スタッフ矢野です。

6月3日 FoE Japanの総会前のイベント 「水俣・長崎から福島へ 世代や地域を超え語り継ぐこと 」 を開催しました。

「福島ぽかぽかプロジェクト」の一環として4月に実施した「水俣・長崎学習旅行」の参加者とスタッフ、そして水俣の街歩きツアーの案内をしてくださった相思社の永野さんが、オンラインで参加、事前学習会の講師をしてくださったアイリーン・スミスさんからビデオメッセージをいただきました。

 

 

 

始めに、矢野から福島ぽかぽかプロジェクトの簡単な説明と、学習旅行を計画した理由を説明させていただきました。

「福島ぽかぽかプロジェクト」は、2012年1月より始まった保養プログラムです。
福島第一原発事故以後、様々な団体が、放射能汚染が少ない地域に一時的に子どもたちを受け入れる「保養」に取り組んできました。FoE Japanは、他団体と協力し「ぽかぽかプロジェクト」を立ち上げ、現在も多くのおやこが参加しています。土湯温泉、南房総、猪苗代と、12年間で参加者数は延べ5050名になりました。
 福島では原発事故後、放射能や健康影響の不安について率直に語り合うことができない空気があり、そのことが父母たちの大きなストレスとなっています。「ぽかぽかプロジェクト」では、子どもたちに思いっきり野外で遊んでもらうことに加え、親たちがリラックスして、ふだん語れない不安や疑問について語り合い、共有する場を提供してきました。
なぜ、「水俣・長崎学習旅行」を企画したのかと申しますと、原発事故から10年以上が経ち、国や県が復興の名のもとに「放射能は怖くない、福島は安全です」と声高に叫び、放射能副読本なる教育教材を使って、原発事故など終わったかのように全国の子どもたちに教育しています。そんな中、ぽかぽか参加者のお母さん方から、子どもたちに教えたいのだけれど、どう伝えたらいいかわからないとの声が多くあがりました。また、各地の活動報告会に呼ばれる中、福島のお母さん方と広島や長崎を訪れた折、お母さん方が原爆の被害の中、子育てをしてきた広島・長崎の人たちに深く興味を持ち、一歩下がって自分を見つめる姿を目にしました。
水俣と長崎を福島のお父さんお母さん子どもたちと一緒に訪れたい。ショックを受けるかもしれないけれど、自分たちの目で見て、自分たちの耳で聞いてほしい。3年前に計画しましたが、コロナ禍により中止を余儀なくされて、ようやくこの4月、実現できました。
今回、熊本・水俣・長崎を3泊4日で回るハードスケジュールでしたが、現地のグリーンコープの皆さんが、準備・協力してくださり、被害者のお話や同年代の方々との交流会など、普通は経験できない貴重な体験をたくさんさせていただくことが出来ました。


6月3日のイベントの様子をお伝えします。

 

  


ゲストの永野さんのお話し(抜粋)
「水俣病センター相思社の永野です。水俣病センター相思社は1974年に設立され、活動の3つの柱は、①水俣病を伝える、②水俣病患者との付き合い(相談というより同じ目線でお話を聞く)、③水俣業被害地域支援です。水俣病歴史考証館の運営に一番力を入れています。資料館という名にすると、終わったことになってしまう、歴史になってしまう。考証館は、考え明かしていく館、水俣病事件の歴史を材料に現代を社会を検証していくという意図で、初代理事長であり患者であった川俣輝夫が名付けました。水俣病によって、人間・自然環境がどういう風にして汚染され、そして傷つけられていったのか。そして加害企業、ほんとにひどいことをして成長して、成長し続けたんですね。人権を無視したことをしながら、成長していった企業が、水俣病を引き起こした。そして、国、科学者が、原因究明をそうとう遅らせています。この人たちの責任は本当に大きい。被害者の訴えを抑圧していった歴史であったり、政府の解決策、その解決策に何が足りないのかをそういったことを被害者の立場から告発した資料館:考証館です。」

