2021年、早くも7月になった。
コロナ禍が始まり、自粛生活となったのをきっかけに、いろいろな出来事を記録しようというくらいの軽いノリで書き綴ってきた『僕の自粛日誌』も、すでに『その④』となった。
残念ながら生活の状況が全く変わっていかないので、自分の記録として、このブログ記事を引き続き書き続けて行こうと思う。
まず7月から。
第4波がはっきりと到来した。各種大型イベントや商業を一方的に規制しつつオリンピックだけは強行しようとする政府に対し、いよいよ各所で不満が爆発し始め、活発に動き回る人が増え、自粛ムードはほぼ消え去ってしまった。
そんな中、記録的な集中豪雨で、うちからも比較的近い熱海市で、大規模な地滑りが発生し、大災害となってしまった。
熱海には知人も数名おり、とても驚かされた。
嬉しいニュースもあった。箱根甘酒茶屋が『甘酒アイス』を発売したのだ。
早速食べてみたが、レトロな駄菓子屋風のパッケージとは裏腹に、意外なほどあっさりとしていて、大人向けの味だった。
アレルギーのある僕には大助かりのアイテムだった。
振り込みにより通販もできたので、友人にも送ってみた。お中元という訳だ。好評でリピーターまで現れた。
そして、日本中が大変な状況の中ではあるが、僕ら夫婦は25年目となる結婚記念日を迎えた。
いよいよ銀婚式というやつだ。もちろんどこにも行くことはできないが、かみさん広瀬玲子がカスタードクリームとタルトで、自分でトッピングするケーキを準備し、花を添えてくれた。非常に美味しく、ほっこりとする時間だった。
20周年記念はスカイツリーの見える宿に泊まるということをしたが、部屋に着くや否や、スカイツリーが定時で消灯してしまい、なぞの黒い巨大な塔を前に、気味の悪い夜を過ごしたのを思い出す。。。
その日に食事をした『とんかつ麻衣』も、もうなくなってしまったが、麻衣のママさんからお祝いのメールを頂いた。
皆さんの元気そうな写真もあり、さらにほっこりすることができた。
この動画はとんかつ麻衣のお別れライブの時のものだ。僕はお恥ずかしいほど酔っ払っているが、今思うと、これがコロナ禍前の日常だったのだ。
そして、4度目の緊急事態宣言が決定した。
もうすでに従う者、従わない者、そして逆らう者とがネット上で激論を繰り広げていた。
いよいよオリンピックが始まるのだけれど、不祥事が波のように押し寄せた。
開会式の音楽担当者が過去の障害者への陰湿ないじめの問題から辞任、続いて同じチームの絵本作家も何かしらの理由で辞任、おまけにチームのトップが大量虐殺の歴史問題をコントのネタにしていたことが話題になり、国内海外から批判が殺到し解任と、よくこれだけ続いたものだと思う。
選手やスタッフへの感染も日に日に広がり、とある選手は仕事を求めて選手村を抜け出して、遠方で身柄を確保される、なんていうものまであった。
選手村は危険だという理由で、すでに自分の判断でホテルに移動した選手も多くいて、もう収集がつかない段階だ。しかも開会式前にだ。けっこうな頻度で『呪いのようだ』という文章を読んだけれど、ここまで続くと、確かにそんな気にもなってくる。
オリンピックの影響があるのかどうかはわからないけれど、この月は、コロナ禍始まって以来の新規のオンラインレッスン予約が減ってしまった。定期で続けている生徒のみなさんも、なんとなく落ち着かないのが画面越しに伝わってくる。
けれども、気を使い早めに来月の予約を入れてきてくれる生徒さんもいて、おかげで僕は相変わらずさまざまな不安を感じることなく、この期間を過ごすことができた。
少し時間ができたので、準備をしていた部屋作りを再開した。
新しい番組制作とオンラインレッスン専用のスタジオにすることになっていた。
