かわいい系のゲイはまさにジャニーズ系
物語が進み、『ゲルマントのほう』で彼が話者に対して保護者ないし指導者の役を買って出るあたりから(H、五八一-五八二)、相手が思いどおりにならないと知って怒りを爆発させる(H、八四三-八四八)に及んで、彼の本性はもう暴かれたも同然となる。 ヴィルパリジ夫人が、話者がシャルリュスと親しくなれるのを喜んでいると知って、心配顔になる(H、五八〇)のも無理はないのである。 『ゲルマントのほうH』第二章冒頭の目次ふうの要約には、「私はますます彼の性格がわからなくなる」とある。 だが読者からみて、思うさま憤怒に身を委ねながらも泣かんばかりにかき口説き、高慢・侶傲にして繊細・柔弱なこのときの彼は、これまで積み重ねられてきた男女両性者のイメージを完成させるものにほかならない。 シャルリュスの姿が明確になるにつれ、その「同性愛疑惑」の濃度はしだいに高まる。 そして、『ゲルマントのほう』も終わりに近いこのシャルリュス邸の場面で、濃度が十分な高さに達したちょうどそのとき、『ソドムとゴモラ』冒頭での、あの全面的な顕現が行なわれるのだ。 前にすこしふれた、ドイツ首相フアツフェンハイム大公の小さなエピソード(H、七九九-八〇〇)にも注意を払っておこう。
ビデボでゲイとの出会い
「えん?」「だから忘れてもちゃんと手もとに戻る」「なるほど」佐伯さんは笑った。 「そうかもしれない。 だけどめずらしいね、きみの歳で縁なんて言葉が出てくるの」祖母が云っていたのを思いだしたのだ。 人と人も、人と物も縁でつながっている。 大切にすればするほど縁は深まる、とかなんとか。 説明したかったが、ぼくはすでにめろめろだった。 ペンを内ポケ″トにしまった佐伯さんがコーヒーでも飲もうかと誘ってくれたけれど、明日までに書かなければいけないレポートがあるからと云って断った。 それ以上そばにいたら、身体のぐあいが変になりそうだったのだ。 「そうか、じゃあまた」まっすぐな背中がこっちを向いた。 大きい人は歩く効率もいいのか、あっという間に遠くなっていった。 ずっと見送っていたけど、いちども振り返らなかった。 一分かそこらのあいだ、自分だけに向けられていた彼の言葉、しぐさ、笑顔。 その晩は眠れなかった。 なんども思い返し、最後は必ず去りぎわの背中に行き着いて打ちひしがれた。
かわいい系のゲイはまさにジャニーズ系
「でも、別れたんだ」「ええ」「式挙げたの」「挙げました」「じゃあ神さまの前で誓ったんだよね、死ぬまでいっしょにいるって。 なのになんで別れるの?」云ってもしかたのないことを云っているのはわかっている。 「無責任だって思わなかった?」姉とあのひとが別れたのは、あのひとだけの責任じゃない。 「しかも、子供までつくってさ」自分にこんなことを云う資格はない。 「知ってるよ。 経験つめば感じてなくても勃たせられるんだってね。 俺なんか一生ないと思うけど。 友だちとしてすごい好きだって思ったって、カラダはぜんぜん別ものだったもん、俺は、」「やめてください」びくんと顔をあげると、眼光に射抜かれた。 「あなたは、なんにも知らない」「……」「何も知らないひとに、彼女とのことをそんなふうに云われる筋合いはない」そのとおりだった。 でも、この先自分がどうなっても、女と結婚だけはありえない。 それだけは神にも誓える。 ひとりよがりと云われようと、許せない。 愛するひとにそんな過去があるということは。 「許せませんか」聞こえたように、男が云った。 許せない。 決然とそう云えない自分がいた。
女装子(じょそこ)のゲイを只今必死に探しています
列挙されたこれらの特性はほとんどそのまま、クラフト‥エビングが同性愛者について用いた言葉であるという。 ガストンーガリマールの伝えるところによれば、プルースト晩年のあるとき、シードがプルーストに苦言を呈したことがあった。 「あなたは、問題を五十年も後退させたのですよ」。 プルIストは答えたという。 「私にとって、問題なんてないんです。 作中人物があるだけなん乙ご確かに、シードと違ってプルーストは、同性愛について一つの理論を立て、世間を説80得するつもりは何もなかった。 彼にとっては、文学作品を作ることだけが目的なのであった。 人間のドラマを多角的に描き出すためには「ゲイ」という一類型を無視することができず、そうなると自分から割り出し、調べた結果にもとづいて、自分の気質にいちばん近い同性愛者を造形するほかはないのであった。 プルーストがことさら病気としての同性愛研究にばかり集中したのではないから、性科学者のいまわしい言説に嫌悪を催す瞬間があったとしても驚くに足らない。 ポールーモーランが報告するのに、プルーストはクラフトnエビングの『性的精神病』について、「恐ろしいことだ、悪徳まで今や精密科学になってしまった」と洩らしたことがあった。 またやはりモーランの回想によると、ベルリンから帰ったモーランが、ヒルシュフェルトの著作をプルーストのもとに届けたとき、プルーストは本に目もくれないで嫌らしそうに突き返したという。
バリウケでガテン系な俺の悩み日記
ヒトラーはシャルリュスに一脈通じる傲りと貴族性、あるいは自己の神格化によって特徴づけられ、シャルリュスにもまたヒトラーによく似た妄想傾向や誇大癖がみられる……。 同性愛者シャルリュスの普遍性については、これから先もしばしば見る機会がある。 ヴォートラン、リア王、フォルスタッフ、タルチュフ……。 あるいはスカパンやドストエフスキーのスタヴローギン。 古今の文学に屹立する人間像と比較されることの多いシャルリュスは、現実世界を震憾させた巨大な姿とさえ比肩しうるのであろうか。 同性愛的人間関係「同性愛が多くの場合、社会的非生産・怠惰・非行と結びついているのは明白な医学的事実だ」というたぐいの、あまり信用の置きにくい言説は論外としても、社会における同性愛の位置づけについては、社会改革のうえで確たるイデオロギーを掲げる立場から、かえって批判的な主張が行なわれる。 古くはプルードンにとって「ソドミーは人類の退廃の極みであり、犯罪の最たるもの、あらゆる社会が鉄と火を用いて追及すべき怪物」であり、エングルスは古代のギリシア人について「彼らはガニュメデスの神話とともに、おぞましいペデラスティに溺れ、彼ら自身のみならず神々の品位をも落とした」と断を下した。 いささか意外の感は蔽いがたいが、かつていわゆる新左翼の理論家であったマルクーゼもまた『エロス的文明』において、歴史のなかでの同性愛抑圧の正しさを語る。