なにわの審神者(さにわ)がこんな記事を送ってきた。
「自己肯定感低い人」がパートナーにしがちなこと | リーダーシップ・教養・資格・スキルギリシャ神話に登場する美しい青年ナルキッソスは、ある日、水面に映る自分の姿に恋してしまい、その日から飽くなき自己愛にとらわれてしまいます。この神話にちなんで、ナルキッソスのように自分自身に陶酔し、自…toyokeizai.net
ナルシストは相手の弱みに非常に敏感で、その弱みを辛らつな言葉で批判したがります。それは、ナルシストが自分の弱みに耐えられず、それゆえ自分の周りの人の弱みも許すことができないから。
伊勢平氏おじさんがナルシストだということを今さら言ってきたのか?
それとも、多くの人たちがそう思っているように、わたしの依存を指摘してきたのか?
それとも、目の前の存在(伊勢平氏おじさん)は、未解決の自分自身のシャドウであると、わたしのナルシズムを知らせてきたのか?
なにわの審神者(さにわ)は、伊勢平氏おじさんとの関係を反対してこなかったレア存在なので、わたしに回心を求めていることは考えにくい。
後付けと言われようが、わたしはわたしなりに、自分が変えたい社会のカタシロとして伊勢平氏おじさんとの関係に取り組んできたつもり。
がんばった、とかでもない。
世の中をみんなのために変えたいとかでもない。
なんていうんだろ、この世の中はお芝居みたいなものだってわたしは思ってて、わたしは、わたしを全力で演じている。
台本も自分で書いている。
自分の都合のいいように。
わたしはこの世に生きるということは、芝居のようなもの、と思っているが、意識してそうしてるか、無意識のうちにそうしているかは人それぞれだけど、皆がそれぞれの台本で芝居をしているのだと思う。
わたしだって昔は無意識のうちにそうしてた。
わたし自身が、「わたし」を演じていると思わずに、人生に翻弄されて、いつも自分は被害者だと思ってきた。
でも、世の中は、そういうことになっている。
そして、わたしは「かわいそうな人」でいた方が、世の中は平和なのである。
両親が離婚して、父を知らず、親代わりの祖父は自死を選び、母は仕事一筋で成績以外のわたしのことは無関心。
両親ともに再婚して、特殊な家庭環境に生まれ育ったから、自分自身も離婚を繰り返し、子どもとも離別して、孤独感から自分を大切にしてくれない養父より年長のおじさんに愛されてもいないのにすがりついている。
そう思うほうが人は安心するようだ。
離婚しちゃいけない、
子どものために犠牲にならなければならない、
自殺しちゃいけない、
そういうルールでこの世の秩序は保たれている。
例外を認めると、秩序が乱れる。
夫婦別姓も、同性婚も、だから認めるわけにはいかないのである。
でも残念ながら、ルールはいつか壊れる。
そのままにしていては、そうならない。だからルールは作られる。
多様な社会に秩序をもたらすには、受容や寛容が不可欠である。
でもコロナでみたけど、まだまだ多様な価値観を受け入れながらいきていけるような寛容さを、人間はまだまだもちあわせていないように感じる。
太古の昔持っていたもの。
縄文ブームだけど、わたし、縄文の最も重要な特徴は、寛容だったと思う。
みえないものをみる力、聞こえぬものを聞く力。
どんなにそれらをキャッチしたとしても、受け入れることができなければ苦しい。
島って、何でも受け入れてきたもん。
琉球に支配されたときも、薩摩に支配されたときも。
でもきっとあるんだと思う。
最後には、道理が通る、っていう確信が。
自然ってそういうものなのだし。
まつりあわせってだから大事なんじゃないかな。
まつり。
祭、祀り、纏り、政。
スピリチュアルが流行って、みえないものや聞こえないものに気づく人は増えた。
でも余計に混乱しているように感じるんだもの。
だって、それを知覚する意識は残念ながら、過去の分離意識のままだから。
みんな、ではない。
今のマジョリティが。
大事なのは、受け入れる力だ。
多様化したら、受け入れる力がないと混乱する。
受け入れない自由があることも、わたしは受容してきたつもり。
だから社会の隅っこでひっそりと生きてきた。
秩序を乱さないように。
でもわたし、そろそろ地を這うミミズから、空飛ぶ龍になるよ。
だって、みんな「ありのままの自分」で生きたいでしょ?