オリンピックの期間を完全なおこもりにしようと、以前から少しずつ揃えていた材料を組み合わせ、手順よく作業を進めた。
かみさん広瀬玲子はもともと空間演出で大型作品を手がけているため、監修はお手の物だった。
そんなおこもり&部屋作りの中、食卓に新しい武器が登場する。
これである。
蒸籠(セイロ)、つまり蒸し料理の道具を、奮発してみたのだった。
これが手に入ってからは「じゃぁ、蒸すか?」が合言葉となり、毎日蒸し料理を楽しんだ。ポン酢、胡麻ダレ、塩、醤油さえあれば、特に調理らしいことも必要ないので、非常に楽だった。台所が蒸し風呂のようになるのが大変なのだけれど、集中的にかく汗がイベント的に食欲をかき立ててくれた。
僕のアレルギーで、小麦系全般を控え、ほとんど米粉系のビーフンや、フォーなどに切り替えていたせいもあり、食卓はアジアンな雰囲気だった。ケンミンの商品はバリエーションも豊かで、冷やし中華やタンメンまで、僕は食事の不便を感じることがなかった。
なにげなく日常が進んでいくようにも思えたけれど、月末には一万人を超える新規感染者の発表があった。
ちなみに僕の地元神奈川県だけでも千人を超え、さすがに感覚が麻痺していたけれど、この数字は強烈だった。
なんでも『デルタ株』という変異型のウィルスはさらに感染の危険性が高いということなので、僕らはもう一段階レベルを上げた自粛対策を考えることにした。
ついで8月。
東京の新規感染者が3千~4千と増え続け、全国で1日で1万人を超えるのが当たり前になり、僕らも感染対策をさらにもう一段階上げて、マスクを2重にしたり、できるだけ通販で買い物を済ませるようにした。
うちはもともとオリンピックは興味がなかったし、20年くらいテレビのない生活なので、ネットを中心としたニュースだけを頼りに判断するしかないのだけれど、どうみてもオリンピックが影響したお祭りムードが、爆発的な感染拡大の原因としか思えない。
オリンピックが終わっても、女性アスリートにセクハラ発言を繰り返しながら『金メダルを噛む』名古屋市長や、オリンピックの打ち上げの徹夜カラオケで事故入院者を出すテレビ局員団体などトラブルの連続で、お祭りムードのマイナス面ばかりが連日話題になっていた。
オンラインレッスンの方は、オリンピックが終わるや否や、生徒さんの予約や新規の方の問い合わせが相次ぎ、すぐに今までの安定した状況に戻り、一安心することができた。
これで仕事面は一安心と思った途端に、今度は1日の感染者が当たり前に2万人を軽く超える日々、加えて複数の台風も重なり、各所で深刻な水害が発生し、もはやお盆どころの騒ぎではなくなってしまった。
当然、外出は極力避けるということで、僕らは連日スタジオの仕上げ作業に集中した。
完成したスタジオがこちら。
定期でレッスンを受けて来た生徒さんや6~7月受講の生徒さんには「前からこの背景では?」と思われるだろうけれど、実はこのコロナ禍で材料が手に入らず『ダンボールやカラーコピーで作った完全なハリボテの状態』で1~2ヶ月ほど過ごしていたのだった。その違いがパッと見ではわからないで済むほど、オンラインレッスンというシステムは、僕には好都合だった。
もっとも生徒さんの方も、バーチャル背景やボカシ処理を使う方も多く、やがては『アバター』同士になってしまうのかもしれない。
この月の後半から、いよいよワクチン接種の予約が始まった。
僕ら夫婦はともに50代なので、朝8時30分からネットと電話で同時に予約に参加するのだけれど、開始時間にもう繋がらない。結局繋がったのは午後になってから、しかも明日また予約にトライしてということだった。
国からは『早く接種しろ』、でも『予約はできない』という流れをニュースで聞いてはいたが、確かにこれでは話にならない。このイライラが、これからどれくらい続くのだろうか?
