私の小さなお母さんの告別式 | 平田真実のブログ

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南米パラグアイから昭和レシピチャンネルを発信する平田真実の個人的ブログ。
昔の思い出話、グルメ、格闘技、ペット、家族、教会、会社、放射能被曝問題のことまで徒然なるままに・・・何のブログだろう?と雑多過ぎる内容ですが、これが私です(笑)

2月2日に尼崎の叔母が亡くなり6日の告別式に行って参りました。

そこで明子叔母を偲ぶ言葉を述べさせていただきましたが、冒頭の自己紹介、挨拶を省いて以下に原稿を掲載させていただきたいと思います。

また短く動画にもまとめましたのでご覧いただけたら幸いです。

 

 

叔母のことを私は物心ついた頃からちっちゃいママと呼んでいました。
私の幼い頃は母が料理学校や野田阪神の店の仕事が忙しかったので大物(だいもつ)の叔母のとこに預けられることも多く、まさに小さなお母さんでした。
大物では銭湯にも連れて行ってくれ頭を洗ってくれました。
シャンプーしても泡が立たず「マコトはいつもママがよく洗ってくれてるから泡がたたんわ」と言われたのを今でも覚えていますが、今の知識から思い返せばそれは逆なんですね。
泡が立たないのは放ったらかしにされ私の頭が汚れ過ぎていたからだったんです。
とにかく叔母は二人の子供を生後すぐに失っていたので私たち兄弟を子供のように思ってくれていたようです。
私の母が子育てできなかった分、叔母がみてくれてたのです。
時にはやさしく、時には厳しく𠮟ってくれ母より怖い時もありました。
母性的で人情があり犬をかわいがり私の父が中国から連れてきた研修生の面倒もよくみていました。
これも私が幼稚園、6歳のときのことです。
クラスで私が友達と少しやんちゃをして椅子を持ち上げたりしてたら先生が危ないからダメというのを聞かずに同じことをまたやったものでその友達と二人廊下に立たされました。
立たされながら友達と「つまんないね~、遊びに行こうか」と言って幼稚園を抜け出して幼稚園の隣にある公園で遊んでました。
すると見覚えのある私の母の車が幼稚園に向かって入ってくるではないですか。
やばいと思って友達と二人幼稚園に戻り立たされていた元の場所に戻って何食わぬ顔して立ってました。
そうしたら歩いてきた教頭先生が私たちをみてまあ~っと驚き私たちは園長室へ連れていかれました。
そこには友達のお母さんと私の母も来ていて学校から連絡がきたとのこと。
いろいろ質問されましたが、私は黙っているばかり、母はしょうがない子だと、その後、私は大物の叔母のところへちっちゃいママだったらどういうだろうと、叱ってもらうために連れていかれました。
すると叔母は「それは立たせる先生も悪いよ」と庇ってくれました。
私はほっとしたのを覚えています。
叔母の家ではテレビもよく見ました。
寅さんの元になったテレビ版渥美清の「男はつらいよ」や木枯し紋次郎など。
テレビで由美かおるを見た時にあっ、ちっちゃいママに似ていると言ったら「まあ嬉しいこと言ってくれるわこの子」と言われました。
とにかく叔母が住んでいた大物のアパートは思い出がいっぱい、阪神大震災の直後も心配で関東から尋ねていきましたが、とても喜んでくれました。
 

大好きだったちっちゃいママ、どうか天国で安らかにお休みください。
また御国でお会いいたしましょう。