イの国探検隊ファンの皆様こんにちは

 

今日も妄想で、かつてあったとされるイの国を探検だ!

 

香川県高松市庵治にある皇子神社

 

映画「世界の中心で愛をさけぶ」のブランコ

 

 

桜八幡神社

 

 

 

 

葛=秋の七草=蔓(つる)=蔓柏紋=エビスさん=夷、恵比寿、戎、胡、蛭子、恵美酒、ヱビス、ゑびす、夷子、蛯子=蔦(ツタ)=松平・徳川=富田=女=神武天皇によって滅ぼされた先住勢力=邪馬壹國の人々=愛媛(予の国)のアメノウズメ=月(ツキヨミ)=葵=西照神社=月光西照宮=梶=桑=和気=空海の薬師如来を彫像=道隆寺=空海実弟の真雅僧正(法光大師)=円珍(智証大師)=五大明王=聖宝(理源大師)=赤不動
=海神

 

 

五大明王が赤不動とつながった。

これまでの探検で「赤」=「金」=「朱」=「丹」

「丹」といえば、水銀朱。

国の史跡の徳島県阿南市水井町にある弥生時代後期~古墳時代前期にかけての辰砂採掘跡の遺跡。

辰砂(しんしゃ)は硫化水銀からなる鉱物で、別名に丹砂、朱砂、水銀朱などがあり、日本では古来「丹(に)」と呼ばれた。

採掘道具の石杵には香川県東部で産出するもの、出土土器には鮎喰川下流域産や香東川下流域産のものもある

それら地域の集団も辰砂の採掘に関わっていたとみられるそう。

 

五大明王の東北とのつながりを探してみたら、天台宗延福寺がその前身の松島青龍山瑞巌円福禅寺(宮城県宮城郡松島町松島)があった。

平泉を拠点として源義経を匿い、庇護下に置いた東北一帯を支配した奥州藤原氏につながった。

源義経といえば、静御前を愛妾とした。

丹といえば、白拍子の静御前の母である磯禅師(長町磯)の出身地は東かがわ市(旧、大内町)丹生小磯。

「徒然草」には、藤原通憲(信西)が曲を選び磯禅師に男装で舞わせたのが白拍子の始まりとあるそうで、古くは、巫女による巫女舞が原点にあったとも。

 

伊達政宗公が造営した瑞巌寺の五大堂は、東北地方現存最古の桃山建築。

正面の扁額は「五太堂」、実際は「五大堂」が正しいとのことだが、イ探的には意識しての「五太堂」であり、5つの大王堂と妄想できた。

 

 

確かに5大王

中心=不動明王
東=降三世明王
南=軍荼利明王
西=大威徳明王
北=金剛夜叉明王

 

 

前回は「軍荼利明王」

今回は、「大威徳明王」とはなにか?

 

大威徳明王(だいいとくみょうおう)、梵名ヤマーンタカまた六足尊は、密教特有の尊格である明王の一尊。

五大明王のなかで西方の守護者とされる。

 

梵名のヤマーンタカとは「死神ヤマをも降す者」(降閻魔尊)

=ヴァジュラバイラヴァ(金剛怖畏)

=ヤマーリ「死神ヤマの敵

=マヒシャサンヴァラ 「水牛を押し止める者
マヒシャサンヴァラのマヒシャとは、インド神話で女神ドゥルガーと戦った水牛の姿のアスラ神族の王のことである。

このヴァジュラバイラヴァの

ヴァジュラとは、インド神話に登場する父はデーヴァ神族でヴィシュヌの化身クリシュナの孫アニルッダ、母はアスラ神族でダイティヤ族のウーシャー。最後のヤドゥ王朝の生き残り

バイラヴァとは、シヴァ神の最も強暴な面「バイラヴァ」のこと。

=最後のヤドゥ王朝の生き残りでシヴァ神の最も強暴な面


ヒンドゥー教の神クリシュナは死の直前、インドラプラスタ(「マハーバーラタ」に登場するクル族が住むパーンダヴァの首都である。名前は「インドラの住居」の意)の王になるようにヤーダヴァ王朝のアニルッダの子であるヴァジュラに命じたという。こうしてヴァジュラはインドラプラスタの王となった。

チベット語では、シンジェ・シェー、ドルジェ・ジクチェー(金剛怖畏)。
三昧耶形は宝棒(仏敵を打ち据える護法の棍棒)。

三輪身説によれば、

=阿弥陀如来(自性輪身)、文殊菩薩(正法輪身)に対応する教令輪身で、阿弥陀・文殊が人々を教え導くために敢えて恐ろしげな姿をとったもの。

=人々を教え導くために敢えて恐ろしげな姿をとった阿弥陀如来(自性輪身)、文殊菩薩(正法輪身)。

日本では、大威徳明王は六面六臂六脚で、神の使いである水牛にまたがっている姿(右足また左足を懸けている。獄門に懸けるの意)で表現されるのが一般的。

特に日本では脚が多数ある仏尊は他にほとんど無く、大威徳明王の際立った特徴。檀荼印を結ぶ。

6つの顔は六道(地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界)をくまなく見渡す役目を表現し、6つの腕は矛や長剣等の武器を把持してすべての仏法(仏典)を守護し、6本の足は六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)を怠らず歩み続ける決意を表している。