9月。
新規感染者が全国で2万人超えという日が2週間ほど続いた。もはや映画の中のような事態だった。
そんな中、いよいよ僕らもワクチン接種となった。副反応での重症や死亡者などのニュースもあり、正直怖い面もあったが、ようやく打てるのかと安堵もあった。
接種の効率化のためテキパキと無駄なく動くのだけれど、自分たちのペースで生活できる日々を送り続けていたために、まるで新幹線に乗る時のような『失敗が許されない感』があった。
1回目はやはり接種した腕が痛く、五十肩も合わせ「ああ、これか、なるほどなるほど」と、かみさんと笑い合った。
大型で、密な音楽イベントが話題となり「これで日本も終わるのか‥」との憶測が流れる中、誰もの予想が外れ、大幅に新規感染者が減っていった。もちろん良いことなのだけれど、正直数字を疑ってしまう。こんなに急激に落ちるものなのだろうかと。
そんな折、予期せず友人の飲食店が閉店するとの話を聞き、驚きつつも久しぶりに食べに行った。
もともとの予定をやや早めたとのことなので、そんなに悲壮感はないのだけれど、やはり静かな終わり方は寂しい。
時同じくして、我が家のコピー機が逝ってしまい、買い替えにつき懐具合までも寂しくなってしまった。
月末に向かい、さらに感染者も10分の1にまで下がり、僕ら夫婦もめでたく2回目のワクチンを接種できた。
翌日、僕の方は軽い副反応が出て、一日だけ完全に寝込んでしまった。かみさんは翌々日にやや体調不良になったけれど、二人共無事にワクチン接種を完了することができた。
まぁ、これで重症化のリスクもかなり下がるし、医療的にも病床使用率も落ちてきている。
流石にこれは『慎重に過ごせば大丈夫』という兆候だろうと、いよいよ僕は10ヶ月ぶりとなる対面型のレッスンの再開に踏み切ることにした。
10月
ヤマノミュージックサロン有楽町店での対面型のレッスンを再開させることができた。なんと10ヶ月ぶりだった。
東京に行くのも、というか電車に乗るのも久しぶりという状態だった。今までも散歩や買物には出かけるものの、運動不足は否めない。いろいろ心配はあるものの、やはり生活の変化には胸が躍った。
生徒さんの半分はすでにお辞めになっていて、やや寂しい再開となったが、どの生徒さんも笑顔満面のパワフルさで質問が相次ぎ、一気に元の世界に戻って行くような感覚を持てた。
この月、さらに新規感染者が急激に減り続け、300人台にまでなった。
それをきっかけに僕らは2年ぶりに近い旅行に出ることにした。二人のスケジュールと悪天候予報の合間をぬっての、かみさんの突然の発案だった。まぁ旅行といっても一泊の中距離旅行で、やや遠めのドライブのようなものだった。
ちょうど新しいハーモニカ番組の外ロケ映像のテスト撮影をしたかったこともあり、僕らは思い付いてから30分ほどで忙しく旅立った。
平日なので道は空いていて、どこもガラガラだった。
宿の予約はネット予約で素泊まり、食事はロードサイドの定食屋へ入った。友人などの店以外では、今年初めての外食だった。
近くに飲酒を伴った団体がいたが、こちらのマスク無言外食を気にしてか、少しずつ宴会のトーンが落ちて行った。プレッシャーをかける気はなかったが、自粛には個人差があるので、それは仕方のないことだった。
宿の大浴場は温泉だった。僕は感染対策に、他の客と会わぬよう夜中にこっそりひとりで外風呂に入った。
地元に箱根温泉郷があるにもかかわらず、2年ぶりに近い温泉だった。誰が入って来ないかとキョロキョロしつつも、ひさびさの湯の染み渡りに感無量だった。
最近、いろいろと迷っていたアイデアは、外の空気を吸うことで次々と閃き解決して行った。
文章などもすらすら浮かんでは書き留めた。移動中も新規のオンラインレッスン申し込みなどがあったけれど、出先でもスマホで楽々のやりとりができ、自営業のメリットを存分に味わった。
次の日、僕らは忙しく景色の良いところを巡り、テスト映像をサクサクと収め、病院での僕の肩のリハビリ、ディスプレイ類の買い物も済ませつつ、段取りよく家路に着いた。
帰宅後の翌日、予報通り天気は崩れ、僕らはお互いにおこもりのオンラインワークの日々に戻った。
