イの国探検隊ファンの皆様、鰐積の皆様、アマでありカミでもある皆様、こんにちは。

イノクニタンケンタイ雑用係の日月ホトトギスです。セキセイインコ青
 

 

 

手が可愛い 庚申塔

=庚申講

=種子庚申塔((天二上命=天叢雲命)の子)

=猿田彦大神(青面金剛)

=クナト(フナト)神

=これ以上来るな!の結界

=阿波神山

 

 

 

 

 

 

 

 

長尾は何のしっぽ?⑰のつづきです。

にやり

 
 
探検してると、〇〇尾とか、尾がよくでてくるように思います。
例えば、石清八幡宮、長寺、張など
 
菅原道真さんの友、明印さんの長尾寺
屋島の戦いへ向かう源義経が前を通ったであろう長尾寺
村上天皇の血筋と妄想の静御前、その母、磯禅師が得度の長尾寺
 

長尾寺はしっぽ関係では気になりまするビーグルしっぽ猫しっぽ牛しっぽ熊しっぽ黒猫しっぽ

 

 

長尾寺流れ星御詠歌
「あしびきの山鳥の尾の長尾寺 秋の夜すがら御名を唱えよ」
山鳥の尾。
なぜ山鳥の尾?うーん
 
 
 
本道はいづこ・・・叫び
 
大阪~奈良の長尾街道(ながおかいどう)は、大仙陵古墳(伝、仁徳天皇陵)から奈良葛城の長尾神社への道です。
 
讃岐の富田茶臼山古墳から阿波の那羅そして葛城は、大きな古墳から葛城、似てます。グラサン
 
 
讃岐にも「長尾街道」があり、脇道ばかりですが妄想探検中です。グラサン
讃岐の常盤橋~長尾寺の長尾街道(ながおかいどう)とは、
江戸時代に高松藩によって讃岐(高松)五街道として制定された旧街道(高松藩街道)のひとつ。
香川県道10号高松長尾大内線の旧道にして前身。
江戸時代当時、玉藻(高松)城外堀に架けられた常磐橋を起点とした、四国八十八箇所第87番札所長尾寺への東讃地域東西より延びる参拝道路の性質を持つ旧街道。
 
 
ご注意ください!
すべて、誤解され野郎のイ探の勝手なモウソウです。昇天
 

まだ千葉氏の白井氏探検が続いています。
 
 
志度寺、長尾寺は補陀落山

 

補陀落山円通寺(本尊は聖観音菩薩)の国仙和尚を"生涯の師"と定め師事した良寛

 

良寛さんの

 

冬籠り 春さり来れば
飯(いい)乞(こ)ふと 草の庵を
立ち出でて 里にい行けば
たまほこの 道のちまたに
子どもらが 今を春べと

手毬つく ひふみよいむな
汝(な)がつけば 吾(あ)はうたひ
吾(あ)がつけば 汝はうたひ
つきて唄ひて 霞(かすみ)立つ
永き春日を 暮らしつるかも

 

 

日本には、「まり」と呼ばれる2枚の鹿の皮を縫い合わせて作り、主に男子の貴族が楽しむスポーツまたは神事として行われた「蹴鞠」と、もう一つが「手まり」で、女児の遊び。江戸時代には男児も一緒に楽しむことがあった。2つの毬があった。歌人としても知られる越後の禅僧・良寛は子供たちとよく手まりで遊んだ

 

 

 

 

イ探の妄想では、補陀落渡海を始めたのは空海の甥といわれる智証大師円珍

 

 

円珍は、役行者の後を慕い大峯、葛城、熊野三山を巡礼し、 那智の滝に参籠。この事跡こそが・密・修験の三道融会をかかげる三井修験道の起源。

円珍 (醍醐天皇より智証大師の諡号。この勅書は、遣隋使・小野妹子の後裔・小野篁の孫の小野道風が書いている。小野氏は孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命(あめのおしたらしひこのみこと)を祖とする和珥氏の枝氏)

868年(空海は33年前の835年没)、866年閏3月、応天門が放火される事件(応天門の変)が起こり、罪人とされた善男が亡くなる。また、この事件では豊城も罪人とされた。
868年6月には円珍(讃岐国出身、空海の甥もしくは姪の息子)が延暦寺座主になる。
 
