最後の登廊(上廊)を上りきった先には、鐘楼があり、隣りに国宝・本堂が建っています。

登廊の先の、最後の所で鐘楼の下を潜るなんて、なかなか"オツな造り"です。
これは鐘楼を横(東側)から眺めたもの。

その向こうに、国宝・本堂の屋根が見えますね!
さあ本題に──といきたい所ですが、その場で、万葉歌碑と句碑を見つけました。
まずは、大伴坂上郎女の歌碑から──。

隠国乃 泊瀬山者 色附奴 鐘禮乃雨者 零尓家良思母
(こもりくの はつせののやまは いろづきぬ しぐれのあめは ふりにけらしも)
隠国(こもりく)の 泊瀬の山は 色つきぬ
しぐれの雨に 隣りにけらしも
(大伴坂上郎女『万葉集』巻8-1593)
私の尊敬する、大好きな、そして憧れの坂上郎女さん。
古代を代表する豪族・大伴氏の刀自として一族を統率し、家政を取り仕切ったトップレディで──。
『万葉集』には長歌・短歌合わせて84首が収録される代表的な女性歌人で、豊かな叙情性を備えた歌をいっぱい残し──。
特に、数多くの男性との間に恋の歌をたくさん残したのは、素敵ですよね!
坂上郎女さん。初瀬山に秋を告げる時雨が降った後の景色の中に、色づいてきた黄葉を詠んでいます。
その隣りの松尾芭蕉の句碑も見ておきます。

春の夜や こもり人床し 堂のすみ
『笈の小文』にある句です。
松尾芭蕉は、貞亨5年(1688)3月、ここ長谷寺でこの句を詠みました。
春の夜、観音さまにお詣りするために籠っている人が、灯かりも幽かなお堂のほの暗い片隅で、黙々と祈りを捧げています。
その光景には、心ひかれるものがあるなあ。
──幽玄な映像が思い浮かびます。
横道に逸れついでに、桜景色を──。
このブログをお読みの皆さまには、申し訳ありません。日が経ちましたので、今もう桜は散っているでしょう。
※その代わりに、牡丹はもっと咲いています。

これ(↑)は、本堂背後の三社権現(瀧蔵三社)の崖に咲く桜。
本堂から五重塔、奥の院、本坊と続く"U字型"の尾根は、東側の初瀬川が作る谷に向けて開いています。
その北側の尾根の東の端に能満院、日限地蔵尊のお堂がのっています。そして、日限地蔵尊の前から見下ろした桜と絶景です。

この写真では分かりにくいかも知れません。
もっと絶景でしたよ・・・。
国宝・本堂は、小初瀬山の中腹〈"U字型"の尾根〉の断崖上に"懸造り(舞台造り)"で建てられた南面する大きなお堂です。
内陣(正堂)は、桁行(間口)9間、梁間(奥行)5間、入母屋造り本瓦葺きの堂々たるお堂です。外陣(礼堂)は、内陣よりやや低く、桁行(間口)9間、梁間(奥行)4間、正面入母屋造り本瓦葺きです。
※下の写真(↓)は、内陣を横(東)から見たものです。
舞台(外陣)から見上げただけでは分かりませんが、遠くのもう少し高い所(弘法大師御影堂や奥の院など)から見ると、屋根の棟のちょっと複雑な(Good Designの)組み合わせが分かります。

特別拝観で、観音さまのお御足に触れてお参りする場合の、本堂(内陣)への入口が見えていますね。
本堂は、奈良時代の創建後、室町時代の天文年間までに、7回焼失しています。その後、豊臣秀長(秀吉の弟・大和大納言)の援助で再建に着手し、天正16年(1588)に新しいお堂ができました。
ただし、現存する本堂は、この天正再建時のもなではなく、その後さらに建て替えられたものです。徳川家光の寄進を得て、正保2年(1645)から工事が始まり、慶安3年(1650)に落慶しました。「慶安3年6月」に記された棟札によりますと、中井大和守を中心とする宮大工集団による施工であることが分かります。
※全国各地に、今に残る江戸時代前期の国宝建築物の数々と、中井大和守を中心とする宮大工集団との関わりは、たいへん"面白いテーマ"なんですが、書いていると数日かかりますので、今回はスルーいたします。
舞台から、外陣を見たものです(↓)。

これまで、尾根に囲まれた絶景を見渡すことのできる断崖上に、"懸造り"で造られた観音さまの居られますお堂をいろいろ見てきましたよね!
石山寺の如意輪観音がお立ちになられていた本堂。
大観音と小観音がおられました東大寺二月堂。
如意輪観音が安置されていました書寫山圓教寺の摩尼殿。
そして(現在修復中ですが)、千手観音立像がおられます清水寺の本堂。
みんな、観音菩薩さまが降り立つとされる伝説上の山・補陀落山(ふだらくせん)を表すものだとか・・・。
ですから、どれも崖の上の"懸造り"なんですね。

