宛名の無い手紙

宛名の無い手紙

日々の起伏を誰に宛てる訳でもなく、小瓶につめて情報の海に流すのです。

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形だけの日々が過ぎて行く。
型にはまった正しい日々が過ぎて行く。
事故を起こしても、それすらただの夢だったかのように、僕の心はどこか上の空です。
何もなかったかのような日々。
もう今死んだって良い、それくらい心に何の引っかかりも無い、在っても無くても心の琴線に触れない日常。
自分の精神が自分の身体の輪郭から少しズレた位置にあって、他人がまるで別の生き物のように見えて仕方が無いのです。
口に入れたら溶けてなくなってしまうような日常が僕を侵す。
僕の心はおかしくなって、不自由で、もうどうにもならない場所にまできてしまったのだろうか。
僕はずっと2.9次元の世界に生きるのだろうか。
精神的に不健康だ。
人生を、全く楽しめぬ輪郭が居る。
最近Facebookでは身の回りの友人の結婚したという報告と披露宴の写真がひっきりなしに流れてきます。

自分は結婚なんかより先にその相手を見つけること、その相手を探そうと精神的に一歩踏み出すこと、その一歩を踏み出すために親元から離れて自分一人の力で生活することをステップとして順番にクリアしていく必要があると思っています。

まだまだ先は長いです。

会社の尊敬する先輩も僕くらいの歳で結婚し、数年の内に3人の子どもに恵まれ、順風満帆とまではいかないまでも、子どものために惜しまず愛を注いで一見とても幸せそうな生き方に見えます。内情を知らないのでその裏にどれほどの苦悩があるのかはわかりません。

しかし、社会に出てそんな周囲の状況を肌で感じ、自分が如何にまだ子どもであるか、養われていることが当たり前ではないのかがわかってきました。

僕は行く先々の環境で何か依存できる対象を見つけてはそれに依存し、精神面だけでなく肉体的にも楽ができる状況に持って行こうとする。それでは一人前の人間にはなれないなぁと思う訳です。
今の仕事でもそう。僕は何一つ変わってなくて、仕事をしてても誰かに甘えて向上心もなく、空気のような存在で甘んじてる。それで成長できるのか。
そんな子どもで将来家庭を持つことなどできるのだろうか。。

不安と焦りと虚無感でいっぱいです。
時が、捻くれ曲がって復雑に雁字搦めになった僕の心の血栓を少しずつ流していってくれているような、でもまだまだのような、妙なもどかしい痒さを感じている。
精神が子どもであるが故の不自由さは思った以上に根深い。
昨日のどうでもいい心に引っかかった釣り針みたいな思い出をどうでもいいことと忘れ流すための4月26日は、薄暗い部屋でモラトリアムな睡眠で流れようとしてる。


衒学趣味はないのだけれど、自分の中の何かを光らせるために取った手法がこんな回りくどくて、中身の大してない自分の意見を放出したいだけの言い回しのエッセイなのだとしたら、それは小さな見栄の集合体、衒学なのだろうな。
もっとシンプルに伝えなければなるまい。
いや、シンプルに伝えたい。


こういった内容をFacebookのタイムラインに放流させようとするあたり、空気が読めていないというか、それまでの残念な人なんだろう。
それを思いとどまり、友人の誰も知らぬこの日記に認めることができた今日。
こんな話もここでは放流したい。