社会の共依存の病を助け合いに変えていけるか ~新暦お盆に思う 2 | かんながら

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旅の記録です

 

 

売家と 唐様で書く 三代目。

 

 

一番最初の元ダンナも三代目だったからね。

「売家と」っていうだけで次の句がすらすらとでてきたよ。

 

わたしたち、そういう価値観を共有していた戦友だった。

 

 

 

祖父からずっと言われてきたわけ。

 

武士だった裕福だった家が、保証人になって没落して

コツコツためたお金も戦後の新円切り替えで紙切れになり、

祖父は人づきあいすることもなく、酒を飲むこともなく(母同様、祖父もアルコールは体質的にあわなそうだった)、

コンマ一ミリのズレも許さない正確さを生かして職人として生きて、土地を買い、小さな家を建てた。

それだけでも大変なことだったと想像する。

何日もかけて作るひとつ数千円の品物。とりあえず会社に行けば20万円ほどの給料は確保できる今とは違う。

 

 

つまり祖父は初代。

2代目は、親の苦労をみているからなんとかもたせることができるけど、

3代目は実力がないから親がつくってくれた資産をくいつぶすって。

 

そんな祖父も「自分はすずめやな」ってつぶやいていたことがあるらしい。

ひいき筋に取り立てられているわけでもない、宣伝もしない。

祖父のその正確さと、祖母の人柄だけで小さな仕事をしていた。

 

あれだけの人が企業にいたら、取り立てられていたはずであろう。

でも祖父はそれを選ばず、自分の力で生きた。

 

戦争から戻って、人が変わった、と言っていたからなにかあったんだろうなって思う。

戦争にいった、といっても戦地には行っていないらしい。

行くはずだった日に終戦がきた、ときいたことがある。

 

戦争で生き残った人たちには、人に語ることができない秘密があるものなんだろうなっていうのは、

この歳になって、そういう特別な人たちと直接出会って、察した。

 

たとえば、親族どころか息子すら、「終戦を迎えたといっている年齢が事実と違う」ってことに気づいていなかったりとか。

 

 

 

 

わたしは食いつぶす前に家を出ちゃって、

思えば祖父に近い生き方をしてきたのかもしれない。

 

何不自由ないはずのポジションを手放して離婚して、アフリカに行ったのち、東京に帰ってきたとき、

わたしはとりあえずの土地勘がある代々木八幡宮界隈のエリアで家を探した。

 

(アフリカにいたから)住所がない、っていって、借りられる部屋もなかった。

わたしが住んでいたエリアは、大家さんが住む人を選ぶ場所だったから。

 

ひとり暮らし用なら、有名企業にお勤めの30歳くらいまでの人、ってかんじで。

独身だと40歳になると部屋は借りられないから、勤めて住宅ローンを借りてとりあえず中古でもいいからマンションを買うようにって当時世話になった不動産屋のおじさんに言われた。

 

 

で、ちゃんと言いつけを守って中古だけど駅から5分以内のマンションを買った。

安値で買ってけっこう繰り上げ返済もしておいたけど、離婚するときに元のダンナにあげた。

半分返すって言われたけど、かえってくる気配はない。別にいいけどね。わたしには身軽な方があっている。

 

 

不動産屋のおじさんたちは賃貸しかしていなかったから、わたしに部屋を買わせて儲けようとかは思っていなく、

わたしが事務所にいったらいつも自分たちが食べるそば屋のラーメンをわたしの分も出前で頼んでごちそうしてくれたような人たち。

 

 

 

とりあえず、借りた部屋は、押入れをあけたら隣の部屋の明かりがもれ、おじさんが帰ってきて留守番電話を再生したら丸聞こえで、しかも、床は傾いていた。

あるとき仲間が遊びにきて、箸をおいたら転がっていってそれに気づいた。

 

「とにかく貸してくれるって部屋に住んで、住所(住民票)をもってちゃんとした部屋を探せ」ってアドバイスでとりあえずその部屋に住んだ。

 

