その一つに、わからない漢字や筆順などを訊くと、相手は、指を空間に向けて、
その文字を中空に書いて教えるということが多々あった。
たとえば、「飛」という漢字は、筆順がけっこう難しい。
「こう書くんだよ」と筆順通りに空中に書いたりする。
そんな光景を見ることが多かったが、文字は書くものではなく打ち込むものに代わってからは、
こんなシーンを見ることがなくなった。
戦前、戦後あたりに怪奇小説などを書いていた泉 鏡花(いずみ きょうか)の時代は、
小説を原稿用紙に手で書いていた時代。
時々漢字が出てこなくなり奥方に訊くと、奥方は、しっかりとその文字を指で空中に書いた。
その文字を理解すると、泉鏡花は、また原稿用紙に向かった。
ただ、一言「その文字を早く消しなさい」という言葉が返ってきたという。
あわてて黒板消しなどで、その文字を消すマネをしたという。
いかにも怪奇小説家らしいエピソード。
泉鏡花の脳裏には、いつまでも残って見えたのかもしれない。
フランスの小説家アルベール・カミュが残した彼の「手記」には、
『トルストイは臨終の時、空中に何やら文字を書いた』という言葉が書かれていた。
実際に、トルストイの死後、その文字は「果たして何か?」というのが話題となった。
映画『トルストイ最後の旅』その文字は、ロマンチストの側面から探ると「愛」の文字。
聖人トルストイとして考えるなら「神の国」ないし「キリスト」。
農民のことを思っていたというから「農民」かも知れない。
その当時としては82歳という破格の長寿。
最期を悟って「完」の文字を入れたとも推測できる。
臨終を迎えたその家は、トルストイ邸博物館として今も残っている。
泉鏡花のような人間がその家を訪ねてベッド脇を見ると、
その中空に彼が書いた文字が消されずに、くっきりと見えるかもしれない。
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