スタッフ矢野です。

6月3日に、イベント「水俣・長崎から福島へ 世代や地域を超え語り継ぐこと」を開催しました。イベントの後半におこなったパネルディスカッションの様子をお伝えします。

前半の記事はこちら。

 

 

パネルディスカッションのメンバーは、水俣病センター相思社の永野三智さん(オンライン)、学習旅行に参加した福島からのAさん(お母さん)、Bさん(専門学生)、Cさん(高校生)とスタッフで参加した深草、松本、矢野の3人です。

 

 

 

 

 

永野さん:私たち相思社や、水俣の人間にできたことは本当にわずかなんですけれど、その中からとても多くの事を学んでというか、私たちからも引き出してもらったし、いろんなこと感じていただいたんだなぁと思って、いい企画されましたね。
 長崎では、78年経っても今もそれが語り継がれているという中で、一方で福島・水俣の事も同じように考えていいと思うんですけど、タブー視されていたりだとか、それを語り継ぐということが、なかなか前に進まない、どんな違いがあるのかなと、今私の中で生まれた問です。
 自分なりに考える時に、加害者がはっきりしている。長崎も福島も水俣も加害者がはっきりしているんですけれども、福島・水俣の場合は国、国策企業というか、国が加害者で、そこをせめるという、自分たちの加害性を突き付けられた時の弱さ、というのが、私たちの経験を語り継ぐとことを、それが前に進まない一つの理由なのかなと思いました。

 今水俣では、次々と人が亡くなっているんですよね。4日前も、とても愛してくださった近所のおばあさんが亡くなってしまって、その人は、患者家族で、ずっとその家族を支えてこられた方ですけれども。
 痛みを持った人たち、自分の痛みを語る人たちが次々と亡くなっていく、その人たちを形成してきたものというのは、時代とか、そこで戦った事であったり、出会った人であったり、そういう人たちで彼らのほんとに熱量とかしなやかさとかに、本当に私たちは支えられながら、刺激受けながら、やってきたけれども、その人たちが亡くなっていく中で、その人たちに話を聞いていて、こうだって理解してもですね、理解しても、次に再確認しに行くと、誤って理解していたりとか、思いたいように自分の想像を膨らませていたりすることがあるんですよね。

 さっきおっしゃっていただいたことの中で、すごく印象深い言葉があったんですけれど、「当時の人たちの苦しみは、当時の人にしかわからない、経験した人にしかわからない」ということを、今まさに私も思っていて、どうしたらいいんだろうって悩んでいるんです。けれども、それでも伝えてもらう、そして伝えてもらった人を媒介にしてしか伝わらないことというのがあって、さっきBさんが話してくださったことが、今私がきいている中で、実感していることととても重なっていて、本当に語り続けてほしいし、語ることに疲れてしまったら、一度休んで欲しい、というか止めてもいいよと思います。その時はその分私が頑張りますし、私が疲れたらBさん頑張ってください。

 

 

矢野:AさんBさんから、福島12才と出たのですが、長崎は78才ですが、水俣は何歳ですか?

永野さん:すごく難しい、68年です。何年か前に水俣病患者の30名ぐらいの方と旅行にいったんですが、隣に座ったおじいさんから「水俣病が始まって何年たつか知ってるか」と聞かれ、1956年(昭和31年)からかと答えたら、水俣病は1953年(昭和28年)に始まったんだと言われた。家の隣のお父さんが狂ってしまって助けを求めにきたのが28年だったから、その時から、水俣病はこの年から始まったんだ、と。

 

 公式確認ってなんなんだろう、それはおかみが決めた確認であって、その年その月中心に回っていく社会、ていうのを自分自身がそうなんですけれども、それに疑問を持った出来事だった。例えば、漁師が初めてチッソ汚染水チッソが海を汚染したと訴えたのが、1923年なんです。100年前です。そしてチッソが、メチル水銀を流し始めたのが、1932年。そうして最初の患者らしき人が見つかったのが、熊大の研究ですが、1941年。ほんとにいろいろな始まりがあって、何歳というのが私はわからないのですが、公式確認でごまかされないと思っています。

 

 

矢野:水俣病患者でツアーの時にお話しを伺った杉本さんにも語れないことがたくさんあるのではないかと感じました。

永野さん:マテ貝をある患者の人と取りに行った。いろいろな症状があるのですが認定されない方なんですが、ひどい症状でご兄弟を亡くされていて、周りからほんとひどい目に合われて、今は水俣を離れていらっしゃるんですが、時々相思社にいらっしゃって、お話をするんですね。(その人が)自分の近所で若い水俣病患者の話を聞いた。そしたら、その人はほんとに淡々と水俣病のことを語る。だから、ほんとうの水俣病を知らない、そうでなければあんなに淡々と語れるはずがない。私ほどの苦しみをあの人は味わっていない。と言われた。