「10年以上前、私が初めて案内をさせていただいた福島の方は、高校生でした。案内をする中で、いろいろな質問があったんですが、私、その質問に上手く答えられなかったんです。今の社会と、あの水俣病事件が起きた時の、あの排水を止められなかった漁民たち患者たちの声に耳を傾けられなかった、その訴えを聞くことができなかったあの状況と放射能汚染の起こってしまった状況下にいる、自分たちのこの状況と何が変わったんだって。
水俣病事件を二度と繰り返さないと思い、水俣病を伝え続けてきたんですよね。それ以上に大きいことが現在進行形で起こってしまった。その状況で高校生たちと水俣を見て回って、水俣病の歴史を追っていくことが、その高校生たちと福島の未来を追っていくというか、水俣病事件を追体験していくことが未来を照らしているように思えて、それを伝えることが、高校生たちにその苦しみとか、負担を強いることになるんじゃないかということを思って、すごく躊躇してしまったんです。でも、事実を伝えないと、その狭間で言葉を紡いでくと言うか、そんな葛藤の中での案内だったんです。最後私謝ったんです。数名の高校生に「ごめんなさい。」ってあやまったら、後で、「目の前の現実から目をそらしていたら、未来を思い描けるはずもなく、偽りの未来には、また原発事故と同じ悲惨な未来が待っているんだ。日本の嘘を見てその思いを強くしています。」と福島の方から言われて、はっとしました。ここで、私たちが事実を伝えないことが、さらに悲惨な未来を作っていくと思えば、ここで私たちが、活動していくことには、ちゃんと意味があると思いました。その同じ経験が、今回のこの「福島ぽかぽかプロジェクト」だったと思います。」


「(今回のツアー参加者の)Aさんとの時間は本当に短かったけれども、同じ大人としてというか親としてというより大人として、この地域を一緒に歩いていって、私も水俣で生きる中で、水俣病をタブーとする地域の空気だったりだとか、これまでの自分の中でのいろんな葛藤とAさんの中の葛藤を重ね合わせて考えた時間でした。特にAさんが丁寧に聞いてくれた部分、どこも丁寧に聞いてくださったけれど、その部分がここです(水俣湾埋立地:エコパーク)私たちの地域は、水銀を覆い隠した、埋めた土地を持っています。もともと海だったところを13年かけて58㌶の海を埋め立てました。東京ドーム14個分と説明していますが、私たちが歩いた足元4m下には、今も水銀を含んだ汚染土が埋まっています。
水俣の海から25ppm以上の水銀汚泥をターレスポンプという掃除機みたいな機械で吸い上げてここに収めたのですが、じゃあ25ppm未満の汚染土は汚泥は安全なのか。1983年に第一号のセルが出来てそれ以降、40年経つんですけれど、一度も埋め立て地の汚染された汚泥の調査が一度もされたことがないんです。この状態はホントに安全なのか、また、埋立地・護岸の耐久性は万全なのかという課題を持っています。このことは、私たち水俣市民にとってもとても大きなことなんですけれども、このこと自体を話題に上げることはほとんどないんです。私たちにとって気がかりな、この地域の埋め立て地の事を、Aさんと語り合えたことはとても大きなことでした。」




学習旅行の参加者の中から、3名が福島から参加してくださいました。
お母さん、専門学生、高校生の3名です。
それぞれ話してくださったことを載せます。

お母さん(Aさん)

「永野さんのお話から大きな気づきがありました。福島の原発事故が起きて12年が経った今、この何となくいろいろもやもやしているのは何だろう、誰に話せばいいのだろうと思っていました。その答えのきっかけを作ってくれたのが永野さんでした。
永野さんは、二度と繰り返してはいけない出来事、情報、情景を正しく伝えてくださいました。(学校で学んだ水俣公害ではなく、初めて本当の水俣公害を知るという、寄り添える立場になれた気がしました。)

不知火湾の埋立地に行ったとき、この公害物質が目建てられているこの埋立地は、これからどうなるのか・・・。自分や自分の子どもたちやそこで釣りをしている人たちに、いつか何かのタイミングで被害が出るかもしれないという気持ちをリアルにわかる世代です。
公害物質が埋め立てられる場所の水銀の今の値を継続して調べてくれる人、今の魚を調べてくれる人が絶対必要ですよねと、永野さんと話し、共感しました。
役所の人が、どんどん変わっていく中で、変わらない視点で活動している相思社はすごいと思いました。


水俣病患者の杉本肇さんのお話を聞かせていただいたときにも、気づきがありました。杉本さんのご両親は重度の水俣病患者だったそうですが、公害と闘い、病気と闘いっその中でも必死に子どもを守りたくて一生懸命だったはずです。息子たちに伝えられない部分が多かったのではないかと思いました。そして息子である杉本さんもまた、伝えられない気持ちがあるのではないかと思いました。それは、私たちが原発事故後福島で生活している中で、ずっと抱えている気持とと絵も近いものだと思ったからです。
復興を頑張る人、被害があったという出来事、それぞれを繋ぎ合うために頑張る人、そこで親から子の世代へどうやって生きて行ったらよいのか、水俣からはたくさんの気づきと学び、宿題をいただいた気がしました。




