雨上がり。
今日は空気が変わった東京。
窓からはもう薄くなった三日月が見えて、まもなく、新月なんだなと気づく。
表参道のお店のほとんどがついにシャッターを下ろした。
時短でがんばっていたフルーツパーラーの千疋屋さんもついに無期限休業に突入。
わたしがそれを知るのは、貼り紙に書かれていることであって、実際には目にしていない。
でかけるのは、経済活動が始まる前の、日の出の頃だからである。
わたしも含め、いろんな人がいろんなことを言う。
「思いやり」「やさしさ」の仮面をかぶっているからやっかいだ。
わたしは「思いやり」などから発信していない。自分は自分の身を守るために忖度する必要がないので、思うことは言おうと思っているだけだ。
他者に対するやさしさはないかもしれないが、自分に正直に言葉にすることを心がけている。
死ぬときに持って行けるものは、「他者の記憶」ではなく「自分の記憶」である。
「親切」の顔をして「〜してはいけない」とか「〜やらないほうがいい」という助言をくれる人がいるが、過剰な介入はごめんである。
わたしは衝動的にみえるかもしれないが、自分の行動に関して少なくとも善意の他人よりは何十倍も考えて行動しているのである。
東京に暮らしている以上、どんなに気をつけていても自分が「無症状感染者」である可能性が非常に高いことはわかっていて、自分のやりたいこと、と自分がすべきでないことを熟慮した上行動している。
もちろん、一歩も外に出ず、一切の消費活動をしないで、暮らせるのであればそれはそれでよいが、日用品や食品を買いに行く、ということはそれだけでリスクなのである。
外出して買いものに行かなくても、通販で届く品物にCOVID-19が付着して感染する可能性があるのだから、どの人だって感染リスクはゼロではないはずだ。
政府の緊急事態宣言を受けて、わたしたちは「不要不急の外出は控えるように」と自粛するよう言われている。
わたしは不要不急の外出は基本的にはしない。
普段からしない。
自分にとってそれがとても大切だから、どんなに遠いところでも、どんなに急であっても出かけるのである。
でも、今、それが許されるのは、日本だからだと思う。
日本人でよかった、と思う。
これが海外だったら、「禁止」なのである。
強制力がないから、憲法や法律を変えるべきだと言う議論があるが、それは安易すぎると思う。
わたしたちは、自分の行動にいつだって責任を負う。
自分の人生に、責任を負うのは、どんな非常事態であろうが、自分自身なのである。
わたしがたとえば、自粛要請を無視して飲み歩いて、誰かにコロナを感染させたとしよう。
するともちろん、非難も受けるし責任も問われるだろう。
でも、「自粛するように言われてたから仕事にいくのをやめてました」と言っても、きっと生活費や電気代を誰かが肩代わりしてくれることもないだろう(10万円はもらえるようだが)。
わたしたちは、誰かの言う通りにいきたところで、自分の人生の責任は、自分で負わなければならないのである。
それは、国との関係でも、親との関係でもおなじである。
「親が〜と言ったから」とどんなに言ったところで、自分の人生の責任を親が代わりにとってくれることはないのだ。
犯罪って呼ばれるものは、法律で禁止されてるけど、わたしたちが基本的に犯罪に手を染めないのは、「やっちゃいけないこと」をわかっているからだよね。
法律に書いてあるから、人を殺さないとか、盗まないとか、そういうレベルではないと思う。
それが日本人のすごいところで、誇り高きところだとわたしは思っている。