 そのお話をした本人は私がその人のことを知りたいと思い続けてきかたなんです。それなりに、知ったことや、知らないこともあるのですが、ほんとうに苦しい身の中で語っていらっしゃるんですよ。見た目は淡々していらっしゃるのですけれど、語れるということはその人の経験のごくごく一部なんですよね。語れるようになったことしか語れない。

 相思社で15年話を聞いてきて、ほんとについ先月、初めてその方から聞いた話があって、とてもそれは苦しい、とてもとても人には話せない墓まで持っていこうと思っていたという話もあります。15年聞いても、聞けない話もあれば、聞ける話もあれば、そのまま亡くなってしまう、というところで、やっぱり人はちゃんとそこに壁を作っていて、安全だと思った瞬間にしか語らない語れないことがあるんだと思うんですよね。

 私が大事にしている言葉に「ほんとに語りたいことは本当に語れないこと」という言葉があるんです。杉本さんがどうかということは、私はわからないし、もしかしたらご本人にもわからないかもしれないんですが、その壁はあっていいと思います。そうでないと壊れてしまうと思っていて。自分のその壁というか、いくつもいくつもの扉の先にようやく真実がある、そのいくつもいくつもの扉というのは、自分を守るために大切にしてもらいたいなって思います。

 

Bさん: 永野さんに対しての感想ですが、当日お話を聞いた際にも私が感じたことだったんですけれども、自分が水俣病・公害病について知ったのは中学校の時の社会科の授業の時。実際にひどかったと聞いていたのは、新潟の方のだけ。今回九州旅行に行って、永野さんの話を聞いて、埋立地があって、今こんなひどい状況だと知れました。

 


 

深草:先ほどから、語れることと語れないことがある、そしてやはり過去を振り返ることが大変なこともあるとCさんもおっしゃいました。Aさんも12年目の福島と言っていましたが、10年20年30年、今78年迎えた長崎や、もしかしたら100年前からかもしれない水俣ですが、その中で人々が培ってきたこととか、語り継いできたことを見て、勇気をもらったというコメントは私の心に響きました。

 同時にFoE Japanというのは、一緒に現地の人と活動して、声を聴いてということを大事にしようとしているので、永野さんに学ぶところがたくさんあるんですけれども、いかに寄り添って声を聴いていくか、言えない人たちにどう寄り添っていくかというのを私たちは考えて、ぽかぽかという活動も続けていかなくては思います。

 

松本:永野さんのコミカルながらも芯をついた語り部の活動に同行させていただき、印象的でした。伝えるということに疲れてしまう、自分もそうかなとおもうのですが、永野さんにもそんな経験がありましたか?

 

永野さん:相思社に是非来てください。私は弱い人間です。突っ走っては倒れ、突っ走っては倒れ、その間にちょっと休憩しという人生をずーと送ってきているので、よくわかります。

ちょっと悩みたいな、考えたいな、本当にゆっくり物事を考える時間とか時期が、その人を本当の意味で育ててくれると思うんですよね。そういう時間が、今なかなか大事にされていなくてとても残念なので、そういう時間を少しでも持てる手伝いをしたいなと、私自身がそうやって助けられ続けてきたんですよね。安心して迷惑をかけあえる社会というのが私のモットーなので、どんどんかけてください、でも私もかけます。

 

参加者からの質問:浸水護岸と埋立地は同じですか?

永野さん:同じです。

 

参加者からの質問:大牟田に第三水俣病があります。

永野さん: 今ちょうど、大牟田市に来ているんです(永野さんはZoomでイベントに参加)。三池の炭鉱があったりとか、いろんな化学工場がたくさんあった地域ですが、ここでも第三水俣病、そして徳山湾でも水俣病など、いろいろな地域で水俣病が発生しています。

 当時7社8工場、水銀を使ったところがありました。それを日本は、国は、火消しをしようと必死になって、そんな中で水俣病の認定基準を変えるという水俣病患者を増やさない方針を立てるということをしています。ちょうどこの出張のさなかに、FoE Japanのイベントにお声がけいただき、運命を感じています。こうやって消されていった公害がたくさんあるんだ、そういう公害のためにも私たちが活動していく意味があるんだと思っています。
 