歓喜天、青龍など邪悪な存在を降伏する破邪の存在。

また、菅原道真の御霊(ごりょう)の威力を大威徳明王に習合させ「日本太政威徳天」の神号が追贈されている。

=菅原道真の御霊の威力「日本太政威徳天」

 

 

 

菅原道真さんは、

 

菅原道真

善政の紀夏井が讃岐守の任期を終えて20余年後に、第59代宇多天皇は摂政・関白を置かず、原氏を押さえようと菅原道真(すがわらのみちざね)を国守として登用しています。

ですが、讃岐国の百姓は紀夏井の善政を忘れていなかったため、道真は夏井と比較され国政運営で難渋したともいわれています。

 

桃太郎は菅原道真の作との説

 

 

ちなみに、「土佐日記」の著者で、讃岐の翁が登場する竹取物語の作者説として知られる紀貫之が、土佐守に赴くのは応天門の変から64年後の930年のことです。



 
飯盛山の栄螺堂(さざえどう)の正宗寺とは、明治以前は飯盛山一帯を神域とした宗像神社別当で、厳島神社の別当

さざえ堂には2重螺旋のスロープに沿って西国三十三観音像が安置され、西国三十三番観音参りができた。

江戸時代後期に関東から東北にかけては、坂東三十三番、秩父三十四番の100ヶ寺を参詣したことになるのでブームが起こった。
 
西国三十三観音巡礼の起源は、718年に、奈良県桜井市初瀬(はせ)にある本尊十一面観世音菩薩の真言宗豊山派の総本山豊山神楽院長谷寺の徳道上人が、病で仮死状態となり、冥府で閻魔大王に会い、世の中の悩み苦しむ人々を救うために、33の観音霊場を開き、その霊場を巡礼した者は、その功徳によって地獄に堕ちないという起請文を閻魔大王から授かった。

現世に戻った徳道上人は、33の霊場を定め観音信仰を広めようとしたが、人々には受け入れられず、33の宝印を中山寺の6世紀後半の建造の第十四代仲哀天皇の后大仲姫(おおなかひめ、神功皇后、「日本書紀」での名は気長足姫尊で仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされ、実在したとすれば4世紀後半頃)と伝わる墳墓古墳石櫃に納めた

 

約270年後、第65代天皇退位後に出家した花山法皇が那智山青岸渡寺での修行中、枕元に現れた熊野大権現から、徳道上人の定めた観音霊場を再興するようにとのお告げを受け、中山寺に納められていた33の宝印を探し出して観音巡礼が再興し、圓教寺の性空上人、中山寺の弁光上人、石川寺の仏眼上人を伴い、33の札所寺院を巡礼し、観音菩薩の功徳を世に広めた。
 

那智山青岸渡寺といえば、御詠歌「補陀洛や岸打つ波は三熊野の那智のお山にひびく滝つ瀬」補陀落信仰
補陀落信仰は、南方の信仰と重なり八角形の山が重要で、仏像関係は百済経由で入り、春日(和珥)氏摂関藤原氏空海が関係していると妄想した。ただし、渡海が始まった年は、「応天門の変」で紀氏とともに罪人にされた伴氏が亡くなり、しばらくして伴氏の身内ともいえる佐伯筋の円珍(讃岐出身、空海の甥とされる)が延暦寺座主となっている

この「応天門の変」の後、武家の台頭が始まる。
補陀落渡海は、神仏習合の自然信仰の那智大社は特に盛んで、智証大師円珍は那智の滝で修行し、三井修験道の起源を作っている。
 
聖武天皇!「海行かば水漬く屍」(by大伴家持)
つまり、応天門の変で命を狙われた者が渡海をしたならば、なんとか命を救うために、補陀落信仰と称して渡海行事を作り秘密裏に脱出させた可能性が高いと妄想する。
那智は自然信仰なので、仏像の興福寺は正反対な感。国宝の阿修羅像は女性的であり、元は阿波国分寺にあったとの情報もある。


