空襲 | Polaris(ぽらりす)

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風の赴くままに

数十年前の今頃は、アメリカからの空襲が相次いでいました。

少しネット上で情報を探してみました。

 

1944.6.16:北九州…主にB29

1944.7.8:大牟田…B29 1機

1944.8.20:小倉

1944.8.20:八幡

1944.11.21:大牟田…B29 8機

1945.3.27:大刀洗…B29

1945.3.31:大刀洗…B29

1945.5.14:久留米…F6F 数十機

1945.6.18:大牟田…B29 116

1945.6.19~6.20:福岡…B29、60機

1945.7.27:大牟田…B29 124機

1945.7.27:久留米

1945.7.28:久留米…P-47

・【1945.8.6:広島…原子爆弾】

1945.8.7~8.8:大牟田…B24 23機、P47 18機

1945.8.8:八幡

1945.8.8:大牟田

1945.8.8:久留米…P-51 2~4機

・【1945.8.9:長崎…原子爆弾】

1945.8.11:久留米…B-24 53機、P-51 16機

1945.8.11:久留米…P-51

1945.8.12:久留米…P-38 7~10数機

・【1945.8.14:ポツダム宣言受諾決定】

・【1945.8.15:玉音放送で戦争終結を発表】

 

約1年間の怒涛の空襲。

北九州・久留米・大牟田の工場系を中心に何回も空襲が行われていたようですね。

 

ちなみに私の祖母の実家も、これらの空襲で焼失しています。

 

戦時中に生存していた方たちから、様々なお話を聞かせて頂く機会がありました。

 

最初にB29が出撃している様子が見受けられます。

アメリカも余裕だったわけではなく、ほぼ試験飛行に近く、B29の整備不良なども相次いだ様子が様々なサイトで分かりました。

中国にて給油のため数日間動けず、燃料を借りることでインドに戻っていったようです。

 

空襲の際には、大刀洗飛行場の物資輸送トラックの運転手が急遽招集され、強烈な臭いのするご遺体を荷台に沢山乗せ、何度も搬送したという話を聞いたことがあります。

 

自宅付近に焼夷弾が突き刺さり火を噴いていたという話。

 

終戦間近になるころには、家の床下に作るように指示されていた防空壕の使用禁止(上で家が燃えると中で蒸されてしまう)が行政から発布され、山などに防空壕を作る等の対応や、衣服や食料をそちらに移すように指示があったそうです。しかし実際に空襲を受けた時には逃げ場を失い、やむなく軒下の防空壕に入り、結果、蒸された状態になり命を失った人が多かった。

 

橋を渡り逃げ惑う人を飛行機が機銃掃射した。

 

飛行機が低く飛んだため、操縦している外国人が笑っているのが見えた。

 

大牟田空襲は夜だったため空が赤くなっているのがよく見えた。

 

今でも花火の音が焼夷弾の音と聞き間違える。

ヒューーーという音が焼夷弾が落ちて来る音と一緒。

 

あの時の臭いは今でも忘れない。(おそらく焼死の臭い)

 

あの花火を純粋に楽しめるのは、平和慣れしている証拠なのかもしれません。

 

大空襲も大災害も、とても言葉では表現しがたいものが多く

そういう話を聞くのも気が引けるので、最近はあまりそういう話題を振らないように気を付けてます。

 

語り継ぐのは、本人から話した時か行政等の専門機関に任せて、やはり「今」の話をした方がいいなと最近は思うようになりました。

 

まだ、ウクライナへの侵攻が続いていますし、

ガザ地区での紛争も続いています。

 

みんな、正義で戦っているんですよね。

お互いが正義なので、引けない。

 

 

ふとあの本を思い出します。

 

世界で最後の花/村上春樹

 

一般書/単行本としての販売ですが、絵本。

パラパラ~と読んで見てしまえる内容なのに、

なんだか心に残る感じが何とも言えない。

 

 

人災が起きた話をしたところで…

 

…週間天気予報によると、

週半ばから雨が続きそうです。

 

「火」の話から、そろそろ「水」の話にうつる時期になってきました。

 

どうか今年は水害が起きませんように。

 

参考・引用