スミマセン(↑)。桜や楓やたくさんの樹木があって、舞台を支える柱の写真は撮れませんでしたが、本堂を見上げるとこんな感じです。
さて──。
「その2」でお話しました通り、長谷寺は、天武天皇の時代(7世紀末)、道明上人が銅板法華説相図を初瀬山西の岡に安置したことに始まります。
目の前を国道165号線が通りますが、これは古代からの初瀬街道にあたります。大和と伊勢、そして東国を結ぶ主要街道でした。壬申の乱の際、大海人皇子(天武天皇)が通った道でもあります。
その初瀬街道を見下ろす、大和盆地への入口にあるこの地が重要視されたのには、それなりの理由があるかも知れませんね。
そして神亀4年(727)、徳道上人が聖武天皇の勅願により、ご本尊・十一面観世音菩薩を東の岡にお祀りされました。これが、この本堂の場所です。
ご本尊・十一面観世音菩薩の造立については、次のようなお話が伝わります。
昔々、観音像を造ることを思い立った徳道上人は、道明上人にその意を打ち明けました。
道明上人は「近江国高島郡より来た楠の大樹が、初瀬の神河浦と言う村に放置されているから、それで仏を彫るとよい」と伝えました。
このブログで何度も言ってきましたが、近江国と大和政権には深い繋がりがあります。
藤原京の造営に「田上杣」が、東大寺造営に「甲賀杣」が開かれたように、近江国の木材が、大和盆地の建物を造るのに使われました。
その際には、びわ湖から宇治川へと木材を流し、そして木津川を遡らせた後、平城山丘陵を越えるのに人が引いて運びました。
初瀬川は、大和川水系なので、びわ湖から流れ出た木材が、初瀬の神河浦に流れ着くことは不可能です。しかし、この「霊木伝説」には、古代、大和政権と近江国の繋がりが背景にあることが見えてきますね。
話を戻します。
この楠ですが、触れた者は必ず祟られたと言う恐ろしい木でした。そのため、長年放置されていました。
しかし、徳道上人は「霊験あらたかな木こそふさわしい」と、ためらいなく楠を譲り受け、十一面観世音菩薩像の造立にあたりました。霊木は、祀られることで人々を守る仏さまとなったのです。
『長谷寺縁起文』には、天平5年(733)に「開眼供養会」が行われたと記されています。
それ以来、霊力を宿す長谷寺のご本尊は信仰を集め、「初瀬詣で(はせもうで)」と呼ばれるようになり、長谷寺は「観音信仰の霊場」となりました。
紫式部さんも、菅原孝標の女さんも、藤原道綱の母さんも、詣でたことは前回にも書きましたよね。
その後、十一面観音像は何度も火災にあい、その都度再建されてきました。焼け残った部分を像の体内に納めることで、霊は守り伝えられ続けてられているそうです。
現在の十一面観世音菩薩は、室町時代の天文7年(1538)に造立されました。
※本堂と同じく、7回目の焼失後に造像(再興)されたものですから、やはり8代目のご本尊になりますかね。
いつのことか忘れましたが──。
どこかの博物館で、『長谷寺縁起絵巻』を見せていただいたことがあります。この"絵巻"は、室町時代のものですが……。
霊木をとても印象的に描いた場面が、心に残っています。近江国の山中で、長さ十丈(30m)の楠の巨木が倒れているの天女が供養すると、白い蓮の花が咲いた楠場です。長谷寺観音信仰のもとが、霊木であること象徴した場面でした。
また、その霊木で十一面観音像を造っているところも印象に残っています。造像を担った2人の仏師の正体が、実は地蔵菩薩と不空羂索観音だったと言う場面です。2人の霊力で、観音像がわずか3日で完成したと言うことなんですが、、、絵巻の中では、"寄木造り"で造像してるみたいなんです。おいおい、奈良時代の霊木なら"一木造り"でないとアカンやろ。そりゃ、はよできるけど!──と、突っ込んだ覚えがあります。
話を戻します。
十一面観世音菩薩像(重要文化財)に、しっかりお祈りしておきました。それが、一番大事なことですからね!
像高10mあまりの大きな観音さま。右手に錫杖、左手に水瓶を持って、方形の大磐石の上に立たれる「長谷寺式十一面観音菩薩像」です。まさに迫力十分、威厳を十分な観音さまです。
錫杖を持たれる観音さまって、珍しいですよね。普通は、お地蔵さまが持っておられるものですからね。
錫杖は、「煩悩を取り智慧を得ることができる」と言うアイテム。それだけ、特別なパワーを持たれた観音さまと言えますよね!
大きすぎるので、普通に外からお詣りすると、観音さまの上半身しか見えません。でも、お顔(お姿)を拝見させていただくだけで十分です。
長谷寺の「メインテーマ」が、ずい分長くなってしまいました──予想通りですけど──。
ですので「次に続く」──ことにいたします。
最後に、本堂の舞台から五重塔の方を眺めた写真を載せておきます。

谷を挟んだ向こう側、五重塔辺りが"U字型"の尾根が形づくる地形の奥になります。
その話は、また次回に・・・。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。