おじさんが「〇〇荘」ってアパートだっていうから電話の工事のオーダーのとき、「〇〇荘です」っていったら、

「その場所には〇〇荘はないです」って電話局の人と何度もやりあった。

 

結局その場所は「リュウアパート」って言われて、不動産屋のおじさんに確認にいったら、大家さんは中国人で、実際にそうだった。

そのせいで工事のオーダーができなかった、ってクレームしたら、「龍アパートって怪しいからこちらでは〇〇荘って呼んでる」って言われた。

 

 

そしてわたしは1か月ほどで次の部屋をめでたく駅から3分の一等地の(でも思えばいわくつきの)部屋をみつけて引っ越し、その後もあれこれと事情が変わってその年だけで3回くらいは引っ越したと思う。

 

2000年、ミレニアムを迎えるころ。

あのときも、パソコンが壊れるとかノストラダムスの大予言ばりに不安をあおるような情報がとびかっていた。

そのなかのひとつの部屋が、代々木八幡宮の裏側の、大使公邸があるあのエリアに近い場所だった。

同じ通りにはアフリカつながりでネットで知り合った商社マンが住んでいてそちらは億ション。

 

わたしはあのエリアを歩きながら、どんな仕事をすればこれらの億ションに住めるんだろうなって思った。

 

あの当時、わたしはご近所の御曹司同様、値札を見て買い物をする必要がなかったし、お金の問題で何かをあきらめるってことがなかったから(それはありがたいことに今もである)、自分はああいう部屋に住めない、とは思わなかった。

 

でもわたしの給料は20代の小娘にしては高かったし、転職するたびに給料も会社の知名度もあがっていったけど、ついにそんな機会はおとずれなかった。

 

それが私の実力なんだなって素直に思う。

でも、わたしが企画した商品やわたしが立ち上げたサービスで展開している企業の方はもうかっていて、そこの社員にはそういう身分になった人はそこそこいる。

 

 

伊勢平氏おじさんがよくいっていた、「日本は転職したらダメだから」っていうのはたぶん事実で、コネ入社をしないとか、転職するっていうのは、ああいう「特権」から離れちゃうってことなんだろうなって思う。

 

 

おじさんの方は定年を過ぎるまで会社のことを馬鹿にしながらその地位にしがみついて(本人はそう思っていないようだが)そういうステイタスを手に入れ、わたしは違うものは違うといって身の丈で生きた。

 

 

わたしが「どうやったらこんな家に住めるのか」っていう答えは、まさに伊勢平氏おじさんが示してくれたんだなって思う。

 

 

でもわたしは、やっぱり伊勢平氏おじさんみたいなみっともない生き方より、すずめであろうがカラスであろうが、

自分の思う通り生きてよかったってもう会社員に戻れない歳になろうって今自分のことを振り返ってみて思う。

 

 

ケープタウンに住んでいた30年近く前、日本人はまだ「名誉白人」って言われてた名残で特権階級だった。

円は、南アフリカラントっていう現地通貨より強く、何もかもが安かった。

 

ワインもマグロも、部屋も。

2万円くらいで、こちらで20万円くらいの価値の治安のいい部屋に住めた。

日本でも奥さまで贅沢な暮らしをしていたが、ケープタウンでもわたしの持っている大して大きな額ではないお金で十分贅沢ができた。

 

それも「下駄をはかせてもらってた」ってことだったんだなって今は思う。

 

 

でも今、日本は韓国にも中国にも、ついにはベトナムにも賃金が抜かれて貧困国に転落している。

わたしはいろんなバイトをして、高級ホテルにも仕事でいったりするけど、

今高級ホテルで働いている外国人は、すでに未成年である。

 

日本人は私も含めて中高年のベテランだっていうのに。

 

オトナの外国人にはやってられない賃金なのであろう。

 

 

 

