からのつづき。
怪現象が昨日から起きているから先に書くよ。
この写真が「ないのにでてくる」っていう怪現象が起きている。
わたしのiPhoneはすでにノイズがすごくて、「聞こえない」ってクレームがきたり、触っていないアプリが起動したり怪現象が起きるわけだけど、リフレッシュ品に交換したけどダメで、万一旅先でスマホが落ちたら困るから写真は持参のパソコンに移すことにしたわけ。
すると、私がうつそうって思ってるフォルダに、USBがない写真を拾うわけ。
エイリアスっていうのかな。
ん?エイリアスってカタシロみたいなもの?
形(アイコン)だけあって中身はない。
それが上の写真。
突然音信不通にされたなにわの審神者が「撮ってくれ」って言ったから撮影した禊ビデオと写真。
カタシロ神事って言葉を私に教えてくれたのはまさになにわの審神者なんだけど!!
形代に、中身を吹き込んだら本物みたいになるっていうやつよ。
そうやって「そういうことにしておこう」ってやつをたくさんつくってきたんだったね。
日本っていう国は。
わたしはそれでいいって思うけど、消されたほうは納得してないみたいよ。今は。
このありさまだからね。過去に亡くなった人じゃなくてその血を継いだっていう生きている方の人たちが。
わたしは占いの仕事をやってたときからこの世を動かしているのは死んだ人の霊ではなくて生きている人の想念だなって気づいてた。
そろそろ死んだ人たち(先祖や霊)のせいにしてみえない世界で生きている人たちが想念を戦わせるのをやめて、
実際に現実的に解決するための話し合いの席についたらどうなの。
神々の戦いなんてきれいごとをいうんじゃなくて、困窮してるほうも「困ってます」っていえばいいじゃん。
そうすれば、言われる方だって困窮してるっていう方の甘えを指摘してくるだろう。
だって依存してるもん。貧しい方も。
この世は共依存だってすごく思う。
この世はまちがいなく格差がある。
日本に生まれるのとアフリカに生まれるのは与えられた自由の大きさだってちがう。
わたしが子どもをとりあげられてアフリカをさすらっていたときに、てっきり弟の世話をしているって思ってた明らかに10代前半だろうなって少女が旅しているわたしを「うらやましい」っていったように。
でもそこで「相手のこと」をどんなに指摘して避難しても平行線だ。
それは共依存回復プログラムと同じこと。
相手と同じくらいダメな自分を直視できたときに、自らの回復は始まるのだ。
なんなんだろうか、ここにこの写真が主張してくるわけは。
これは奈良の川上村に行ったときだ。
しかも、わたしは川上村でも私が夢でみて伊勢平氏おじさんがいいあてた「川合神社」に行きたかったのに、丹生川上神社上社にいっている(上社元宮はダムで沈んで川の底。つまり一番下にあった社)。
そこに護摩壇があったと書いている。
あ!!!
そういえば、このところ川上村がきていた。
一切経山にいったとき、川上村の話してるじゃん。
あの日本当は川上村のトヨヒメ?さんの祭で、ご案内人はいくつもりだったんだった。
あの登山で動いていたのは、やっぱり川上村だった。
高天原の戦い。御巣鷹山。
スターアライアンス VS ワンワールド。
みたいな。
別に現実にそうだっって根拠はないんだけど、なんかイメージでずっとこれがくるのよね。
そしてわたしも一切経山の写真を送ってきた亡くなった尾鷲の大先生も、ワンワールドの方を本当は応援しているのよ。
わたしたち「世界のどこへでも行く」って思ってる人たちだから。
こころの中に国境ないわけ。
グローバリストは嫌われてるみたいだけど、本当にグローバルな人って同化政策は必要としないのよ。
むしろ小さな集団にこだわる人たちの方が規則に縛られて不自由。
それって私が育った街もそうだけど、田舎の方が異質なものに警戒してるってことでわかるじゃん!?