矢野:今回は、水俣でお茶やミカンを作っている人が被害者と結びついているというのを見せていただきました。

 福島でも頑張って復興している人たちと、被害を感じている人たちが、手を取り合えるような、悩みはものすごく違っても、手を取り合える用になったらいいなと、相思社での出会いから考えさせられました。

 

アイリーン・スミスさんからのビデオメッセージ 

動画はこちらをご覧ください。
 みなさまこんにちは。出席できなくて残念です。アイリーン・スミスです。

 私は20才の時に水俣のことをはじめて知りました。そして21才の時から3年間、写真家のユージン・スミスと、私も写真家になって3年間、水俣の写真を現地で撮りました。

 当時患者さんは、加害企業のチッソに法的責任を認めさせるために戦っていました。それを目撃したのが私はすごく自分のためになりました。いろいろな意味で私は水俣によって救われたんです。

 その大きな一つはちょうど私が23歳になるちょっと前だったのですが、1973年3月20日、患者さんの裁判が初めて勝てたんですね、ほんとに長い時間かかったのですが、加害企業のチッソが法的責任を取らされました。それでちゃんと保証金もおりたんですけれども。

 その時私がすごく感じたのは、いろいろな種類の人たちが集まってきて、患者さん、被害者が立ち上がってですね、いろんな人が応援する、いろんなタイプの人なんですね、普通一緒に仕事しないような人たちと仕事して、そうすると人々ってすごいことが出来るんだなぁと体験しました。

 私が是非お伝えしたいのは、やはり、「水俣と福島の企業と国の10の手口」というリストを書きましたが、ひとつ大きいのは被害者を分断させちゃう。被害者というか被害を受けた人が、いかに分断しないか、それがすごく大事だと思っています。思いはいろいろ違うわけですよね。水俣の場合は救済を求める人たちが今でもいて、水俣病終わっていません。今、新潟と水俣と合わせると9件も裁判が続いているんですよね。

 それと、認定制度もすごい遅れていて、50年間変えていないんです。科学医学もいっぱい新しいことがわかってても。

 後、法律で求められている2009年から義務付けられている環境疫学調査をですね、国は今でもやっていないんです。そんな中で救済を求めている患者さんがいます。同時に水俣を復興させようと新しい明るい街にしたい、ほんとにエコな水俣にしたいという思いの人たちがいる。でも、やはり分断になってしまっていて、こっちを応援したらこっちを応援していないみたいになっちゃっているんですよね。

 私は映画MINAMATAが上映されるときに水俣の市長さんにお手紙を書いたんですけれど、暖かく現地の被害者を応援するのと、水俣を明るく発展を考えるっていうことは、相反することじゃないと、本当は相乗効果を感じる。

 福島でも復興ということと、被害を訴えるのと、被害を訴えたら復興の足を引っ張っちゃうとか、復興と言ったらと被害者に冷たくなっちゃうとか、そうならないようにしておくことが今、とても大事だなと思っています。

 私は原発の問題に1980年から関わってきています。福井県の敦賀原発のすぐ近くの舞鶴の8万人の人たちを私たち京都市が6万人受け入れることになっているのですが、その避難計画が全然できていない。近くに住んでいたら、ほんとに心配だということで、真出のママたちと5㎞県内でチラシをまきました。行ったらやっぱり海岸がすごくきれいだし、周りの花がきれいだし、人と話が出来てほんとにリアリティーを感じたんで、こうやってほんと現地を歩くというのはすごく大事だと思います。
 

 今福岡の高裁の前に来ています。今日、水俣で当時幼い子どもだった人たちが、今でも水俣病を訴えても認めてもらえないので、裁判をしています。今日が高裁での2回目でした。このように、50年経っても半世紀以上たっても、公害の被害者は闘わなくてはいけない、だから、いかに小さな子どもたちを守ってないか、そして絶対に守っていかなくてはいけない。福島でも同じです。この福岡高裁では7人の当時赤ちゃんだった、小さな子どもたちだった、人たちが戦っています。

 東京では、福島の原発事故の時に6才から16才だった子どもたちが7人、同じく7人ですね、東京地裁で甲状腺がんになったと(原発事故のせいで)、ちゃんと認めてくれと裁判をしています。そういう風に半世紀分かれて両方の戦いが続いています。

 次回の福島の裁判は6月14日水曜日2時から、私ちょうどいけないのですが、両方の裁判見守っていきたいと思っています。

 ありがとうございました。

 

続きは「第1回水俣・長崎学習旅行 総会イベント報告 その3」をご覧ください。