戦後、ちょうど、3代目くらいなんじゃないかな。今の日本。

 

ゼロから復興した戦前世代、

 

その恩恵を受けて楽してその地位を得た2代目の団塊の世代。

 

わたしたちアラカンは3代目ってところかな。

わたしは祖父に育てられてきたから、祖父の考えを引き継いでいるけど、

伊勢平氏おじさん含め、団塊の人たちの話を聞いていて思うのは、自分は下駄をはかせてもらってるっていうような謙虚さがなくて、

 

「日本人は特別」って根拠のないプライドをもっているってかんじることと、

自分より弱い立場の人たちに対して思いやりがないなってことと。

 

 

 

コロナのあたりから

「わたしたちはこんな世の中のために死んだのではない」って声を感じてきたけど、

 

このところ特にその声が大きい。

 

 

団塊の世代がひっぱってきたのではないか?

非正規雇用の仕組みも、空洞化と言われた海外への生産拠点の移動も。

 

 

 

そして、日米安保条約に反対して、戦った人たちである。

平和を希求して。

 

 

再び沖縄を盾にしないで。

純粋でだまされやすい信仰心の強い人たち。

そしてそこに被害者意識がのっかっておかしなことになっているかもしれないけど。

 

国境はインターネットという新しいネットワークができたとき、なくなったのだとわたしは思う。

そしてキャッシュレスという仕組みは、ついに経済まで国境を越えてしまった。

 

 

 

この世が不条理な仕組みになってしまったのは、私たち自身にも責任がある。

わたしたちが、それを受け入れなければ、その仕組みは崩壊する。

 

でもわたしたち労働者が、それを選ばなかった。

コロナのときに、わたしはみんなが「お金はいらないからもう働きません」っていうと思った。

 

だって、今まで会社のために自分を犠牲にして働いてきたのに、

「仕事がなくなったからごめんね」って一方的すぎるって思ったのだ。

 

でも多くの人は、「元の生活に戻る」ことを希望したから、今こうなっている。

わたしも当時、経済の仕組みが崩壊したらいいなって思ったけど、今はわたしの大切な心の清い弱い人たちが一番困るってわかったから、それをもう望んでいない。

 

 

 

結局、誰かよい人についていくしか、この人たちが生きていける方法はないんだなって悟ったから。

 

 

 

あきらめと、依存。

 

 

結婚も、会社もそうだけど、多くの人たちは、文句をいいながら、不満な日常を続けることを選択している。

 

そして不満なことを我慢している人ほど、ほかの人にも我慢を強要する。

だからこの世は足の引っ張り合い。

 

 

 

そろそろ逆にしない?

わたしもしあわせだから、あなたもそうなりなさいよ、って。

 

 

自分の実力で生きるってしあわせだよ。

実力にみあったものは、必ず手に入る。

奪われることもない。

 

 

大金持ちのおじさんたちとたくさん出会ったから知っている。

「今の生活をうしないたくない」っていう不安といつも戦っているように見えるからね。

 

もし「なくす恐怖」があるなら、それは身の丈にあっていない幸運にあやかっていることに早く気づいて、

それを支えて犠牲になってくれている人たちに感謝したらいいんじゃないかな。

 

わたしは人の言いなりになるとかまっぴらだけど、誰かに言われたとおりに生きることが安心で幸せでいられる人もいて、

この世は成り立っているってコロナを経て強く思うようになった。

 

 

ただ、今のあり方は行き過ぎでしょ。

搾取する側には感謝がなく、

すでに搾取される側は疲弊している。

 

そのうち搾取させてくれる人たちは絶滅していなくなるだろう。

 

 

特攻隊、瀬織津姫、この国ならではの仕組みを見てきて思う。

 

 

彼らの犠牲が、報われることがあるとしたら、

今の世の人たちが笑顔で、しあわせでいることだけなんだろうなって。

 

 