山崎豊子作の御巣鷹山の日航機墜落事故を描いた小説で、主人公が飛ばされた先はアフリカだったような気がする。
彼女の作品は「ぼんち」なんかも大阪のお嬢だったわたしにはなるほどなって思うことが多くてたくさん読んだけど、
いつものとおり読んでるときは面白いけど素通りして忘れてる。
今日はマスカル祭。
結局本題に入る前の方が長いといういつもの美志摩ブログ。
Facebookに速報のせたからそっちを貼っておこう。
街中に黄色い花と篝火をたく薪が積まれてて、
白いドレスをきて歌いながら太鼓を叩く一団がピザの焼き上がりを店で待っている私の元に現れる。
神輿が入ってくるような妙なデジャヴ。
今日は、マスカル祭といって、本当の十字架が見つかったというエチオピア正教の祭の日らしい。
昨日会ったエチオピア人にそれを知らずにこの日に来たのはすごいねって連呼されたけど、こっちにも「呼ばれる」って感じがあるのかな。
街の広場にすごい数の人たちが集まって火を焚く。
それはきっと、地上に星が降りたように見えるだろう。
そして、さいごに大きな柱に火をつけて火柱があがる。
街の通りのあちこちに作られている薪をみていると、似たような光景をみたことがあるのを思い出した。
富士吉田の火祭。
富士吉田浅間神社で行われるあの祭は実は浅間神社ができるより前にあった諏訪社で行われる。
そういえば、日本にも火祭りってあるけど、景教の影響だって聞いたことがある。
昨日八角形の聖堂をみて聖徳太子の夢殿を思い出したけど、聖徳太子と景教を結びつけてる記事もみたことがある。
それが正しいのかどうかはわからないし、どちらが古いとかもわからない。
でも日本の祭りが日本独自のものではなさそうだってことはなんとなく想像できる。
日本から遠く離れたアフリカのこの地に、茶道ならぬコーヒーセレモニーなるものがあって、祭りがあるという偶然。
最古の人類って言われるルーシーが見つかったのもエチオピア。
それって縄文より古いの?
日本の南の島にもその骨が持ち去られた古い骨がでた遺跡があるのも思い出したり。
黄色い花を十字架につけたり、黄色い花を床にばらまいたり、こちらのこの祭(マスカル祭)はそれからはじまる。
黄色い花を飾るのがこの祭のシンボル。
ちなみにマスカルとは十字架のことらしい。
1600年前から9月27日(うるう年では9月28日)にする祭ってことみたい。
エチオピアの暦は独自らしくて、9月11日が新年なんだって。
でエチオピア暦は今も生きてるらしいけど計算が苦手なわたしには難しい。
エチオピア暦(エチオピアれき、アムハラ語: የኢትዮጵያ ዘመን አቆጣጠር、 yä'Ityoṗṗya zämän aḳoṭaṭär)は、エチオピアで使用されている主要な暦法。エチオピア及びエリトリアのエチオピア正教会や東方典礼カトリック教会、コプト正教会などに所属するキリスト教徒のための教会暦としても使用されている。古代エジプトの暦法に由来するコプト暦に基づく恒星年であるが、ユリウス暦と同じく例外なく4年に一度の閏日を取り入れており、ユリウス暦の8月29日か8月30日に年が始まる。イエス・キリストの生誕年の解釈の違いにより、グレゴリオ暦との間に7、8年の差が生じている。
コプト暦同様、1月から12月までは、毎月が30日である。その後に5日または6日の追加日が挿入される。これが13月である。エチオピア暦の年・月はコプト暦と同様であるが、月の名称はゲエズ語による。4年に1回、ユリウス暦のように2月に29日を挿入するのではなく12月30日の後に5日ではなく6日の追加日(エパゴメレ)が挿入される。
細かくきっちり7,8年と何日、ってずれがあるらしいのよね。グレゴリオ暦とは。
でお祭りはグレゴリオ暦っていうの?エチオピア暦ではない暦で9月27日に行われている。
9月11日よ。9月11日。
ちょっと前に私にメッセージがきたのは9月11日。
♫911がやってくる♫はこれだった。
あの日のブログにこんなことを書いている。
製薬会社の利権=働く人たちの生活を守るために、こんなあほらしい茶番を起こさなければならなくなったのだ。
製薬会社の利権=闇の勢力っていうのが間違っているのだ。
闇の勢力かもしれないが、闇の勢力を支えているのは、
そこに群がる働く人たち=わたしたち、なのである。
それに気づかされたのが、コロナのときの飲み会だった。
何百億の負債、とか、何兆円の売り上げ、とか、庶民のわたしには想像もつかない単位のお金の話が飛び交う、コロナ禍のだーれもマスクなんかしていない飲み会で、
もし、この人たちが、コロナが怖くて
「仕事やめます」
ってなったらどうなるんだろう。って考えた。
どれだけ多くの人たちが、仕事をうしない、その家族が路頭に迷い、
経済は本当にストップする。
そう思った。
結局自立できていない、我々の問題なのだ。
DSだの、闇の勢力の問題ではなくて。
コロナ問題が起きたのは、既存の制度で生きている人たちのためだってどうしてわからない?
