イの国探検隊ファンの皆様、鰐積の皆様、アマでありカミでもある皆様、こんにちは。
先の探検では、陸奥、福島県のクニを探検しました。
その中で、奥の細道の冒頭に三里とあり
福島県には、飯盛山があり、讃岐の飯盛山である飯野山と共通の山だと思いました。
よって、飯盛山を探検です。
なので、我が精鋭の探検隊員を送り込んでみました。
②の続き。
これまで、石巻探検で出てきた福島県の地名から痕跡を探して、あれやこれや探検し、妄想できました。
そこから評(こおり)を知り、福島県にクニがあることが分かりました。
飯盛山にも我が精鋭隊員を送り込み探検した結果、会津の飯盛山とは、讃岐の飯野山。
飯盛山の中腹に木造建築物栄螺堂(さざえどう)。サザエは、リュウテン=「竜天」と妄想。
江戸時代の僧「竜天」は、醍醐寺の真円に事相(密教の修法)をまなび、京都市東山七条にある真言宗智山派の総本山・智積院(ちしゃくいん)17世僧正。
お亀の福にあずかる‘おかめ節分’で賑わう大報恩寺千本釈迦堂に灌頂道場をひらいた。
亀=龍=ワニ
隊名「白虎隊」とは、白虎は、秋=白帝=西=白、秋=月=月光西照宮=西照神社・大滝寺=伊邪那岐命によって生み出された、夜を統べる神
月読命(月夜見尊)と、妄想は極まったあ~たたたた。
月読命(月夜見尊)と、妄想は極まったあ~たたたた。
前回の探検
西国三十三観音巡礼の飯盛山の栄螺堂とは、宗像神社、厳島神社の別当で、長谷寺でした。
堂内に納められていた西国三十三観音巡礼の観音像は、第十四代仲哀天皇の后大仲姫(神功皇后、気長足姫尊)4世紀後半頃と伝わる墳墓古墳石櫃に一旦納められていた。
堂内に納められていた西国三十三観音巡礼の観音像は、第十四代仲哀天皇の后大仲姫(神功皇后、気長足姫尊)4世紀後半頃と伝わる墳墓古墳石櫃に一旦納められていた。
約270年後、第65代天皇退位出家した花山法皇が那智山青岸渡寺での修行中、熊野大権現からお告げを受け、観音巡礼を再興。
この那智山青岸渡寺といえば、補陀落信仰で、役行者や、伝教、弘法、智証、叡豪、範俊らの高僧が相次いで法燈を守り続けた寺。
この那智山青岸渡寺といえば、補陀落信仰で、役行者や、伝教、弘法、智証、叡豪、範俊らの高僧が相次いで法燈を守り続けた寺。
補陀落信仰といえば、渡海。紀氏、伴氏(大伴)が政界から消える「応天門の変」の後、命を救う秘密作戦と妄想。空海の甥・智証大師円珍の那智山青岸渡寺から
聖武天皇!「海行かば水漬く屍」(by大伴家持)の補陀落渡海へと妄想はつながる。
やや話が飛ぶが、補陀落といえば源義経の愛した静御前の母・村上天皇の血筋と思われる長町磯が、孤児から日本一の芸妓に新たな門出をしたアマの玉とり伝説の四国八十八霊場86番札所補陀落山志度寺。
そして、【志度寺御詠歌】「いざさらば 今宵はここに志度の寺 祈りの声を耳に触れつつ」、孤児・長町磯は義経の母の出身摂津国江口へ旅立つ。
飯盛山の栄螺堂とは、
海神
ワニの祈りだ!!!だ!?
飯盛山の栄螺堂とは、
海神
ワニの祈りだ!!!だ!?
