コロナのおかげで目がさめた  | かんながら

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旅の記録です

 
ロックダウンとはいわないらしい。
でもこの週末、表参道の主な店は閉まる(らしい)。
わたしはテレビも持っていないし、ネットニュースもほとんどみないので、そのことは昨日朝の参拝のときに顔見知りのご婦人に聞いた。
知らずに買い物にいくところだったからあぶないあぶない。
一応食料品売り場はあいているらしい。
食料品売り場しか行くつもりがなかったが。
 
いや、いちおう買おうと思っているものはあるが、たぶんこのまましばらくパーティや会議などはないだろうから必要なさそうである。
 

 

朝の景色は変わらない。

いつも会う人に会う。

減ったかどうかはわからない。

一時は、開門と同時に観光バスが入ってきて異様だったがそれもコロナ騒動のおかげでもとにもどった。

 

 

 

 

今年明治神宮は鎮座100周年の節目。

オリンピックもこの節目にあるはずだった。

なにかがずれてきているかんじがする。

 

 

 

東京オリンピック2020。

それが2021年開催。

東京オリンピックは東京オリンピックなのだろうけれど、なんかしっくりこない。

本当に?ってかんじ。

 

みんな本当は気づいてるでしょ。

やる前からそうだったもの。

 

世界中の人たちが今仕事を失って、旅行に行ったりする余裕をなくしているのに、

本当に外国人観光客がきて、アテにしている経済効果なんかあるんだろうか。

 

旅が日常であるわたしですら海外に行く気になれない。

もともと旅は地味に質素なわたしなので、ブランド品を買ったりということははじめからないが。

東京からの旅行者をすんなり入れてくれる国はなさそうであるが、これが収束したとしても、である。

みんな財布の紐はかたいと思う。

 

 

 

 

 

お金持ちの人は気づいていないかもしれないが、

庶民というのは、来月の給料が入ってくる前提で消費しているものなのである。

手持ち現金がないのに使う、という感覚は、お金持ちには理解できないのだろう。

 

 

江戸っ子は宵越しの金はもたない

と昔からいうではないか。

 

 

江戸っ子というのは、武士の皆様でもお公家様でもなく、庶民のことである。

 

今月の給料が入ってこないと、カードの支払いができないとか、習い事を続けられないとか、そういう状態なのである。

 

「緊急支援を5月末までに」という言葉であれだけ騒ぎになったのは、そういう事情なのだ。

 

 

それは、まるでマリーアントワネットが、「パンがなければお菓子を食べたらいいじゃない」といったのと変わらないかけ離れた考えなのである。

 

それくらい、「お金がないと困る」「働かないと生きていけない」と信じているからこそ、苦しくても辛くても、会社に行くのである。それはもう洗脳状態といえる。

 

 

 

 
学校が休みになって、食費が増えて困るっていう人だっているし、もっと悲惨なのは、学校の給食が1日1回の食事のような子どもだっていたし、家庭は暴力が絶えなくて、学校だけが逃げ場だった子もいるわけで、
 
そういう子たちの存在に気づいている人はどれほどいるのだろうか。
 
炊き出しが止まって、困っている家のない人たちのこととか。
わたしたち庶民は今みんな大変な状況の中にいる。
 
 

 

こうなってわたしは、気づいたことがある。

お金より、備蓄より、やはり一番安心をあたえてくれるのは、人の繋がりだよなって。

 

わたしはトイレットペーパーの備蓄もマスクの備蓄も、食べ物の備蓄もしてなかった。

トイレットペーパーは、狭い部屋に住んでいるので、しまう場所もないから買わなかった。

 

だいたい、コロナの場合、トイレットペーパーの使用量が増えるわけではないのだから、供給と消費量のバランスが崩れることは考えられし、不足することはないと思っていたし、友人に「トイレットペーパーなくなったらちょうだい」って言ってみたら「いいよ」と即答してくれた。

 

結局なくなる前に、普通に買えるようになった。

 

食料も、味噌も、魚も、野菜も、コメも

本当に困ったら送ってくれる、とみんな言ってくれる。

 

 

マスクも買い置きがなかったが、「これ一枚しかもってないです」って言ったら、近所の人が心配して新しいのをくれた。

 

 

 

 

 

備蓄ってあると安心なのかもしれない。

でもね、わたしは備蓄してないけど、とても安心してる。

 

だって心優しい人たちに囲まれているから。

夫が突然なくなったときも、散骨のときも、引越しのときも、そして今も、いつも困ったときには誰かが助けてくれた。

 

ほんとうにありがたい。

お金より、頼りになるのは人だと思う。

 

 

 

 

そんなわたしも、なんでもお金で解決できると信じていたときがある。

 

幸せもお金で買える、みたいな考えを信じてたことがあり、

水がまずければ、買えばいいと思っていた。

 

それが変わったのは、自然の中で暮らす何人もの友人の影響が大きい。

 

 

 

増えたぶんのなかからだけ、採って食べるという島の暮らし。

水を守るために森林を作る人。

自然を損なわないように生きようとする人たちの強さをみてだんだん変わっていったのだ。

 

自然を損なわないというのは、他のいのちを損なわないということだ。

そういうやさしさに触れて、自分もそうなりたい、と思うようになった。

 

わたしはまだそうなれていないけど、そういう人たちを素敵だと思うようになって、周りにそういう人が増え、今はわたしは一人暮らしで寂しいこともたくさんあるけど、

 

「おはよう」を返してくれる独身仲間もいて、とてもしあわせである。

 

 

 

 

本当に、働かないと生きていけないのかな?

こうなってもまだみんなそう信じて、備蓄のために消費するのかな。

そして、お金が必要だから、命がけで働きにいくのかな。

 

売り上げが落ちたからっていきなり仕事を奪われたりしたのに、

「だからこそ大変」って会社にしがみつくのかな。

 

みんな信じ込まされているだけなんじゃない?

「お金が必要」って。

 

お金に苦しめられている人ほど「もっとお金がほしい」病に冒されているような気がする。

 

 

コロナのおかげで、みんな本当に大事なものがなんなのか、目が覚めたよね。

わたしは目が覚めた。

お金はあった方がいいけど、お金を備蓄するより、信頼関係を備蓄した方がよっぽどたよりになるって。

 

 

不安なときにいてくれる家族のありがたみ。

友人のたすけ。

 

 

お金があっても、必要なものが買えないって体験をした

幸せも命もお金で買えなかった。

 

だから、もうお金を追わなくていいんじゃないのかな。

 

みんなが

 

「お金はいりません。だから働きません!!」

 

 

っていったら、一番困るのはお金に困ってる庶民ではなくてお金で労働力を買って、楽しているお金持ちなんだよ?

 

もちろんわたしのまわりのお金持ちの友人たちは、普段からわたしのような庶民とちゃんと対等につきあっている人たちだから、そんな状況になってもわたしを含めた庶民は「一肌脱ぐ」と思うけど。

 

 

 

お金より頼りになるものがある。

 

自然の恵み、そして助け合う心。

わたしはそれを大切にしたい。