しばらくは、旅での数少ない接触による感染が不安ではあったものの、東京の教室への電車移動の方がはるかにリスクが高いので、考え込むようなことはなかった。
月初に、変なタイミングで総理大臣が変わるやいなや、急遽、月末には衆議院選挙がゲリラ的に決まり、いきなり日本中が慌ただしくなってしまった。
僕らは夫婦揃って必ず期日前投票に行くことにしている。当日何かあっても、票を無駄にしないですむからだ。いろいろなネットの解説番組を見つつ候補者を決め、密にならないようサクサクと投票してきた。
夜中にネット番組で結果を見ながらふたりであーだこーだと盛り上がる。
それは選挙に行った人だけのイベントなので、行かなかった人はジンジャーエールのビンを換金せず、資源ゴミとして捨てるくらいもったいないように思えてしまう。まぁ、今やクリスマスを超える盛り上がりを見せるハロウィンに選挙を重ねた段階で、若者の投票率の方は伸びるわけがないのだけれど。
11月
新規感染者が下がり続け、全国で一日300人を切るのが当たり前となり、ついには全国で100人台、なんと東京など1桁の日さえあった。これを受け、僕のハーモニカ教室もあまり気を使い過ぎることもなく開講を継続できていた。
オンラインが軌道に乗ったことでコアなカリキュラムバリエーションが増え、それを逆に対面型レッスンに導入することにしてみた。『定番のブルースフレーズ』と『ポール・バターフィールド(有名なハーモニカ奏者)のフレーズ』だ。
ヤマノの開講時には想像もつかなかったけれど、僕がこの楽器に出会った時の視点も、今教室に通い始めた人の視点も、テンホールズに胸躍るポイントはそんなに変わらないらしい。
対面型とオンライン、コアなレッスンの場合はどちらのシステムが向いているのかも興味深い。まぁ、なんにしてもマニアック極まりないなと痛感する。
この頃、ハーモニカの新番組を制作していたのだけれど、何かとうまく行かず、延々とNGと作り直しを繰り返していた。
他にもオンラインレッスンCMや電子書籍CMも同じで、撮影スタジオのセット微調整などはしていたけれど、結局は、何も進んでいないような気がしていた。
かなり間を開けてしまったせいもあるが、最大の問題は、腰が重くなってしまっていたのだ。
『完璧にしたい』という思いだけで、『とりあえずやってみよう』の精神がなくなっていたのかもしれない。
先月ぐらいから五十肩がしんどくなり、リハビリ通院も、その怠惰を後押ししていた。
まぁ、オンラインレッスンも順調だったし、東京の教室も再開していたので、天気が良い日はぶらぶらしてという日々で問題はないのだけれど、どこかで勢いをつけ、また、新たなるチャレンジをしなければと考えていた。
はずみをつけるため、部屋同士の引っ越しを始めた。
僕のスタジオが完成したことで、他の部屋を移す必要が出てきたからだった。
今まで寝食を行っていた部屋が、かみさんの仕事&制作部屋となった。これに伴って、台所のある部屋で食事をできるようにした。冷蔵庫から出すのも洗い場に移すのも全て効率的だし、正しいダイニングの使い方だ。
元のかみさんの部屋が、今度は寝る部屋になった。寝るためだけの部屋にしたのだけれど、寝るということだけで言えば狭い分だけ暖房効率もよく、これまた効率的だ。
まだ完成までは時間がかかるものの、なんとか第6波までには一段落させたいものだ。
そして、この12月
新型コロナの新規感染者が100人台と下がり続けたまま続き、なんと全国で2桁台なんて日まであったほど事態が沈静化して行った。
そんな中、『オミクロン株』という変異株が発見され、世界的に3度目のワクチン接種の話が出始めた。徐々にまたあの窮屈な日常に戻って行くのかと不安になりつつも、新規感染者激減により、巷では『もう大丈夫だ感』が広がり過ぎてしまい、形ばかりのマスク着用というゆるゆるの自粛の中で、浮かれた年末に突入して行く。
僕の東京のレッスンは、おかげさまで無事開講が続けられ、オンラインレッスンの方も合わせ、ともに順調だった。
コロナが収束気味だからといって我が家の2度目の旅行までは実現しなかったけれど、大々的な部屋の模様替えで必要になった部品調達などで、近郊にはよく出歩いていた。