でした。
会津の飯盛山の三匝堂(さざえ堂)は、正宗寺の仏堂として、江戸時代後期の1796年に会津若松の実相寺の僧で当時の住職であった郁堂(いくどう)の考案・建立。
なので、郁堂さんとは何者かを調べようと探しましたが見つかりませんでした。
そこで、実相寺はどうかと調べようとしましたが、存在はするようですが、その詳細は不明でした。
これでは、にっちもさっちもいきませぬ。
そこで、今回の探検は、とりあえず、柿本人麻呂さんが
「玉藻よし讃岐の国は 国柄か 見れども飽かぬ 神柄か ここだ貴き 天地 日月とともに 満りゆかむ 神の御面と 継ぎ来る 中の水門ゆ 船浮けて わが漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち…」と、のたまわっている「神の御面と継ぎ来る」を信じて讃岐内を安易に探検です。
讃岐で栄螺堂の「正宗寺」を探すと、
香川県丸亀市前塩屋町に、慧日山正宗寺があります。
浄土真宗本願寺派。
円光大師法然御遺跡四十八所の番外札所。
正宗寺三匝堂との関係はわからないが、この丸亀市の正宗寺は、法然が建永の法難で流罪の途中、 戦国時代までは塩飽水軍の本拠である塩飽(しあく)本島笠島浦(かさじまうら)に入ったが、讃岐本土の小松庄(現、高篠)へ移ることになり、船で塩屋に上陸。
円光大師とは、法然の大師号の一つで、500年遠忌の行なわれた正徳元年(1711年)以降、50年ごとに天皇より加諡され、平成23年(2011年)現在、円光大師、東漸大師、慧成大師、弘覚大師、慈教大師、明照大師、和順大師、法爾大師の8つであり、この数は日本史上最大。
法然の建永の法難とは、
1205年の藤原北家ともいえる興福寺による念仏批判から1207年の法然配流までの法難のこと。
法然の建永の法難とは、
1205年の藤原北家ともいえる興福寺による念仏批判から1207年の法然配流までの法難のこと。
三大法難の一つ。「承元の法難」とも呼ばれる。
律令社会は崩壊、権力は京都王朝から鎌倉幕府に移る源平の戦乱、地震、台風、飢餓などが起こり、人々は無常を感じた。
平家物語の「祇園精舎の鉦の声、諸行無常の響きあり」
鴨長明(1155~1216)の方丈記の「ゆく河の流れは、絶えずして、しかももとの水にあらず」
これらの言葉は、この時代の人々の実感を表したもの。
当時の仏教は、権力者や貴族達だけの貴族仏教だった。
法然は、東山の吉水(よしみず)に草庵を結び、年齢や身分に関係なく、全ての人たち老若貴賎(ろうにゃくきせん)を問わず 教え同化する「教化」、すべての人は平等で、南無阿弥陀仏と称え救われると説いた。
1186年、天台宗の学匠顕真(1131年~1192年)と専修念仏について議論「大原問答」で注目。
1190年には重源(1121年~1206年)の要請で東大寺で講説「称名念仏が弥陀に選択された唯一の往生行である」との選択本願念仏説(専修念仏)を披露。
元久2年9月に興福寺が法然らの処罰を朝廷に訴えたことが発端。
同10月起草の『興福寺奏状』という興福寺が朝廷に訴えた奏状で、浄土に往生するため、念仏以外の行をまじえず、〈南無阿弥陀仏〉とただひたすらに念仏を唱える専修念仏が一門に偏執し他宗を軽んずる点を非難し、その過失を停止し、法然と弟子らに罪科を行うように求めている。
同12月29日朝廷は宣旨を出したが、不満な興福寺はさらに朝廷に訴えた。
1206年2月から8月にかけて、蔵人の頭として実際に興福寺との折衝に当たった記主三条長兼によって興福寺側と朝廷側の交渉の経過が記されており、最終の結論は明らかでないが、後鳥羽上皇の考えもあり、法然には問題はなく、弟子安楽房遵西と法本房行空に偏執があるため両人を罪科に処することで合意した。
この後も上皇は偏執について有力公卿や元老に諮問を行っているが、結局処罰の宣旨が出された形跡はない。