そしてそれがどれほどのムダを必要としているかわからないのか。
そして、赤星=金星のことを思い出して涙している。
宮古島市の歌に歌われる赤星。
そして空海がわたしが今年の正月、伊勢平氏おじさんにストーカーって冤罪をかぶせられる直前に行った初日の出の室戸岬の洞窟で空海の口に入って悟りを得たっていう金星。
そしてなぜか「神武天皇は金星からきた」なんて話がある金星。
今年の新年は明星が口に入ったって空海ゆかりの洞窟で迎えたけど、
エチオピア暦新年にエチオピアで明星に遭遇して十字架を祝う祭にいるのも偶然か。
ええ、もうずっと誰かが敷いた線路の上を走らされているようにしか思えませんが。
十字架ってなんで信仰の対象になるのか、わたしはずっと理解できなかった。
だって、罪のない教祖さまを磔にした忌まわしい道具が信仰の対象って気持ち悪いじゃない。
でもね、だんだんわかってきたことがある。
だって、経済を維持するためにはイエスはいたら困るだろうなって。
イエスは、私同様「顔のない人」だもの。
働かないで、人々に恵んでもらって旅しながら暮らしてて。
ユダヤ教では嫌われてる徴税人とも仲良くしてご飯に招かれたりしてる。
でも言ってることは正しいけど、多くの人は彼の教え通りに生きたら間違いなくお金は入ってこない。
つまり、経済ってものがなくなる。
実際イエスも言っている。金持ちが天国に入るのはらくだが針穴を通るより難しいって。
つまり、「ない」ってことよ。金持ちが天国(と定義されてる場所)に行けるってことは。
逆にいうと、イエスの生き方をしていたら金持ちには絶対になれないってことでもある。
イエスの言ってる天国って、お金があって、豊かな場所じゃない。
こころの平安があって、自然にあるものを食べて暮らす、エデンの園よ。
わたしにとっての島よ。
みんながイメージしてる天国とは違うと覆うよ。
イエスのいうことは自然界の法則を理解する上で間違いなく正しい。
人間の都合を優先して欲望のままに生きたら有限である地球の資源は枯渇する。
魚とかの海の資源もエネルギーも、緑も、全部そう。
あるものを消費するやり方では人口を支えるのに不足するから稲作とかできたわけ。
でも稲作も土地を必要とするのよね。
で、取り合い。
「ほどほどにしときなさい」ってことみたいよ。
戦争したくないのなら。
コロナ禍にエチオピアに旅していた人のブログをみかけたけど、コロナの影響はほぼなかったみたい。
まるでわたしがオトナの飲み会に呼ばれたときのように。
せっかく大金をはたいてとったPCR検査の陰性証明をみてもくれなかった、みたいなことを書いてあった。
顔のない人の国=経済を必要としていない国には必要なかったってことよ。コロナは。
だからインターネット回線が切れるのは当たり前。
そういう情報がでたらコロナは一大事っていうことでひとつになってるチームに混乱が起きるじゃない。
別々にしておいたほうがいい=ソーシャルディスタンスのためなんだなって思っていたよ。
わたしは「顔のない人」で生きられるけど、この世には経済ってものがあった方が楽しい。
今ならわかるもの。学生時代、ドイツに留学した。
ドイツ語で数も数えられなかったわたしは移民があつまる最初級クラスに入学した。
そのとき、キューバやポーランドなどのかつてあった共産圏(東側諸国)からきた同級生が
共産主義は糞だ、ってしきりにいってて、
なんで?ってきいたら、「コーラがない」みたいなことを言ってて、モノにあふれてどちらかというと豊かさにうんざりしていた当時のわたしは彼らの言ってることがさっぱりわからなかった。
でも、今はわかる。
お金で買えるちょっとしたもの、
コーラやおいしい食事や美しい宝石があった方が楽しい。
毎日ポテトチップスを挟んだだけのパンでも生きていけるけど、ワイン飲んだり、イタリアン食べたりって選択肢があった方が生きてる甲斐があるじゃない。