「アナと雪の女王」でのびやかな歌声を披露していた神田沙也加さんが亡くなったったニュースも、
なにわの審神者(さにわ)が送ってきた記事みたいに、彼女の生育歴に結びつける人たちが多いだろう。
でも。
彼女を被害者にして欲しくないし、そういう風潮によって人生の被害者が増えないことを切に祈る。
彼女はすばらしいミュージカル歌手でもあったけど、彼女の人生もあざやかに演じきったと思う。
むしろ羨ましい。彼女が持っていた雰囲気は、彼女の特別な人生の賜物であっただろうから。
どんな人でも、しあわせでいられる。
他人から押し付けられる価値観が、あわなければ、そんなもの受け入れる必要はないのである。
これからの社会はそうなっていく。
今までルールをつくることで維持してきた秩序は、そのルールが増え過ぎて、そこに矛盾が生じておかしくなってきた。
だから社会は、起きること全部、受け入れるしかなくなっていくだろう。
その中で、新しい秩序を、生み出していく。
発言力のある誰かが作ったルールが、秩序を作るのではなくて、わたしたち、ひとりひとりの意識が、秩序をつくるのだ。
だから、もう、他の誰かのせいにできなくなる。
政治のせい、社会のせい、親のせい、会社のせい、
そういうのが、すべてなくなったとき、わたしたちは自分自身を取り戻せる。
伊勢平氏おじさんとの関係も、天竜に行った(赤と青の龍が出会う場所 〜ようやく天竜へ)あと、また変化した。
何度も行った砥鹿神社奥宮(安曇の庭に誘われて(安曇野から丹後へその2) 〜 三河国一宮 砥鹿神社 えびす祭
・ふたたび、豊橋へ(その2) 〜鹿と御津と三ツ石と)からの流れの天竜の磐座群だったと思われる。
どうもわたしは酔っ払ってからんだみたいだが、わたしはその30分(と、おじさんは言っている)だけの記憶がない。
レストランでのできごとも、店を出た瞬間までの記憶も、別れて駅から電車にのり、家に帰って、という全部の記憶があるというのに。
まちがいなく相当な拒絶にあったであろうと思うのだが、なぜか心が平和である。
いよいよ卒業が近いのかも。
人との関係が卒業を迎えるときは、わたしの心はとても平和なのである。
すべての離婚もそうだった。問題は、「相手はそうでなかった」というところであるが、自分自身は出会った意味を全て昇華できて、感謝の気持ちだけがあり、一切の執着がきれいに消えるので痛みはないのである。
なんなんだろう、自分の中に何かが入ってきて、ブレていない。
おじさんの叔父さんを夢でみた、っていってたから、そこからなにかきたのかな。
スピリチュアルな叔父さん。だったら物部の仲間なのかもね。だったらわたしとの縁はそこだもん。
たどり着いた、ってことなのかな。ようやく。
翌日落とし物の確認のために電話したとき、飲み過ぎをなじられたが、なんなんだろう、痛みを残さずにすり抜けていった。
しかも、おじさんは、わたしの落とし物を心配してくれ、
「みつかりました」って電話したら、
「みつかってよかった」と言われてそれも腰が抜けるほど驚いた。
落とし物はエルメスのスカーフだった。ありがたいことにみつかって、手元に返ってきたし。
柄は、コロンブスの新大陸発見のときの帆船「サンタ・マリア丸」。
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