このような情勢のなか1206年に事件が起こった。
「建永元年12月9日、後鳥羽院熊野山の臨幸ありき、その頃、上人の門徒住蓮・安楽等の輩、東山鹿谷にして別時念仏を始め、六時礼讃を勤む。定まれる節・拍子なく各々哀歓悲喜の音曲を為すさま、珍しく貴かりければ、聴衆多く集まりて、発心する人も数多聞こえし中に、御所の御留守の女房出家の事ありける程に、還幸の後、悪し様に讒ざんし申す人やありけん」と、後鳥羽上皇が熊野参詣の留守中に、住蓮・遵西の別時念仏。
この院の小御所の女房を伊賀局亀菊、また坊門局とする説などがある。
上皇の逆鱗に触れた両名は処刑。
その後、専修念仏停止は広がり、同年2月9日には一向専修の輩が捕われ、同28日には法然は「藤井元彦」を名前として還俗させられ、土佐国、親鸞は越後国に配流とする宣旨。
土佐国に流される途中、九条兼実の庇護により3月16日法性寺を出発し、経の島・室の泊を経て、その後変更され配所となった讃岐国に入った。
同12月8日には勅免の宣旨が下り、四国を離れて摂津国勝尾寺に滞在することとなった。
讃岐で栄螺堂の「正宗寺」を探すと、
香川県丸亀市前塩屋町に、(日本史上最大の8つの大師号を持つ)円光大師法然御遺跡四十八所の番外札所。浄土真宗本願寺派、慧日山正宗寺がありました。
正宗寺三匝堂との関係はわからないが、この丸亀市の正宗寺は、1205年の興福寺による念仏批判から1207年の法然配流までの法難「建永の法難(承元の法難)」で法然が流罪。 法然は塩飽水軍の本拠である本島笠島浦に入り次いで、讃岐本土の小松庄(高篠)へ移っている。
この法難の背景は、律令社会は崩壊、権力は京都王朝から鎌倉幕府に移る源平の戦乱、地震、台風、飢餓などが起こり、人々は無常を感じていた。
平家物語「祇園精舎の鉦の声、諸行無常の響きあり」
鴨長明の方丈記「ゆく河の流れは、絶えずして、しかももとの水にあらず」
当時の仏教は、権力者や貴族達だけの貴族仏教で、法然は、東山の吉水に草庵を結び、全ての人たち老若貴賎を問わず、すべての人は平等で、南無阿弥陀仏と称え救われると説き、同化する「教化」を行った。
1190年には重源の要請で東大寺で講説「称名念仏が弥陀に選択された唯一の往生行である」との選択本願念仏説(専修念仏)を披露。
重源といえば、静御前の捨てた鼓は、重源が唐より持ち帰ったもの。
香川県丸亀市前塩屋町に、(日本史上最大の8つの大師号を持つ)円光大師法然御遺跡四十八所の番外札所。浄土真宗本願寺派、慧日山正宗寺がありました。
正宗寺三匝堂との関係はわからないが、この丸亀市の正宗寺は、1205年の興福寺による念仏批判から1207年の法然配流までの法難「建永の法難(承元の法難)」で法然が流罪。 法然は塩飽水軍の本拠である本島笠島浦に入り次いで、讃岐本土の小松庄(高篠)へ移っている。
この法難の背景は、律令社会は崩壊、権力は京都王朝から鎌倉幕府に移る源平の戦乱、地震、台風、飢餓などが起こり、人々は無常を感じていた。
平家物語「祇園精舎の鉦の声、諸行無常の響きあり」
鴨長明の方丈記「ゆく河の流れは、絶えずして、しかももとの水にあらず」
当時の仏教は、権力者や貴族達だけの貴族仏教で、法然は、東山の吉水に草庵を結び、全ての人たち老若貴賎を問わず、すべての人は平等で、南無阿弥陀仏と称え救われると説き、同化する「教化」を行った。
1190年には重源の要請で東大寺で講説「称名念仏が弥陀に選択された唯一の往生行である」との選択本願念仏説(専修念仏)を披露。
重源といえば、静御前の捨てた鼓は、重源が唐より持ち帰ったもの。
法然-重源-源義経-静御前がつながる。
さらに静御前得度の長尾寺-明印「不期天上一円月、忽入西方万里雲」-菅原道真-月-月読命
明印-極楽寺-法相宗
とつながる妄想。
