一人の人物がストーリーが展開するにつれ、違った面があることが匂ってきて、
最後はその人物のドロドロした膿みのようなものを抉(えぐ)り出していくこと。
『カラマーゾフの兄弟』の人物たちは、一様に、
最初に見た印象とはまるで違った結末を迎える。
フランスの作家プルーストの著書『失われた時を求めて』の人物たちも同様に、
最後には全く違った人格や様相、姿を呈して行くようになる。
彼はこの辺りをドストエフスキーに学んだと告白している。
プルーストの言葉によると、
人には晴天の霹靂(へきれき)のようなことはいつでも起こるもの。
人の人格のウラには、違ったものが存在しているのは誰にもあること。
だけども、違った人格を見ると、われわれ一般の人間は驚いてしまうばかり。
そうなるのは、結局のところ、我々の観察眼が足りなく、
人を見ているようで見ていない、ということに尽きるようだ。
人格ばかりではなく、何が起こっても不思議ではない、というのが世の中。
世の中をゆるがすような様々な事件が起こるもの。
事件が起こると、マスコミを通じて様々な取り上げられ方をする。
今なら、大相撲の力士による暴行事件。
その前は、神奈川の事件。
一件落着していないにも拘らず、興味をひきそうな
次の新しい事件をネタにすると前は忘れて次の話題に移って行く。
事件というものには、必ず、その背後に悲しみを内包している。
すなわち、誰かの不幸があるもの。
それなのに、事件として人の口にのぼる時には、
何か、違った形になっている。
このあたりのところをドストエフスキーは小説『悪霊』に中で表現している。
それは、「一般に、他人の不幸というものは、
傍観者の目を楽しませるようなものを含んでいる」という一文。
思えば、ケガをした力士、殺害された人たちの不幸を顧みることなく、
「真相究明」という名の下に、
我々傍観者は「楽しんでいる」のかも知れない...
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<了>