ま、今のわたしはバイトアプリも見張り役が差し向けてくれたブローカーさんからの仕事も断らずにわき目も降らず働いても、家賃はらうのがやっとだからね。食べるものすらめぐんでもらってる玄米とかまかないでしのいでるくらいだから。
貧困層はほぼ同じ条件で働いてるんだから、それは追い詰めすぎだよ、ってわたしは実感をもっていっている。
コロナのバラマキがあったおかげでこうして旅ができているから国に文句はないよ。
そして一人でも多く、コロナの教訓をもって新しい時代を創っていけるようにって願ってる。
定期的に地球を守るために磔になるイエスは必要なのかもね。
イエスが殺されなくて済むようになるには、もうちょっと民度があがらないとダメだと思う。
こちら、エチオピアではマネキンが手をあげている。
明るいよね。
ま、逆にジーンズをはいた足のマネキンが空に向かって立ってるのも笑っちゃったけどね。
さかさま。
顔のない人の国。
わたしの神の島の仲間たちを思い浮かべる。
祭りで使うらしき黄色い花の草。
何度回転しなおしてもなおらないからこのままはるね。これが、松明みたいになるかがり火。
上に十字架があるのとか、黄色い花をいただいてあるのとかいろいろ。
ユダの裏切りっていうけど、ユダはみんなのためにイエスに死んでもらうことにしたのかもね。
黄色ってことは土公神でクナトかもね。
境界の守護者。
高層ビルとトタンのバラックが混在しているところもなんかインド。
高層ビルは中国資本らしいけどね。
これもさかさまになっちゃうけどエチオピアでトラディショナルでない珈琲の店。TOMOCAコーヒー。
75ブル。
だいたい倍の値段だから、庶民はきていない。
高級店。
せっかくエチオピアにきたんだからピザを食べようと思ってピザの店。
祭りでみんなではらっちゃったのかお客さんはいなくて、ピザの焼き上がりまで待ってたら、そこに白い装束に太鼓を打ち鳴らしながら3人組が入ってきた。
なんとなく、神輿がはいってくるような感じがした。
ピザ。なんとなくすすめられたのを買ったけど539ブル(1000円以上!!)もした。
たぶんこっちの普通の人たちは頼まないだろうな。
わたし、日本にいるときだって1000円のスナックなど買わない(買えない)のに。
後悔ないけどね。旅先の食事は一期一会。
そういう意味でもわたしは「経済があった方がいい派」。
人生を楽しむためには必要だもの。お金。
Facebookにエチオピアのコーヒーを献上した人が「カルディ」って名前をもらったのがカルディコーヒーファームの「カルディ」の由来ってコメントをもらったタイミングでこれが目に入るという「偶然」。
マスカル祭に行ってみようと思っていたけどとにかく眠い。
混雑嫌いだし、昨日の二人組は「呼ばれたんだよ」って超絶おすすめしてくれたけど、だらだら眠っているうちに夕暮れに。
そろそろ火がつけられる頃だろうけど出たくない。
片道1時間歩いてしかも往復。混雑の中を。
そこらへんで気絶してふと目覚めたら月は高く上がってた。
ちょうど満月か。明日あたり。
9月の満月。
神の島の自分はインディアンだって名乗ってた漁師がいってた、
9月の満月はべた凪で、水面に映る星と空を見間違うって。
その日は元伊勢の眞名井から、伊勢に神様が移された日だっていう。
天と地の静かな交代。
きっとここエチオピアにも地上の星が現れる。
ひとりひとりが火をもって十字架を祝福する夜に。
わたしはただ、水面が静かであってほしいと願ってる。
それは、わたしたちひとりひとりの心そのものの状態だとも知っている。
月が高くなるころ、まつりの音楽だなって音楽が大きな音で流れ、30年近く前、マリの土ゴン族の村で月夜の晩に繰り広げられていたダンスの祭りを思い出した。
あの日も何が起きているのか何も知らなかったわたしは怖くてテントを出ることができなかった。
あれは2月か3月くらいのことだったと思う。
日本の祭りもそうだけど、わたしはやっぱりお祭り苦手なんだなと振り返る。
(つづく)