彼らは、彼らが託した未来をわたしたちは生きている。

だから、不平や不満に満ちた世の中にしてはいけないって強く思う。

 

 

沖縄から伊平屋島、伊是名島、沖永良部を経て鹿児島、平家の里と百済の里(ここには石上神宮の神宝 七支刀を持った百済の王がたっていた)、そして鵜戸神社と大きな旅を終えて3日もたたないうちに、渡嘉敷島の仕事の声がかかって沖縄に出戻った。

 

渡嘉敷島は那覇の泊港から、フェリーで1時間ほど。

 

行くまで知らなかったけど集団自決の島。

職場の事務所は、阿波連のノロの家、

寮で用意してもらった部屋は特攻艇秘匿壕の敷地だった。

 

とかしくは、戸隠だなってなんとなく思い、

あの美しく悲しいビーチにしろくまさんを思った。

 

 

で、この写真。

わたしのアイコンにしている写真は諸鈍長浜。

で、きっと誰もわかんないと思うけど、これは渡嘉敷島の阿波連ビーチ。

違う場所なの。

 

阿波連で知り合ったおばあに諸鈍長浜の写真をみせたら「ここの写真」って信じて疑わなかったし。

 

それくらい同じ場所だった。

 

沖縄にもあるという諸鈍長浜節と同じうたっていうのは、ここなんじゃないかって思ったくらい。

「しゅどぅん」

 

沖縄にも同じ歌があるらしいのよね。

 

そして諸鈍長浜に一番最初に似てるって感じたのは、宮古島のパイナガマ。

南の長浜。

 

 

琉球に熊野信仰があるのはある意味(日秀上人が補陀落渡海で流れ着いたのがはじまりっていわれているから)当たり前なんだけど、そこに、なぜか「馬天港」と与那原がついてくる。

 

たぶん与那原のあの話。御殿山(うどぅんやま)。

 

 

 

なんかけっこう大事なことが書いてあるみたい。

 

聞得大君は尚巴志が中山を攻める前に首里城を抜け出し、熊野権現の本拠地である紀伊国に逃げたのだと考えられる。交易のあった薩摩に援軍を頼む武寧王の使者として、紀伊国の坊さんと共に薩摩に向かったものと考えられる。

 

武寧王って百済?

 

聞得大王が武寧王の使者として紀ノ國のお坊さんと薩摩に向かった?

 

百済と琉球もつながってるんじゃん?こないだ行ったばかりだよ。

百済の里。そして石上だったよ。石上。

石上(いそのかみ)は磯の神だと思っていたよ。安曇いそら。

 

 

当時はスルーしていたけど、

石上は琉球の聞得大王とつながっていた?

だったらあれこれなんで?って思ってたことがバタバタってつながってくるんだけど。

なんといってもどう見ても三輪山の大神島と、三輪山は、天理(三島の本拠地)で石上とつながってたとしたら、ある意味当たり前というか、

どっちが「本当の三輪山か」って感じ。

 

 

それなら、わかる。

あるとき、大神島で、丹後の神人からの電話をとった。

「今大神島です」っていったら、

「あんたはどこまでもいくねぇ」と大笑いされた。

あのときの笑い方は普通じゃなかった。

 

大神島がどういうところか知ってそうな感じがした。

だいたい大本関係者には、離島の最南端は、喜界島らしいのに。

 

 

 

わたしは大神島を探していったんじゃなかった。

気づいたら住人みたいになっていた。

ほかに行き場がなくて。

まるで閉じ込められてでもいたように。

 

 

三輪山は卑弥呼がいたところ、なんだよね。

川口さんが自然農という小さな美しい宇宙を再現した纏向遺跡。

卑弥呼の宮殿と言われている場所。

 

 

今年6月9日。

代々木八幡宮の社家、平岩弓枝さんと

纏向の仙人 川口由一さんが同じ日に亡くなった。

 

わたしをみまもるふたつの場所の番人がこの世の御用を終えたのだった。