静御前が捨てた鼓とは、重源僧上が唐から持ち帰り天皇に献上され、後白河法皇より平清盛に下賜されて平家の宝だった。屋島合戦の壇の浦の波間に漂っていたのを伊勢の三郎が見つけて義経に献上。1188年3月長尾寺で得度した静御前は、源義経から形見として贈られた鼓を、煩悩を断ち切る証として投げ捨てた。
「不期天上一円月、忽入西方万里雲」、極楽寺の法相宗
建永の法難は、〈南無阿弥陀仏〉とただひたすらに念仏を唱える専修念仏が一門に偏執し他宗を軽んずる点を非難し、その過失を停止し、法然と弟子らに罪科を行うように求めた『興福寺奏状』で興福寺が法然らの処罰を朝廷に訴えたことが発端。
興福寺といえば、これまでの妄想で、空海は藤原氏北家と春日氏(和珥氏)と接点があり、「応天門の変」以降、空海亡き後はその身内の延暦寺・円珍が渡海を始めたと妄想。
聖武天皇!~海行かば水漬く屍~ (by大伴家持)
つまり、応天門の変で命を狙われた者が渡海をしたならば、なんとか命を救うために、補陀落信仰と称して渡海行事を作り秘密裏に脱出させた可能性が高いと妄想する。那智は自然信仰で仏像の興福寺は正反対な感。
興福寺には釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来、そして国宝の阿修羅像は女性的であり、神秘的。
補陀落渡海
朝廷は宣旨を出し、不満な興福寺はさらに朝廷に訴えたが、後鳥羽上皇の考えが考慮され、法然には問題はなく、弟子安楽房遵西と法本房行空に偏執があるため両人を罪科に処するとしたが、結局、処罰の宣旨が出された形跡はない。
このような情勢のなか、後鳥羽上皇が熊野参詣の留守中に、住蓮・遵西の別時念仏を行い上皇の逆鱗に触れた両名は処刑。
その後、専修念仏停止は広がり、一向専修の輩が捕われ、法然は「藤井元彦」を名前として還俗させられ、土佐国、親鸞は越後国に配流の宣旨。
法性寺を出発し、経の島・室の泊を経て、土佐国に流される途中、藤原北家、関白・藤原忠通の六男で、宮中における儀式の次第が詳細に記されている日記『玉葉』執筆の九条兼実の庇護により変更され配所となった讃岐国に入った。
勅免の宣旨が下り、四国を離れて摂津国勝尾寺に滞在することとなっっている。
後鳥羽上皇が考慮して法然は一旦は無罪。
法性寺を出発し、経の島・室の泊を経て、土佐国に流される途中、藤原北家、関白・藤原忠通の六男で、宮中における儀式の次第が詳細に記されている日記『玉葉』執筆の九条兼実の庇護により変更され配所となった讃岐国に入った。
勅免の宣旨が下り、四国を離れて摂津国勝尾寺に滞在することとなっっている。
後鳥羽上皇が考慮して法然は一旦は無罪。
配流となっても、藤原北家の九条兼実の庇護で、讃岐国へ配流変更。
その後、勅免の宣旨で讃岐から摂津へ流されている。
飯野山である飯盛山の「正宗寺」が讃岐丸亀の「正宗寺」と関係していれば
法然は、天皇や藤原北家から何らかの庇護を受ける立場だった。
つまり、妄想では会津の正宗寺は天皇や藤原北家から何らかの庇護を受ける立場だった!のではないかい?
法然とは何者?
なぜ讃岐、摂津?
なぜ讃岐、摂津?
摂津は、西国三十三所観音巡礼が閻魔大王に選ばれた観音菩薩をまつる33の寺院を西国三十三所。2府5県(京都、大阪、和歌山、奈良、兵庫、滋賀、岐阜)に広がる日本最古の巡礼。大和国の長谷寺の開基である徳道上人が、病のために亡くなるが冥土の入口で閻魔大王に会い、生前の罪業によって地獄へ送られる者があまりにも多いことから、宝印に従って霊場を定めた。人々に説くが世間の信用が得られずあまり普及しなかったため、機が熟すのを待つこととし、宝印を摂津国の中山寺の石櫃に納めた。
摂津は西国三十三所観音巡礼と配流の法然がつながるが、讃岐が気になるところ。
今日も、瞑想(迷走)イ探妄想ですよ。
今日のところは、このへんで
ではまた。