阿修羅、阿・修・羅で分解すると、
密教ではこの字に特殊な意義を認め、宇宙万有を含むと説く。サンスクリットの一番目の文字、山や川の入り組んだところ、高い丘、阿波国。阿字観(あじかん)=密教の根本経典の一つ「大日経」で初出し、主に密教で説かれる瞑想法、弘法大師空海によって伝えられたものを指す。
=収納する。保管する。おさめる。しゅうする。訓練によって身につける。仏事、祭事などを、しきたりにのっとってとり行なうつくろう。なおす。修繕する。修行。
で織った網のような薄物を指す。

絹といえば皇后。
「絹で織ったよう」で気になったのが、阿波の白人神社御祭神「豊秋津姫命」蜻蛉と妄想。
つまり妄想では、蜻蛉=絹=羅=豊秋津姫命
そして、豊秋津姫命は、天下春命の叔母。讃岐三ノ宮の御祭神で元は志度寺境内にあった。


「天下春命」といえば、さぬき市鴨部にあった空海再興の極楽寺の鎮守「志太張神社」の御祭神。
さぬき市鴨部地区は元は寒川群であり、寒川群は平安時代は「難破」と考えられる。

仁徳天皇は別名「難波天皇」、兄弟の菟道稚郎子は庵治町の皇子神社御祭神四国最北の地で祭られる。宇治は大和最北の地。

祭は船渡御がある。全国的にも珍しい江戸時代から続く海の祭りで「皇子神社船祭り」が、旧暦6月の満月の夜に行われる。300年以上も海に生きる人たちによって守られてきた伝統的な船渡御が残る。御神輿が船に積まれ、対岸2kmのお旅所まで「船渡御」を行い、また、3隻横に繋いで作られた舞台の上では獅子舞が奉納される。香川県指定無形民俗文化財になっている。

 

皇子神社は桜八幡神社の摂社であり、桜八幡神社は元の御祭神は木花咲耶姫を祀ったと伝わる。

太閤秀吉「吉野蔵王堂の躑躅の柱の一端を以て宮太鼓を造り報賽の為め是を當社に納む。」と神社に伝わる。

吉野蔵王堂のある金峯山寺は、白鳳時代に役行者が金峯山の山頂にあたる山上ヶ岳で、一千日間の参籠修行された結果、金剛蔵王大権現を感得せられ、修験道のご本尊とされました。役行者は、そのお姿をヤマザクラの木に刻まれて、山上ヶ岳の頂上と山下にあたる吉野山にお祀りしたことが金峯山寺の開創。

 

 

「天下春命」は八意思兼神の御子神で、天忍穂耳命の妻・万幡豊秋津師比売命の兄

武蔵秩父国造等の祖。四国、讃岐にゆかりの多い神ではない。
天下春命の父である八意思兼神は、天照を岩戸の外に出す知恵を出し、葦原中国に派遣する神の選定、邇邇芸命に随伴している。
そして、伊須受能宮(後の伊勢の内宮)を拝祭している。
 
源義経の叔父・源為朝の母は摂津国江口(現・大阪市東淀川区江口)の遊女。

源為朝は没後、八丈島に渡って死んだという伝承が生じ、さらに琉球(沖縄県)に渡ったという伝説に転じて、江戸時代以降に広く人々に知れもてはやされた。
江口で、気になったのは、村上天皇の血筋妄想の静御前の母・磯禅師(長町磯)。孤児となった磯は長町家の菩提寺である大谷地区の真言宗大渓山延命院釈王寺に預けられ、美声で歌がうまいことに住職が気づき、数え12歳のとき四国88霊場第八十六番札所補陀落山志度寺前で興行していた旅芸人傀儡女(くぐつめ)集団が日本一の芸妓にすべく、淀川沿いの名代の遊里・江口の里へ移る。

の目にとまり、集団が芸を仕込んだ。(この時代すでに、四国霊場88の前身となる弘法大師ゆかりの地巡礼は始まっていた。志度寺奥の院とされる地蔵寺には日本廻国六十六像があり、境内には庚申さんで神仏習合)。
 

補陀落山志度寺【御詠歌】

「いざさらば今宵はここに志度の寺 祈りの声を耳に触れつつ」
 

 

 

「大威徳明王」

西方の守護者

=死神ヤマをも降す者(降閻魔尊)

=死神ヤマの敵

水牛を押し止める者
=最後の
ヤドゥ王朝の生き残りでシヴァ神の最も強暴な面

=人々を教え導くために敢えて恐ろしげな姿をとった阿弥陀如来(自性輪身)、文殊菩薩(正法輪身)
=神の使いである水牛にまたがっている姿。大威徳明王の際立った特徴
歓喜天、青龍など邪悪な存在を降伏する破邪の存在

=菅原道真の御霊の威力「日本太政威徳天」

 

 

 

 

 

たぶん東北への細道あり〼 

 

 

 

けつねうろん妄想ジャンカー イの国探検隊日月ホトトギスがお伝えしました。

ではまたセキセイインコ青