那智青岸渡寺は、和歌山県那智勝浦町にある天台宗の寺院。
御詠歌「補陀洛や岸打つ波は三熊野の那智のお山にひびく滝つ瀬」 
1090年、智証大師の法脈を継ぐ三井寺の僧で聖護院門跡を創建した増誉(1032年~1116年)が、白河法皇の熊野御幸の先達(案内役)をつとめ、熊野三山検校職(熊野三山の統括職)に補任。

 

久米の子の部屋」さんのブログ記事からは、天平21年(749年)の、いわゆる陸奥国出金詔書において、聖武天皇は、「朕が御世に当りても内の兵」であることを大伴佐伯に求め、大伴家持は、「大伴の遠つ神祖のその名をば大来目主と負ひ持ちて仕へし職 海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍 大王の辺にこそ死なめ」と答えています。とある。
 

※大伴家持は応天門の変(866年)の81年前(785年)に亡くなっている人
大伴氏の遠い祖先の名が大久米主と呼ばれている(大伴連の祖天忍日命が来目部の祖天槵津大来目を率いたとされる)

※天忍日命の父は天石門別安国玉主命(または高皇産霊尊天押人命)。天石門別神(あまのいわとわけのかみ)は、日本神話の神で、紀国造や大伴連の祖神とされるが、阿波忌部・安房忌部の祖神にも同名の神が見られ、天石門別命は異なる二神を指す可能性がある。祭る神社には天石門別八倉比売神社摂社箭執神社(徳島県徳島市)がある。
淳和天皇の諱(いみな)が「大伴」であったため、一族は大伴の呼称を避けるべく、「伴氏」へと改名

 

 

天石門別といえば、社伝には天照大神の葬儀が伝わる式内大社・阿波国一宮論社 天石門別八倉比売神社(あめのいわとわけやくらひめじんじゃ)の神社紋は抱柏。はじめは気延山(標高212.2m)の山頂にあったが、後に気延山南麓尾根の杉尾山の標高110m付近に鎮座。1773年に書かれた文書には、鎮座から2150年、逆算すると紀元前378年となるそうだ。御神体は、杉尾山。杉の尾。つまり、素戔嗚尊の尾。餓鬼道に堕ちた亡母へのお盆の供養とは、かつて鬼道を使って国を治めたヤマト(山門=山戸)国の亡き母、日巫女(ヒミコ)の供養の尾だ!

 






大伴(伴)と佐伯は、聖武天皇の内兵

空海の俗名は佐伯眞魚。
※東国人の捕虜であったが騒がしいことを理由に景行天皇の命で、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5か国に封じられた佐伯部または佐伯直を祖とする佐伯氏。空海は讃岐の佐伯

 

 

 

 

良寛さんの詞の中でたどり着いた、

「城下町」から「市場町」

「吾妻」とは「天皇と皇后」ではないか。

「妻」とは「皇后=糸=絹=手毬=琉球手毬」

沖縄では、数え13歳の子に贈る琉球手毬「十三マーイ」

「手毬つく」=「琉球十三マーイつく」

 

 

 

「手毬つく」のもつ深淵な意味とは、

手毬は女児の遊びで、補陀落山の寺の僧に師事の良寛は子供たちとよく手まりで遊んだ。

「補陀洛や岸打つ波は三熊野の那智のお山にひびく滝つ瀬」佐伯真魚である空海の甥とされる円珍。

「大伴の遠つ神祖のその名をば大来目主と負ひ持ちて仕へし職 海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍 大王の辺にこそ死なめ!」大伴(伴)と佐伯は、聖武天皇の内兵。

「祖天忍日命が来目部の祖天槵津大来目を率いた」

大久米主、鰐、大伴、紀、小野、佐伯、役、阿波忌部、安房忌部

 

 

 

 

天忍日命&天槵津大来目

(大伴&久米)

 

フュ~~~ジョン!

御天久米's(ゴテンクス)

 

 

 

 

天石門別命だ!

 

 

 

 

大友克洋「アキラ」とは!

鳥山あきら!か?

 

大友&鳥山(霊鷲山)

なんてね。

 

 

円(丸、亀、鰐)は竹縄

ではありますが、ではまた。

 

酔っ払い

 

こいつ、ほとんど探検進んでないな