最終的には、かみさん広瀬玲子が『大型の作品制作をするためのスペースを極力広くとる』という発想で部屋の模様替えを考えてはいたものの、なかなかそれが進まなかった。
結局、今年もアート制作の方は、活動の再開もアトリエの整備も実現しなかった。
かみさんに僕の仕事のサポートをさせ過ぎないようにと、毎年誓うものの、やはり物作り的な要素が増えるとかみさんの範囲になり、そこへいつものかみさん自身のこだわりが重なり、ついついお任せになってしまうのだ。
『今日だけ』は、『この部分だけ』はと結局いつもの『特別な事情』が今年もまた続いてしまっていた。
申し訳ないのは、交換条件となるべく『僕でもできるかみさん側の手伝い』が一向に見当たらないことだ。
加えて今年、僕は身体中にガタが来て、そう言った面でもいろいろと助けてもらい、余計にかみさん側の時間を割かせてしまっていた。
後半の数ヶ月で、僕の側はかみさんに意見を聞く必要があるものや打ち合わせは粗方片付き、これでむこう一年くらいは黙々と自分でひとり作業をこなせる段階になっていた。
僕がひとりでやると、デザインなどのクオリティーはかなり落ちるかもしれないけれど、番組などは、本来はひとりでも完結出来るようにするべきだった。
なんとかして、来年こそはお互いが同時に動けているようにしたいものだ。。。
と、書いている最中、たった今、ぎっくり腰を再発した。
さまざまな予定を全部ずらさなければならない事態への突入となった。まさか自分自身が緊急事態宣言を行う立場になろうとは。
全くもって情けない。自分の予定でかみさんを頼らないようにとえらそうに書いている矢先に、もっともお荷物になってしまったのだ。
少しずつ準備していた動画撮影も一旦中止。オンラインレッスンの方はなんとかずらしてもらえるにしても、東京の教室は休まざるをえなくなってしまった。
そして安静に4日間が過ぎる。
意外に早く峠を越えたものの、さすがに精神面での落ち込みがきつかった。
動かぬ両肩、膝の腫れ、そして腰。。。
胃のあたりの痙攣と皮膚のアレルギーは、薬と食事療法で、最近ある程度解決のメドがついてきたが、さすがにこのガタつきではアクティブな動きはとれない。
ひと昔前に『天誅殺』とか『大殺界』とかいう言葉が流行ったけれど、まさにそんな感じだ。
その上、まだ終わらないコロナ。。。
ほんとに、ありとあらゆる意味でコロナは余計な存在だ。
克服なんて全然出来てはいないけれど、ある程度の対処が出来るようになった分だけ、ただただ、うんざりさせられる。
このままではダメだと、なんとか気合いを入れ、無理矢理だけれど、予定通り動画撮影を行うことにした。
ひとつは『オンラインレッスンの新しいCM』、もうひとつは今年リニューアルした『電子書籍ブルースセッションドリル』の解説動画だ。
前々から準備をしつつも、部屋の完成に合わせたため、なんとなく伸び伸びになり、体調不良がトドメとなり、見事に頓挫していたのだった。
久しぶりのクリエイティブワークに、心底ぐったりだった。こんなにしんどかったっけ?と不思議に思う。
やはり、細々とでもいろいろ続けておけば良かった。これほど再開にエネルギーが必要とは。
では、その二本を、今年の締めくくりにアップ。お時間のある方はご覧ください。
●『オンラインレッスンの新しいCM』
●『電子書籍ブルースセッションドリル』
全身の痛みが、曇る表情によく出ている。
流石にマイク機材を変え、ノイズリダクションをかけたため、音質は飛躍的に良くなったと感じる。
雑音やミスで何度もやり直し、こんなに上手くいかないものか?と撮影中は苛立ちが止まらなかったものの、編集してみると割と良く出来ていた。
もっと上手くやれるはずだったというのは、おそらく記憶違いなのだろう。
まぁ、年内、ラフ撮影を何度も繰り返し、やり直しをいとわなかった分、さすがにコンセプトや切り口にはブレがない。
あとは、それが伝わるかどうかだけだ。
とにかく、また腰が重くなり過ぎないうちに、次の動きをとろうと思う。
どうせまた、長い自粛期間に、入らざるをえないのだから。
全く、やれやれだ。。。
なんとかこの『その④』で、僕の自粛日誌シリーズを終わらせたいところだ。
12月20日 広瀬哲哉