福島はまだ12才。

何もできてなくても当り前で、これから考えていいんだと、今回の学習旅行で思えました。終わらせようとする国に対して、終わらなくていいんだと思えました。
自分たちは被害者だけれども、子どもにひどい経験をさせてしまったという加害者意識が、共通にあったと思いました。誰か助けてくれるかもしれない。相談する人がいるかもしれない。それを語り、伝え、繋いでくれる人がいる。
分かりやすく考えられる人がいる。永野さんの存在と活動に、ホッとさせられました。
水俣や長崎の経験を知って、寄り添うことができて、福島と同じなんだ、先輩がいるんだという繋がりに、とても力をいただいた学習旅行になりました。
本当にありがとうございました。」



専門学生(Bさん)

「今回私は、学習旅行の3泊4日の中で、永野さんのお話や、長崎で高校生平和大使の子たちとの交流をへて、深く考えさせられたことがたくさんありました。
まず高校生大使との交流で、長崎に落ちた原子爆弾たきっかけで、彼女たちは日本全国で活動している子たちだったんですが、その彼女たちの交流会の中で、当時自分たちが経験した東日本大震災の事について、彼女たちから質問されたとき、自分が当時経験したことを話したんですが、そうだったんだとうなずくような表情と初めて聞くような顔を見ました。
その時に、私たちが経験した、当時ひどい目にあったこととかは、実際は全く伝わっていないことが結構あるんだなと、はじめて感じました。
3.11の時、私は小学生で、被災者になったと同時に、私は被ばく者にもなったかもしれないということを、その日初めて思いました。
長崎で出会った高校生たちは、原子爆弾で被ばくした方々の3世や4世にあたる子たちもいました。
しかし私は被ばく者の1世にあたるかもしれないのです。

被ばく者になったかもしれないことで、自分が当時小学生にして、遊びを制限されたり、少し住むところが離れているだけで、周りから非難の目をあびたり、差別されたことも。
その状況を知る人も語る人も、それは自分たちだけであって、決して語る人はいません。
私たちは、まだ12年という年月しかたっていなくて、長いようでも短い時間しかたっていないのです。


でも今風化しつつある当時を誰かではなく自分が伝えていかなくてはと、強く感じさせられました。
これから生まれてくる子たちや、大きく育っていく子たちに、私たちが先頭となって伝えていかなくてはいけないと、とても学ばされました。
当時の苦しみや受けた仕打ちは、当時の人たちにしかわかりません。
それでも受け継いでもらえること信じて、私は永野さんや平和大使の子たちの事を見習って、当時の事を語り継いで話していきたいなと思いました。」

 

高校生(Cさん)

「長崎で出会った高校生平和大使からいろいろ話を聞いて思ったことは、長崎では78年経ったのに、原爆が起きたことを学ぶ授業があって、8月9日は登校日になっていて、平和授業を受けているけれど、福島では、それはないし、活動をしている団体もないし、違うなって思いました。
伝えるっていっても、親たちも伝えなくていいなって感じだから、それが長崎や水俣と違うなって思いました。
私たちの世代は、高校生になって世界が広がったんだけど、震災や原発事故の事、深く思っていない人も多く、ここが水俣や長崎と違うんだなって思います。
親とも話して人ない人が多いし、そういう活動があっても、参加する人もいないんだなって思いました。
震災や原発事故は、わたしからしたら、小さいころからだから、正直あんまり記憶には残ってないけど、あの時、起こった後を知っているから、身近にあるものだと思う。
周りの友だちに、避難した人とか、保養に行っている人がいるかどうかわからないし、そういう話をしても、知らないし、わからないで済まされちゃっている感じがします。
そのところも長崎とはやっぱり違うんだなって思いました。


長崎では、平和大使の子たちが、自分たちから勉強しているし、被ばく者の人たちにも自ら話も聞いて、勉強して、次の世代に回していこうていう頑張りがあったけど、福島の私たちの代は、そういう活動もしていないし、伝えようって気持ちもあまりなく、止まっちゃっているのかな、と思いました。

だからと言って、辛かった過去を無理やり振り返ることはないけど、今回の学習旅行でを通して、伝えることが大事じゃないかなと思いました。」

 

パネルディスカッションの様子は、別ブログにアップいたします。