年月日は旧暦の建久元年2月16日、まさに如月の望月の頃。
西暦にすると、1190年3月30日。
満開の桜が咲いていたかどうかは定かではないが、「念ずれば」なのか、
望んだ通りの頃に没している。

「念ずれば花開く」という言葉がある。
もともとは、仏教の経典の中にあったという言葉だと伝えられるが、
四国に住んでいた仏教詩人と言われた詩人・坂村真民さんの詩の一節にある言葉として知られる。
のちにノムさんことプロ野球の元野村監督によって有名になった一節。
坂村真民さんの詩集

その詩 『念ずれば花ひらく』
「念ずれば 花ひらく 苦しいとき 母がいつも口にしていた このことばを
わたしもいつのころからか となえるようになった そうして そのたび
わたしの花がふしぎと ひとつひとつ ひらいていった」

とは言え、いくら念じても花が咲かぬことも多い。
そんな時に思い起こすのが、良寛さんの
「災難に遭う時には、災難に遭うがよく候、死ぬる時節には、死ぬがよく候」
という言葉。

「念ずれば」と「災難に遭う時には」という二つの言葉を心に携えることができれば、
いかなる艱難をも越えられそう。

だけども、コイツが難しい。

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<了>

ニーチェの著書『善悪の彼岸 (Jenseits von Gut und Böse)』の中に
「愛または憎しみと共演しない時、女は凡庸な役者だ」という一節がある。
いかにもニーチェらしい持って回った表現。
この文で語っているのは、男が狂おしいまでに魅かれる女性というのは、
美しい、愛らしいというより、どこか危険を伴うような「恐怖」を感じさせる女性だという。
妖しい魅力を持つ女性に惹かれていく。
それは「愛」という志向より「恐怖」を感じるものが魅惑だという。

ビゼー作曲のオペラ『カルメン (Carmen)』に出てくるカルメンとホセの関係が、
まさにそのようでもある。
ホセには美しい婚約者がおり、そこには愛と安穏たる未来もある。
それなのに衝動的に妖しき女性・カルメンに魅かれてゆく。
そして、人生を踏み外してしまうことになる。

どうも、この志向は「無意識的記憶」というものと関係しているようだ。
動物の交尾相手を求める志向は、本能というより、これが関係しているとも言われる。
「無意識的記憶」というものには、「愛」と「恐怖」が入り混じっていて、
それが男の無意識をくすぐるものらしい。

ディオールの広告に出てくる女性には、決まってそのようなものが浮かんでくる。


このポスターが挑発的に語っているのは、まさに、ニーチェの『善悪の彼岸 』の一節。

危険や恐怖を感じさせない女性は、凡庸で退屈だということらしい。

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