しかも、1回目はだらだら長い説明になってしまいました。反省です。
怒られる前に、なるべく手短かにしたいと思います。終了までご勘弁ください。
琵琶湖対岸の大津からも美しい姿を見せる三上山。なだらかな稜線が美しく、「近江富士」とも呼ばれています。
打ち出てて 三上の山を 詠れば
雪こそなけれ 富士のあけぼの (紫式部)
富士と言っても、火山ではありません。地理・地学的には、残丘=浸食から取り残され孤立した丘陵です。高さ432m、高く見えるのは、孤立した地形のせいでしょう。
山頂部に岩盤があります。古代より信仰の対象となった山にはよくあります。山の中の岩座の話は、また別の山でします。
古来より、近江・湖東のランドマークとして、また麓の村の神体山として、崇められてきました。
藤原秀郷(俵藤太)の大ムカデ退治の舞台との言い伝えもあります。

上の写真では切れていますが、「昭和天皇悠紀斎田地」とあります。
天皇が即位して初めて行う新嘗祭は、一代一度の大祭なので、大嘗祭と呼ばれます。祭場を東西二ヵ所――東を「悠紀」、西を「主基」――に設け、神に供え天皇自身が食べる新穀は、予め卜定しておいた二つの国の斎田から届けられました。
「悠紀」は京都より東、「主基」は西の諸国から選ばれました。近江は、宇多天皇(888)から孝明天皇(1848)までの約10世紀間と昭和天皇の大嘗祭(1928)で悠紀斎田に選ばれました。
三上山の前のこの田は、昭和天皇の大嘗祭で「悠紀斎田」に選ばれたものです。そして、記念田として残され、毎年5月には、菅笠と赤の奴袴姿で田植え(「お田植え祭」)が行われます。
三上山の登山ルートは、3本あります。
表参道は、正面からほぼ真っ直ぐ山頂を目指す道。岩場を通りますが急坂です。裏参道は、ゆるやかな道です。裏(東)の近江富士花緑公園から登るルートもあります。山頂からは、琵琶湖、比良の山々、天候によっては生駒の山も見ることができます。
さて、裏参道の入口の柵近くに、「天保義民の碑」が建てられています。
「検地を10万日延期する」という約束を勝ち取った「近江天保一揆」については、つい先日、一揆の集合場所だった神社=矢川神社のところで、詳しく書かせていただきました。
これは、明治28年(1895)建立です。

平成4年(1992)横の祠を新築した際、一揆の指導者・三上村の庄屋・土川平兵衛の辞世の歌碑が建てられました。土川平兵衛は事件後、江戸送りになり獄死しています。

人のため 身は罪とがに 近江路を
別れて急ぐ 死出の旅立ち
幕府側も、五尺八寸の長さの竿に六尺一分の目盛りをして検地をするなんて、よっぽど年貢をたくさん取りたかったのですね。
物価が上がっているのに、給料が上がっているから景気がいいと言い張って、消費税を上げようとするどこかの国の政府もありますが……。
古来より、三上の山を神と崇める社があったのでしょう。また、この辺りを治めた人たちの信仰の拠り所でもあったのでしょう。
『古事記』にも見られる御上神社は、歴史のある神社です。

奈良時代、藤原不比等が社殿を造ったという記録もあり、平安時代の『延喜式神名帳』にも記載があります。
国宝・本殿は、記録がなく正確なことはわかりませんが、おそらく鎌倉時代のもの。屋根を見ていただければわかりますが、入母屋造り。さらに漆喰の壁や連子窓など、まるで仏教寺院の本堂のような本殿です。
美しい屋根、回りの木組みでも力強さ、優美な建物です。

前にどこかの回で、名前を伏せて、楼門、拝殿、本殿の写真を載せました。

楼門、拝殿、また摂社若宮神社本殿は、鎌倉時代から室町時代の建築で、重要文化財に指定されています。
三上山に登られる際、御上神社にお詣りして、初穂料=入山料を納めてから、出発してください。

境内には、句碑があります。
文字がはっきり見えますので、写真のみに……。
また、長くなってしまいました。
続いて、別の所へ!